|
(九)
アリーナの中に張りつめた空気が満ちる。
「正式な試合だと十エンド制なんだけど。時間もかかるし、六エンドでどう?」
愛里が、手にしたブラシの面を手袋をした手で撫でながら、和子に訊ねてくる。
エンド数が増えれば増えるほど、本来の地力がものをいうだろう。番狂わせを期待するなら、短いほうがいい。咄嗟に和子はそう判断した。
「それでいいわ」
「じゃ、いくよ」
和子の返事を聞いた愛里が、ブラシを脇に抱えるとポケットから両面を白と黒に塗ったコインを取り出した。なにを始めるのかと見守る和子達の前でそれを親指で弾きあげ、落ちてきたところを左手の甲で受けてすかさず右掌で隠す。
「白、黒、どっち?」
「……え、えっと、白」
なにが始まったのか良くわからないままに聞かれ、和子はなにも考えずに答えていた。
愛里が掌をどける。黒が表を向いていた。
「私たちが後攻ね」
にっと笑った愛里が宣言する。
厳密に言えば、コイントスに勝った側が後攻になるのではなく、先攻と後攻を選ぶか、赤と黄の二組あるストーンのどちらを使うかを先に選べる権利を得るのだ。自ら望んで先攻になるメリットは皆無に近いため、後攻を選ぶことになる。
もっとも、ごくまれにストーンも使い込まれるうちに痛んでクセが出てくるために、それを知っている側がストーンを選ぶ権利を行使する場合もある。もちろん、このカーリングアリーナをホームグラウンドとする和子達ならいざしらず、ストーンのコンディションが判らない愛里達がそちらを選択する筈もなかった。
実際問題、ストーンに明白な違いがあるとは和子もこれまでの練習で感じていない。どちらでもいいと思って黄色のストーンを選択した。『レディ・レックス』のユニフォームが赤系統なので、相手に赤を譲った格好になる。
「ああもう、せめてコイントスぐらい勝ってよね」
ゆかりがものすごいしかめ面でにらんできて、和子は後ずさった。
「う……。ご、ごめん……」
「今、言い争っても仕方がないやん。それに、各エンドで点をとられたチームが、次のエンドでは後攻になるってルールやし。たとえ第一エンドで点をとられても、次で挽回すれば帳消しになるって」
空音がなだめる。なぜかゆかりは空音に弱く、今度も「ま、そううまくいけばいいけど」と、渋々引き下がる。
「ありがと、空音」
「お礼なんてええから。それよりも、ポジションをはよ決めよ」
思わず頭を下げると、空音からは予想外に厳しい口調が返ってきて和子は戸惑った。が、気を取り直してポジションを考える。
カーリングは一チーム四人で行う。それぞれリード、セカンド、サード、スキップのポジションを選ぶことになる。
「和子がスキップをやったらええ。なんといってもカーリング部の主将や」
和子の考えを先回りするように、空音が言った。
スキップは、ブラシでリンク上を磨くスウィーパー役が回ってこない代わり、チームの司令塔として指示を出す重要なポジションだ。
「でも、わたしは……」
「それに、スウィーピングの技術が今のところ一番伸びてないのは和子でしょ」
ゆかりに身も蓋もなくそう指摘されると、和子は返す言葉もない。
つま先立ちになって体重をブラシに掛けて一定のリズムですり足で滑りながらのスウィーピングを、空音とゆかりはそれなりに自分の身体に覚え込ませてものにしている。それに比べると、和子だけがおぼつかない。
「それに、ウチは和子のアタマにも期待してるんや。作戦を考えて指示を出すのはスキップやから」
「そんな……」
空音の追い打ちに、助けを求めるように千雪の顔を伺うが、当の千雪も「わたくしもそれでいいと思います。頑張って下さい、和子さん」と同意してしまう。
