岡潤一郎物語
作:川村佳弘
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(写真提供:さーじゃんさん)

・生年月日 昭和四十三年十二月七日
・出身地  北海道様似郡様似町
・血液型  B型
・家族   父、誠 母、雅子 弟、憲二郎

 栗東・安藤厩舎所属で騎手デビュー。いきなり四十四勝を挙げ、新人賞を受賞。
一躍、脚光を浴びる。関西リーディング・ベストテンの常連となり、安定した成績を残す。
三年目には、ユートジョージでNHK杯を勝ち、重賞初制覇。
次の年には、GTエリザベス女王杯をリンデンリリーで勝ち、晴れてGTジョッキーとなる。
さあ、これからという時の平成五年冬、京都競馬場でレース中、落馬。
二十四歳の短い生涯を閉じる。本当に惜しい命だった。
同期には、岸、千田、内田浩、菊沢徳、藤原騎手などがいる。

(主な騎乗馬)
リンデンリリー(エリザベス女王杯など)
ユートジョージ(NHK杯など)
ノーザンドライバー(ペガサスSなど)
ムービースター(マイルCSなど)
ディクターガール(マイルCS)
オグリキャップ(宝塚記念)
ナエボオルフェ、エリモドミネ、インターネイティブなど。


大親友・千田輝彦

 一番、仲が良かったのは、同期でもある千田輝彦騎手。
彼は、北海道の様似町に何度も、墓参りに訪れている。
岡騎手の母・雅子さんも「千田クン」と呼び、話に一番多く名前が出てくることからも千田騎手と岡騎手の仲の良さが窺える。
 千田騎手は、夏は札幌と函館で騎乗する。その度に様似に足を運んでいる。
私も、この夏、二度、岡宅を訪ねたが、その二度の間にも彼は来ていた。
騎手は夏のローカル開催の時期になると、北海道か九州もしくは新潟に出張する。
過ごしやすい北海道は、超一流騎手が集まる。
千田騎手が、その激戦区に毎年参戦するのも、おそらく、岡騎手の地元、そして、墓参りと雅子さんと岡騎手の思い出話をするためだと考えられる。
 雅子さんは、そんな千田騎手をかわいがっている。
今年の札幌競馬の彼の騎乗数が減ったことを気にしていた。
「去年は、もっと乗れていたのにねえ」
「浅見(調教師)先生に馬をたくさん、乗れると思っていたんだけど」
「調教で乗れても、レースで乗せてくれないことが多いみたいね」
 などと心配している。少し息子のような感覚があるのかもしれない。
 その千田騎手は、岡騎手の最後のレースで騎乗している。そして、事故直前、声を掛けている。
四コーナー手前で、岡騎手のオギジーニアスに並びかけた時に「お先に」と言っていた。
千田騎手のマックスディガーは、上位争いをしていたことから、後ろで起きた事故は、分からなかったそうだ。
二着でレースを終え、検量室に戻った時に、岡騎手の落馬を知った。ただ、職業柄、落馬はしょっちゅうある。
それほど、大げさなことではないと感じていたらしい。しかし……。

 岡騎手の亡くなった四日後、GU京都記念が行われた。
千田騎手は、人気薄のダイイチジョイフルに騎乗していた。
そこで、無念を晴らすかのような大胆な乗り方で、僅差の三着に入線。
直線あわやという場面を見せていただけに、惜しい結果だった。
 雅子さんに、千田騎手のことを聞けたことで、岡騎手との仲をリアルに感じることができた。
 そして、雅子さんは今でも、千田騎手が騎乗する札幌に毎年、何度か観戦に行くという。


ライバル・岸滋彦騎手

「二人の時代をつくろう」
 これは、岡騎手のライバルといわれ、同期でもある岸滋彦騎手との間で交わされた会話だと言われている。
雅子さんは、岸騎手について、
「岸クンとは、いいライバルでした。新人の時も最後まで競り合って、確か、岸クンが騎乗停止になって、
ジュンが新人最多勝になったんじゃないかな」 
 その岸騎手も、武豊騎手と石橋騎手と共に様似に足を運んでいる。