和子が反論出来ないまま、他のポジションも決まっていく。
千雪は、元々『レディ・レックス』でのポジションと同じくサードに。後半の混戦時に求められる力強く、正確なショットに期待が寄せられる。
リードとセカンドをフロントエンドと呼ぶが、切り込み隊長として出だしに勢いをつけるべく空音がリードになった。物怖じしない向こうっ気の強さが頼りだ。そしてスウィープもショットも器用にこなせるゆかりが、セカンドに収まる。
もちろん、『レディ・レックス』はこの場でポジションを決めるような真似はしない。
この後、ウォーミングアップとなる。敵味方一緒になって、シートのコンディションを確かめるべく、ハックを蹴って滑り具合を体感する。
「さすが専用コート。やっぱり、スケート場の一角を借りてやるときより、ずっといいわ」
愛里にシートのコンディションを誉められるが、この状況では和子は余り嬉しくない。
やがてウォーミングアップも終わり、試合がはじまる。
「スキップはハウスで指示を出すんだから、早く準備してよ」
「うん……」
突き放すようなゆかりの言葉に、和子は気乗りしないままシート端のハウスに向かう。
「頑張れよー!」
「淡海の意地、見せたれー!」
いつの間にか、講習会に参加していた村人が観客席に陣取って応援してくれている。それだけでなく、淵上がテニス部員を引きつれて駆けつけてきていた。
だがせっかくの声援も、今の和子には心強さよりもプレッシャーにしか感じられない。
(こんなことになるんなら、もっと真剣に練習しておくんだった)
もちろん、今までサボっていたつもりはない。しかし、強豪チーム相手に通用するようなレベルの高い試合を見据えた練習ではなかった。
もう、後悔してもはじまらない。和子はハウスに立ち、ティーよりもやや手前を指し示した。どのみちいきなりど真ん中を狙っても、後続のストーンに突き飛ばされるだろうと予想しての指示だ。
「よっしゃー」
周囲の失笑を買うような気合いを入れ、空音がストーンを滑らせる。わずかに回転がかかり、綺麗にセンターライン上をなぞりながら近づいてくる。両脇から、千雪とゆかりがブラシで進路をこする。
どれぐらい磨けばどれだけ距離が伸びるのか、こればかりは身体に覚え込ませた感覚で対応するしかない。
(思ったより伸びるな……)
ストーンの減速具合を見て取った和子はすかさず「ストップ!」と声を掛ける。ゆかり達が手を止め、その場に立ち止まってストーンを見送る。
ゆるゆると滑ってきたストーンは次第に速度を落とし、ハウスへと近づいてくる。
指示した位置よりかなりオーバーラン気味で、ティーを超えて一メートルほど奥に入った。
それでも、まあまあの位置につけたと思い、和子の口元がほころぶ。指示は出すにしろ、針の穴を通すほどの精度など、最初から期待できる筈もない。この程度の誤差は充分許容範囲だろう。
続いて、『レディ・レックス』の一投目となる。
長身のリード・左右田は、長い四肢をもてあますように身体を折り曲げ、あきらかに先ほどの空音より力を抜いてストーンを滑らせてきた。
(あれじゃ届かない……。目一杯スウィーブして距離を伸ばすつもりかな)
だが、和子の読みとは異なり、山根と周防はさしてスウィープをかけることもなく、結局ストーンはハウス手前の縁にもかからない位置で止まってしまった。
ハウス内に入ったストーンのうち、もっともティーに近いものをナンバーワンと呼ぶ。当然、ナンバーワンとなったストーンを投じたチームに得点の権利がある。現在のところ、空音のストーンがナンバーワンだ。
(なんでわざわざ、私たちにとって役に立つガードストーンを置いてくるんだろう?)
一種の罠かもしれないと和子は疑った。が、今のうちにハウスへストーンを多く滑り込ませることを考えた方がいい、と頭を切り換える。
ここで目障りな相手ストーンを弾きたいのはやまやまだが、最初から四投目までは、ハウスの外で相手ストーンに接触すると、ルール上ファウルになって、弾いたストーンは元の位置に戻されてしまう。
和子は、ハウスから向かって右側を指し示した。
空音の二投目。今度は、ややスウィーブを止めるのが早かった。一投目をみて空音は力を押さえ気味にしたらしい。和子もさきほどの滑りの伸び具合を元に計算してスウィーパーにストップをかけた為、結果的に弱くなってしまった。
それぞれの呼吸が全く合っていないことを思い知らされる。
「このあたりはまだまだだなぁ」
和子は首を振って反省するが、二投目も狙った角度は外していない。空音はしっかり練習で身につけた技術を発揮していた。
(次は、ゆかりのストーンをドローさせようかな)
まともな試合になっている気がして、和子の胸は躍った。
「こんな調子だと、後が厳しいわよ」
不意に横から声をかけられた。『レディ・レックス』のスキップである愛里が、冷たい目を向けていた。
「えっ?」
戸惑って聞き返す和子を、愛里はもう見ていない。左右田が長身を躍らせるようにして二投目を滑らせる様子に神経を集中している。
勢い良く滑ってきたストーンは、左右田自身が投じた一投目のストーンにぶつかった。
弾かれた側のストーンはハウスの中心に向かい、空音一投目のストーンをビリヤードの要領で突き飛ばす。
空音のストーンはハウスの後縁でかろうじてふみとどまったが、左右田のストーンがハウスのほぼ中央に陣取って止まっている。これでナンバーワンは『レディ・レックス』に移った。二投目のストーンがガードの役目を果たしつつ、一投目のストーンをティー付近に滑り込ませたのだ。
縦に一直線に並んだストーン配置を前に、和子は唸る。
(こういう手があるのか……! 一手先を読むというのは、こういうことか)
直接空音のストーンを弾かず、ワンクッション置いた訳を和子は悟った。和子は空音の二投目を、相手方のストーンの手前に止めさせるべきだったのだ。
とはいえ、その戦術を実現するにはハウスに入ってない相手ストーンの手前に止めねばならない。接触すればファウルになってしまう。これは絶妙のコントロールが要求される。
初めての試合で、そんな難しい指示をする訳にもいかなかった。
(やっぱり試合を受けて立ったのは、無謀だったかも)
一挙に戦況をひっくり返された動揺と落胆を表情に出さないように気遣いながら、ゆかりに左右田二投目のストーンをテイクアウトするコースを指示する。このストーンがガードの役割を果たしているため、ハウスの中心に陣取る相手ストーンを直接弾くのが難しいからだ。
(まだ負けと決まった訳じゃない)
そう自らに言い聞かせつつ、ゆかりの一投目を待つ。
フォーム一つにすら個性が出る。槍を構えた騎馬兵が突進するようなフォームの空音と違い、ゆかりのフォームはフィギュアスケートのように華麗にみえた。
ゆかりの滑らせたストーンも、角度はぴったりと決まっていた。ただ、角度を気にする余りか、勢いが足りない。
空音と千雪が目一杯スウィーブしても、相手ストーンにわずかに触れただけで止まってしまう。
「却ってガードを固めてしまったわね」
ゆかりが肩を竦めた。
『レディ・レックス』のセカンド・山根は、先ほどの左右田とは対照的な短躯で、押しの強そうな顔だちだ。その山根が放ったストーンはやや左に流れて止まった。和子達にとっては、ストーンをスライス気味に投じてガードを左からかいくぐってティーを狙うラインが封じられた形になる。
次はゆかりの二投目。
(右も左も潰された。どうする?)