 岸騎手は、杉本アナウンサーによると、おとなしい性格だという。
しかし、活躍ぶりは派手であった。
二十番人気のサンドピアリスで、エリザベス女王杯を勝つと、翌年には、エイシンサニーでオークスを勝ち、
「牝馬の岸」「西の大穴男」と言われた。
岡騎手は、「新人賞を獲るのは僕」「同期には、絶対負けたくない」と、インタビューの度に言っていた。
岸騎手に対して、相当、意識していたと思われる。
私は、岡騎手は、強気な負けず嫌いな性格だと思っていたのだが、雅子さんは、
「負けず嫌いというより、とにかく明るい」と言っていた。
勝負師としての顔を、母には見せていなかったのだろうか。

 岸騎手も、岡騎手の最後のレースに騎乗している。しかも、勝っている。
しかし、このレースを境に大スランプに陥ることになる。
まさに「二人の時代」が、終わってしまったという感じで、これまでの勢いがなくなってしまった。
 平成五年二月十六日。岡騎手の亡くなった日である。
この日の朝の調教中、岸騎手は浜田調教師に、ビワハヤヒデの降板を通告されている。
ビワハヤヒデは、岸騎手がずっと手綱をとり、クラシック最有力候補として、彼が期待していた馬である。
実際、後に岡部騎手を背に、皐月賞、ダービーを二着、そして菊花賞などGTを三勝している。
この日の午後、岡騎手の訃報。まさに悪夢の日だっただろう。
岸騎手は後に、「今の成績じゃ、岡クンに怒られますよ」 と、コメントしていた。
 生前の岡騎手と騎手仲間で、最も刺激し合った岸騎手、大親友の千田騎手のこれからの活躍を祈りたい。
 やや、本タイトルと内容がずれてしまったが、書き記させて頂いた。
次の項から、岡騎手本人について、もっとせまろうと思う。

騎手なったきっかけ

出身の様似は、馬産地でもある。
しかし、競馬とは無縁の家庭だった。
父の誠さんは、公務員。競馬中継など観たことは、なかったらしい。
突然、中学一年の潤一郎少年は、騎手になりたいと言い出した。
それは、野球部の先生が、薦めたからであった。先生は、競馬好きであった。
体が小さく運動神経がいい潤一郎少年が目に止まったらしい。
それが、きっかけであった。
しかし、アクシデントが起きた。
競馬学校に願書を請求した日は、不運にも、締め切り日の次の日であった。
一年の回り道である。
雅子さんは、「応募者が多くて、一日の遅れでも駄目でした。
何とかなるんじゃないかと思いましたが駄目でした」
 と、言っていた。
JRAは、公的な企業。やはり、融通は利かなかった。
私は、「でも、次の年受験して、受かったんだから才能があったんですね。」 と言ったら、
「運動神経が良かったし、試験もうまくいったみたい」
 と、少し照れくさそうに話していた。
一年の回り道など、あまり気にしていない様子であった。
ちなみに、一年早く入っていたら、武豊騎手と同期になっていた。

 潤一郎少年は、競馬学校時代、ほとんど実家には帰っていない。
実家に帰ると体重が増える傾向があるからであった。
でも、正月など東京で会い、明治神宮にお参りしたなど、懐かしさ溢れる表情で話していた。
父母と弟と四人で東京で会うことが何度か会ったという。
弟の、憲二郎さんは、顔はあまり岡騎手と似ていない。
札幌の大学を出ながら、様似で就職している。親思いで、真面目なんだなと、お会いして私は感じた。

 平成六年六月十六日。札幌競馬で史上初の五連続騎乗五連勝という快挙を成し遂げる。
 まだ、岡騎手デビュー二年目である。
四レース〜八レースで、それぞれ、11.2.7.1.2番人気の馬で勝利を挙げる。
雅子さんは、札幌競馬場で、この記録を目の当たりにしている。
「ジュンは、この土日の騎乗を終えると、家に帰ってくる予定でした。なので、お父さんと迎えに札幌競馬場まで行きました」
 この日のレースの単勝馬券は、今も岡家の居間に飾ってある。きちんと額に収められている。
初重賞制覇であるユートジョージの馬券も一緒に収められていた。
「ラッキーセブンということで、七百円ずつ買いました。でも、合計金額に四と九が入るので、一つは千円にしました」
 貴重なものである。
 この日の札幌は、河内、松永幹、横山典騎手といったメンバーが揃っていた。
しかも、惜しいことに、記録の始まる前の三レースでも二着に来ている。五連勝もすごいが六連続連対もすごい。
 様似の実家に帰った岡騎手は、さすがに喜んでいたという。
その様子を雅子さんは、「日刊スポーツを見て、ヤッターと叫んでいましたよ。一面に載っていたし」
 と、私の座っている後ろの方を見て話していた。
多分、私の後ろにある畳の部屋で、岡騎手は、スポーツ紙を見ていたのだろう。
 これがデビュー二年目。記録でも記憶でも残ることをやってのけた大型新人。
将来を嘱望され、次の年、さらに飛躍の年を迎えるのであるが、挫折も味わう。
初重賞制覇と、GT惜敗である。