和子は迷いながら、手にしたブラシを構える。
「どうします?」
千雪が小声で訊ねてきた。
カーリングを指導する目的で転校してきた千雪は、教材としてオリンピックのテレビ中継を録画したビデオを持参してきていた。
ふと和子は千雪に見せて貰ったその映像を思い起こしていた。
選手達が、作戦の打ち合わせをハウス周りで堂々と行っていた様子も映っていた。マイクに声が拾われ、話し合っている内容が聞こえていたほどだ。カーリングは他のスポーツと異なり、基本的に相手に作戦を知られても戦局に影響がない。
それでもつい小声になってしまうのは、人の心理として和子にも良く理解できた。
「作戦かぁ。こっちが聞きたいところだけど、仕方がないね。ハウスの右手前で止まっている空音のストーンの右縁にあてて、ハウスの真ん中へ送り込む。どうかな?」
「判りました」
千雪が配置についたところで、和子はブラシでコースを指し示す。
ゆかりが二投目を滑らせ始めた。
身体がぶれないように低く、それでいて体重をストーンに乗せてしまわないよう身体を起こした微妙な体勢で、左脚一本でストーンを加速させながらそろりと押し出す。
フック気味の回転がかかったストーンは狙い通り右へ。鈍い音を立てて空音のストーンに命中する。ゆかり二投目のストーンはつんのめるように速度を失い、かわって空音のストーンがハウスを目指して動き出す。
が、和子は思わず天を仰いだ。
「ダメだった?」
千雪と交代でスウィーパーをやるためにハウスまで滑ってきたゆかりが、つま先立ちになって背伸びしながら訊いてくる。ショットする側のホッグラインからでは距離がありすぎて、ハウス周辺のストーンの配置がはっきりと見えないのだ。
ストーンのあたる角度が浅すぎ、弾かれた空音のストーンはティーより奥側へと滑っていた。そして、左右田のストーンに弾かれて押し込まれていた空音一投目のストーンに接触していた。このストーンはバックラインを越えてアウトとなってしまった。
結局、ゆかりのショットは、空音とゆかりのストーンが順繰りに押し出されただけで、なんら戦局を左右する形にならなかった。
空音が、自分の目で戦況を確かめてから口をとがらせた。
「どうせなら真ん中のガードにぶちあてるべきやなかった? とにかくあのガードを押しのけたら、直接ハウスのど真ん中への道が開くんやから」
「それは、その……」
指示に失敗したという思いがあるせいで、和子は言葉に詰まる。
「いえ、それならそれで、愛里さんはラインを半分ふさぐような位置を狙わせてくるだけです。こっちも二回連続で投げられる訳ではないのですから」
ショットに向かいかけた千雪が空音の声を聞いて足を止め、和子をかばった。経験の差か、和子よりも状況が見えている。
「ふうん。そんなもんか」
千雪の判断に突っかかるほど、空音も無駄なところで熱くなっている訳ではない。不承不承の表情ながらも引き下がる。
なんとなく気詰まりなまま、和子達は『レディ・レックス』の攻撃を見守る。
山根は二投目を左のガードストーンにあて、これをハウスの縁へドローさせた。中心からの距離的には、ハウスの奥にとどまっている空音二投目のストーンと大差ないが、これで左側のガードはさらに強化された。
「なんで先攻やったのに、イニシアチブをとられてるかなぁ? やっぱり最後の一投で戦局をひっくり返せる後攻のほうが有利なんかな」
ぼやきながらブラシを振った空音が、苦々しげな顔になって和子をにらむ。
「そんなこと言ったって、先攻を自分からとった訳じゃないんだから」
「その話はもういいから、スキップははやく指示を出して」
ゆかりが苛立った声をあげて割ってはいる。
「わかってるけど、責任を全部押しつけられたって……」
憤慨しながら、和子はストーンの配置を間近で見下ろして打開策を探る。
「真ん中、真ん中や!」
スウィーパーの空音が焦れて喚く。
「よし」
和子も頷き、ガードをかいくぐるコースを指示した。相手の手の先を読みすぎて、自分から手を縛ってしまう法は無い。相手がミスをする場合もある――。
千雪の一投目。ストーンは勢い良く突進し、肩を寄せ合って止まっているガードストーンにぶつかっていった。
が、ゆかり一投目の右側のストーンに先に当たってしまった。
運動エネルギーの多くが、味方ストーンをさらに右側に弾くだけに費やされてしまった。突き飛ばされたゆかりのストーンはコートの外に出てアウトとなる。
ベクトルをねじ曲げられつつなおも滑る千雪のストーンは、センターラインをふさぐストーンも押し出した。が、ストーンの幅一つ分ほどの道が出来ただけで、今度は千雪のストーンがガードのような位置で止まってしまった。
相手チームのサードは周防。千雪の代役ではあるが、和子の予想に違わず、腕は確かだった。センターラインに右縁がわずかにかかるような絶妙な位置に、ストーンをピタリと止めてきた。
「やった!」
感情を露わにしない左右田や山根と異なり、周防は根が正直なのか、自らの会心のショットにホッグライン上で飛び上がって喜んでいる。
「ガードの前に、さらにガードを置く、か。みみっちい戦術やな」
その様を通路から見ながら空音が舌打ちする。舌打ちは空音が持つ品のない癖の一つだった。
「そういう問題じゃないでしょ。そのせいでこっちはピンチなんだから」
「これ、S字で滑っていかないとティーに辿りつけないわよ。どうする?」
空音と和子がやり合っている間に、ゆかりが真剣な口調で割って入った。
「ううん……」
悩む和子の傍らから、すっと千雪が身を乗り出してきた。
「え?」
千雪は、手にしたブラシでラインを指し示していた。
「さきほどのわたくしのショットで、ガードが動いています。右側からのフックラインが使えると思うのですが」
千雪の指摘を受けて、和子は改めてストーンの配置を見直し、彼女の言うラインを見いだした。
「あ、本当だ。さすが千雪」
相手ガードの右側にはりついていたゆかり一投目のストーンが外に弾かれた為、その分だけライン取りに余裕が出来たのだ。ただし、かなり曲げていかないとハウス中央を直接狙うのは難しい。
「ゆかりの二投目に当ててレイズさせるよりマシか。うん、これでいこう」
和子は、千雪の示したライン通りに指示を出した。
自分の戦術眼の無さが歯がゆい。これまで二ヶ月間のカーリングに対する取り組み方を悔やまずにはいられない。今にして思えば、中途半端もいいところだった。
和子の悔恨の念を断ち切るように、千雪が迷いの無い堂々としたフォームで、ストーンを滑らせる。ストーンは、先ほど千雪が言葉にした狙い通りに弧を描いてティーに迫ってくる。
空音とゆかりが、懸命に進行方向の左側をスウィープする。
が、ガードの右側は無事に越えたものの、ハウス中央にねじ込むまでは曲がりきらない。やはりハウスの奥側へとオーバーランし、空音二投目のストーンの間近で止まる。
「だめか……」
ショットだけでなく、スウィーピングの効果の差も和子達と『レディ・レックス』では目に見えて違っている。素人が見れば滑稽なだけの動きが、決して無意味でないことを思い知らされる。
周防は二投目を、右サイドぎりぎりでくすぶっているゆかり二投目のストーンと、千雪一投目のストーンの間にストーンを打ち込んできた。これで和子達は、右側のラインを狙うこともかなり苦しくなった。
「くやしいなあ。これだけ頑張ってもハウスの真ん中にたどり着けへん」
空音の歯がみを背にしながら、いよいよスキップである和子にショットの順がまわる。
和子はまだあきらめた訳ではない。
スキップが投じる際に代理として指揮をとる千雪と話し合い、ラインの真ん中に立ちはだかる千雪一投目のストーンの右側にヒットさせるコースを狙う事にしていたのだ。
角度的にはかなりきびしいが、レイズしてハウス中央を狙えそうなのは、いまのところこのストーンだけだった。