ユートジョージで重賞初制覇

デビュー三年目の平成二年五月六日。岡騎手は、やっと重賞を勝った。
所属の安藤厩舎のユートジョージでGUのNHK杯を快勝した。
 ユートジョージは、名前から想像できるように、父はミルジョージで、四代前にはナスルーラのクロスがある。
やや気性難で、このNHK杯の時も斜行している。
未勝利を脱出するまで七戦かかり、すぐには頭角が表れなかった。
しかし、年明けの一月に初勝利を飾ると、二戦目の平場の五百万下を二着馬に五馬身ちぎり、能力の高さを示した。
続く、オープンのすみれ賞(当時)も危なげなく快勝し三連勝。
次の春蘭ステークスは、クビ差だけ及ばず二着に敗れたが、上々のレースぶりで、ダービートライアルのNHK杯に挑戦することになる。

岡騎手は、NHK杯の日が東京競馬場初見参。しかし、コース未経験とは思えないほどの活躍を見せる。
NHK杯を含め三鞍に騎乗して一勝、二着二回と暴れまくった。
そして、ダービー出走権を手に入れ、乗りに乗っていた。
堂々の重賞ウイナーとして、ユートジョージはダービーに挑戦する。
四番人気に支持されたが、アイネスフウジンに逃げ切られる。展開も向かなかったのか九着と惨敗。
この後、ユートジョージは不振に陥り、二度と好走することはなかった。
そして、平成四年五月の豪トロフィーを最後に公営・宇都宮競馬に移籍した。
 平成六年の一月ユートジョージは地方所属でありながら、中央の平安S(地方交流競走)に出走してきた。
結果はブービーの十五着に終わったが、この時、すでに岡騎手はこの世にはいなく、岡ファンとしては、すごい懐かしさを感じた。
ちなみに同レースでシンガリに負けたのは、岸騎手鞍上のマミーグレイス。
ライバルの乗った馬には先着というのも何か因縁を感じる。


名馬との出会い

 競馬ブームを巻き起こしたオグリキャップ。
岡騎手は、宝塚記念でこのオグリに騎乗している。
岡騎手は、一年の回り道をした際、浦河高校に通っているが、
オグリのオーナー近藤氏も浦河高校出身ということから、騎乗が決まったという。
しかし、結果は二着。断然の一番人気で敗れたのでマスコミにたたかれた。
相当、ガックリきていたという。
 雅子さんの言う「明るさ」で屈辱をバネにして、翌年、リンデンリリーでGTのエリザベス女王杯を勝った。
道中は、岸騎手のタニノクリスタルと並走し、直線は離す一方。
ハナ歌を歌いながら乗っていたという話があるほど、強い勝ち方だった。
雅子さんは、七月の時点ではリンデンリリーとは対面したことがないと言っていた。
しかし一ヵ月後お会いした時は、二度ほど会いに行ったという。
「静内から、幌別の福田牧場に移ってきたと聞いて、会いに行ってきました」
 確か、このリリーの移動の情報を、雅子さんに伝えたのは私である。少し嬉しい。
「感じの良い牧場で、奥さんに案内してもらいました」
 雅子さんの言葉通り、感じの良い牧場である。
私もリンデンリリーに会いに行った際、親切に案内をしてくれた。
牧場のお兄ちゃんによると、近づくのも恐いくらい気性が激しいという。
今年は、フォーティナイナーを種付けしている。
静内から移ってきたのは、環境が合わなくて体調を崩したからだという。
 もちろん、私も近づけなかったが、栗毛の美しい馬体は、映えていた。
今も、リンデンリリーに会いに来るファンが後をたたないという。