浅い角度でぶつけようとすれば、一番手前で頑張っている相手ストーンにひっかかる。かといって、角度をつけ過ぎるとストーン一個分離れた左側の相手ストーンに今度は接触してしまうだろうし、第一、ティーから外れてしまう。
自分の腕を信じるしかなかった。
「とにかく、やれるだけのことをやるしかないか」
が、和子の一投目はここに来てはっきりそれと判るミスショットになった。
右側に大きく逸れ、さらに勢いも弱すぎる。なんとハウス側のホッグライン手前で止まってしまった。これはアウトとなり、コート上から排除される。
「あぁ、やっちゃった……」
和子はすっかりうなだれてしまう。練習不足は明らかだった。
結局、これで和子達には為す術がなくなってしまった。『レディ・レックス』のスキップである愛里が、さらに右側にガードストーンを打ち込んできたことで、いっそう動きを封じられてしまった。
和子の最終投は、腹立ち紛れにガードストーンをはじき飛ばしただけで戦局に影響せず、『レディ・レックス』は一気に三点を挙げた。
「技術面もそうですけど、スキップのたてる戦術で大きく差がついているみたいですね」
エンドが終わり、ハウス周辺に散らばるストーンを手際よく回収しながら周防が和子に向けて言い放つ。
「そ、そりゃ、こっちは見よう見まねでやってるだけなんだから……」
「加賀井先輩はですね、長野じゃ『神の視点をもつカーラー』って言われているんですよ。ハウスの俯瞰図を脳裏にくっきりと描き、氷のコンディションを手に取るように見抜いて指示を出す。最高のスキップです」
直接、愛里の耳に入らないようにするためか、小声で付け加えてくる周防は得意げだった。それは和子を苛立たせる作戦などではなく、誰かに愛里のことを自慢したくてたまらないといった口調に聞こえた。
「知ってるわ。千雪から良く聞いている」
そう言い返すのがやっとだ。スキップの力量差を問われると、和子は返す言葉もない。胸を張って仲間の元へと滑っていく周防の後ろ姿をにらみつけるだけだ。
「まだ、一エンドが終わっただけですよ」
仲間を励す千雪の言葉にも、和子は力無い笑みを返すぐらいしか出来ない。三点を奪われ、空音もゆかりもショックを隠しきれないが、そのなかでも和子はすっかり消沈してしまっていた。
『神の視点』を持つという愛里のように的確な指示を出す自信など全くない。
技術で劣る以上、せめて作戦で張り合わねばならないのだが、格が違いすぎた。
第二エンドでは、『レディ・レックス』は先ほどの慎重な手筋が嘘のように、いきなりティーぎりぎりの位置にストーンを狙わせてきた。愛里は、さきほどの第一エンドで、和子達の力量のほどを恐れるに足らずと見切ったらしい。
早めにハウス内の敵ストーンを排除したいと焦った和子は、空音の一投目でテイクアウトを狙って強く滑らせるように指示をした。
しかし、強い勢いで放たれたストーンは角度がずれており、かすりもせずにバックラインまで滑っていった。
二投続いてハウス内にいれてきた左右田とは対照的に、空音はハウスの中にストーンを止めることすらままならない。
ゆかりが一投目でかろうじてハウス内にいれたが、それもあっさりと山根が狙い澄ましてテイクアウトした。
その後は、山根が二投目で絶妙の位置にとめてきたガードストーンに阻まれ、和子達のストーンは、ハウス内にたどり着くことすらできない。
和子の指示も、お世辞にも適切なものとは言えなかった。
意図は間違っていないのだが、『スキップの差が大きい』との周防の言葉を意識しすぎて、戦術で負けまいと意地になりすぎた。
今の和子達は、千雪を除いてはセンターラインに沿って滑らせることはかろうじて出来ても、その中心線に分厚いガードをおかれると、ハウスの左右を狙って角度をつけて滑らせるだけの技術が十分に身についていない。
そんな状態では、どんな戦術を考えてもほとんど運任せになってしまう。