ヤングジョッキーズS制覇

 ヤングジョッキーズSは、JRAのイベントレースの一つである。
レースには、若手の騎手ばかりが騎乗し、腕を競い合う。
ベテラン騎手がいないので、のびのびとして、かつガッツ溢れるプレーが見れるレースである。
岡騎手は、同期である岸騎手以外に、よく同じ厩舎(鶴留厩舎など)の馬を乗っていた一期下の角田騎手をライバル視していたという。
そして、そのライバルということに人一倍、意識していた節がある。
そんな、岡騎手にとって、ライバルと直接対決で思う存分、しのぎを削れる格好の舞台が、ヤングジョッキーズSだったと思う。
そのヤングジョッキーズSを平成四年に勝った。
栗東・上田厩舎の管理馬カシワズハンターで快勝した。この時のコメントは、
「みんなレース前から、異常にはりきっちゃてて、何か僕も、気合の入り方が違いましたよ。
だから、勝ててすごく嬉しい」と満面のはちきれそうな笑顔で応えていた。
ちなみに、このレースの三着には岸騎手のフミノゼウス、五着に千田騎手のエルサルパドールが、それぞれ入線していた。
角田騎手のイブキハクラクテンは十着と大敗していた。
ライバルを倒しての勝利、さぞ嬉しかったと思う。
ただ、今になってみると、このレースの一年後には、岡騎手はこの世にはいない。何か、空虚感を感じる。

 さて、このヤングジョッキーズSの制覇は実は四度目の挑戦でのことであった。
初めての挑戦の平成元年は、なんとシンガリの十二着と惨敗している。
そして、続く平成二年は、またもや九着と敗れている。しかも、この時は特に悔しかったことと思う。
それは、勝ったのが、ライバル岸騎手のアインステルンだったからである。
三度目の挑戦となる平成三年は、ヤマニンチーフに騎乗し、二着と躍進した。
そして、翌年勝ったのである。毎年、着実に着順を上げて、最後に勝つという、なんとも岡騎手らしい所が見受けられる。
 デビューの年に新人賞。二年目には、五連続騎乗五連勝、三年目には重賞制覇、四年目にはGTを勝った。
順調だった。


突然の悲劇

 騎手生活六年目の平成五年。岡騎手は、不調にあえいでいた。
年明けの金杯(GV)などにも騎乗はなく、一月末日を迎えていた。
その一月三十日。運命の日である。京都競馬七レースの新馬戦。
 一番人気のオギジーニアスに岡騎手は、跨っていた。
勝つチャンスである。しかし、悲劇は起きた……。

 オギジーニアスは、先頭でレースを進めていた。
四コーナーで、岸騎手のタイジュリエットと千田騎手のマックスディガーが並びかけてきた。
さあ、同期三人の追い比べといきたいところだが、オギジーニアスは、手応えが悪く、やや、後退。
その直後、オギジーニアスの左後脚に故障が発生した。
バランスを失ったオギジーニアスは、そのまま転倒した。
それと同時に鞍上の岡騎手も、馬場に投げ出されてしまった。
そして、この時の反動で、頭を守るヘルメットが、ずれてしまった。
トップスピードで走る後続集団の馬群が岡騎手に、せまってきていた。
その中の一頭が、よけきれずに、岡騎手の頭部に接触した。不運にも、ヘルメットのずれた部分にあたってしまったのだ。
岡騎手は、意識不明の重体に陥る。

 雅子さんは、様似の自宅でこのレースを、ラジオで聴いていた。
直感的に、事の重大さを感じたという。
そして、すぐに京都の病院に向かった。
 この落馬事故の映像は、次の日、朝のワイドショーでも流された。
普段、競馬のことなど扱わないワイドショーが扱ったことでも事の重大さが表れていた。
ただ、興味なさそうに、話す司会者が腹立たしかった。

 この事故で、オギジーニアスは、直ちに安楽死の処置が取られ、この世から去った。
岡騎手は十七日後の二月十六日まで、懸命に闘った。
この十七日間、連日、スポーツ紙の競馬面で岡騎手の容体が報じられていた。
私は、連日記事が、危険な状態と伝えていたにもかかわらず、亡くなるとは、思ってもみなっかった。
どうしても、あの若い岡騎手が、この世からいなくなってしまうことが、頭の中で現実と結びつかなかったからだ。

 しかし、事態は、確実に悪い方向に向かっていった。
岡騎手は脳死状態に陥り、二月九日には肺炎を併発、二月十三日には三十九度の高熱に犯された。
そして、懸命な治療もむなしく、二月十六日、午後零時五十七分、彼は力尽きた。
岡潤一郎騎手の二十四年のあまりにも短い生涯に幕が降りた。
事故から十七日目の事だった。
最期は、両親と安藤助手に看取られた。

 二月十七日、新聞で私は、彼の死を知った。
「岡騎手、天国へ」この活字を見た時、私は一ファンとして、悲しいとか寂しいというより、とにかく信じられなかった。
でも、心と体が凍りつくのを感じた。岸騎手も千田騎手も、コメントできない状態と報じられていた。

 雅子さんは、涙を溜めて、話していたので、とても亡くなった直後のことなど聞くことはできなかった。
 岡騎手の死から、約一年後の平成六年四月二十日。
父の誠さんも、以前から患っていた大腸ガンが原因で、この世を去った。
 様似の町が眺望できる小高い丘の上で、岡騎手は、父の誠さんと眠っている。
岡騎手の死から、五年半、今も騎手の方々、ファンの人達が様似に来るという。私も、二度伺った。
雅子さんは、「ジュンに会いに来る人がいる時は必ず晴れる」 と言っていたが、
雨男の私は、一度目は晴れたが、二度目は、暴風雨に遭った。
でも、墓参りを終え、丘を降りている時、ほんの一〜二分だが、ピタリと雨が止んだ
。偶然だと思うが、不思議な感じがした。

 雅子さんは、親切である。私のような者でも、話をして頂き、帰りには駅まで、車で送ってくれた。
車中でも、リンデンリリーのエリザベス女王杯の副賞でもらった車に今でも乗っていることや、
様似のお祭りのことなどの話を聞いた。
そして、今でも競馬と触れ合っていることが意外だった。結果的に息子の命を奪ってしまった競馬。
でも、天国の岡騎手が築いた人間関係、そして馬を愛する気持ち(ノーザンドライバーとキスをする映像が残っている)を
そのまま受け継いだかのように、雅子さんは競馬と接している。

 人の死は、美化される。でも、岡騎手は華のある光る騎手であったことは、間違いない。
人それぞれの競馬への思いがあると思う。
私もいつかこの世からいなくなる。あの世があれば是非、岡騎手と会いたいと思う。そう願っている。


あとがき

 この取材を通して、実際に岡潤一郎騎手のお母さん・雅子さんや牧場の方々など、
競馬関係者の人達とお会いすることができた。
それは、今まで遠い世界の人達と思っていた私にとって、すごい進歩だったしプラスになった。
もはや、遠い世界の人達ではないと思うようになった。
私が将来、仕事するにあたって、いいきかっけになったと思う。
おそらく、ジャナ専の「取材・制作実習」の講座の目的も、そこにあるのではないだろうか。

 私は取材中、いろいろな人の協力によって助けられた。まず、様似町の鈴木自転車店のおじさん。
朝、突然、「今日一日、自転車を貸してください。怪しい者ではありませんから」
 と、いかにも怪しそうな格好の私に対して、二つ返事で「いいよ、一応名前は?」
 と言って、自転車を貸してくれたおじさん、本当にありがとうございました。

 それから私は、様似町を岡騎手のお墓と実家を探して、自転車で走り回った。
迷って山奥まで言ってしまった。しかし、街の人に岡騎手のことを聞くと、皆さん親切に道を教えてくれた。
「ああ、岡潤一郎ね。知っているわよ。確か栄町に実家があるわよ」
 と、皆さん(三人)が同じ様に、私に道を教えてくれた。ありがとうございました。

 最後に、岡騎手のお母さん雅子さん。いろいろ貴重な話をして頂き、参考になりました。
居間にあった写真もファンなら驚くものばかりで、感動しました。
特に、岡騎手が真ん中に写っていて、両脇に武豊騎手と松永幹夫騎手、
ちょっと後ろに岸滋彦騎手が写っている写真は、生前の岡騎手のトレセンでの表情がよく表れていて、驚きの一言です。
私は、毎週、岡騎手の同期である千田騎手、岸騎手の騎乗馬をチェックしながら競馬を観戦し続けています。
 私のテンポの悪い質問に答えて頂いた雅子さんに感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。

       
参考文献
・ 優駿
・ 競馬四季報
・ 日刊スポーツ