「そういや今まで、ど真ん中を狙う練習しかやっとらんかったなぁ」
今になって大発見をしたような口調で空音が言う。しかし、それを笑う事も怒る事も、和子には出来ない。他ならぬ自分自身も、こんな羽目になるとは思わなかったのだ。
「……難しいね」
和子はぽつりと呟く。
「この状況で、そんなこと言っても遅いわ」
ゆかりが和子に向かって言い捨て、睨む。今回ばかりは本気で腹を立てているらしい。
和子はうなだれるしかない。
対する愛里達は、和子達のことなど眼中にないかのように、ガードストーンをおく戦術すらとらず、ひたすらベストショットの練習のようにのびのびと滑らせてくる。
先攻側が得点をあげることをスチールと呼ぶ。和子達は為す術もなくスチールを喫し、第二エンドでも、三点を取られた。
「気持ちはよく判るけど、背伸びをして対抗しようとしても無理よ」
あきれ顔のゆかりに言われ、和子は肩を落とす。
もはや第三エンドでは勝負にもならない。『レディ・レックス』は序盤ではハウス内を狙い、終盤では手前に止めてハウス内のストーンをガードしてきた。まるで、自分たちの戦術の有効性を確かめるような雰囲気さえある。
懸命に食い下がったつもりだったが、スキップの投順を迎えた時点で、ハウスの中には『レディ・レックス』のストーンが実に四つ、ティー付近に散らばっている。ハウスの手前には分厚いガードストーンが陣取り、ゆかりと千雪が投じたストーンが二つ、そのガードにひっかかって防壁の一部に組み込まれてしまっている。
ハウスにある和子達のストーンは、ゆかりの二投目がかろうじてバックエンドぎりぎりの位置でハウス内にふみとどまっている一つだけだ。
このままでは三点を奪われることになってしまう。
強く放った和子の一投目はガードに連続してぶつかって、そのうちの一つをサイドまで押し出したが、その程度ではティーを直接狙うには至らない。
もう、愛里の放ったショットはガードを固めてくるだけだ。
瞬く間に和子のラストショットになる。
どうすれば良いのか判らなくなっている和子がハウスを眺めていると、ふいに一本の光り輝く線が、こちらのホッグラインからハウスに向かって伸びているのが目に見えた。
実際には存在しない、和子のイメージの中にだけくっきりと引かれた一本の線だった。
「これは……」
和子が、はっと息をのむ。
無秩序に並ぶガードストーンの隙間を縫い、ゆるやかな弧を描いてティーへと至るラインだ。破れかぶれにも思える先ほどの和子のショットが、偶然にもこのラインを生み出したのだ。
もっとも、和子が見出した希望の光だが、あまりにも頼りなく、かぼそい。並んだガードストーンの間は、ストーンの幅ぎりぎりにしか開いていない。左右どちらかに数センチでもずれれば、それだけでストーンにヒットして角度が変わり、狙った場所にたどり着かせることは出来ない。
『神の視点』を持つ愛里が、このラインを見逃していたとは思えない。和子には狙えないと見透かして放置してあるのだ。
狙えるものなら狙ってみろ。愛里達の声が聞こえたような気がした。この程度のショットが決められないカーラーに、千雪は宝の持ち腐れ。そんな思いさえ伝わってくる。
和子は、全身がかっと熱くなるのを感じた。負けたくない。いままで感じたことのない反骨心が頭をもたげてくる。
大過なく、ほどほどに、目立たず。そんな自分の生き方を後悔したことはない。しかし今、この瞬間だけは、相手の思惑に逆らう事をためらっていなかった。
負けたら千雪を失うことすら、いまの和子には関係がない。ただ負けたくないという気持ちだけがそこにある。
練習でも試したこともない、高度な技術が要求されるショットになる。しかし、やってみせると心に誓う。戦局をひっくり返す可能性を持つラストショットを放てるのは、スキップである自分だけだ。
「みんな、ちょっと」
和子はスウィーパーの空音とゆかり、そしてスキップ代理の千雪を集め、自分が幻のように目にしたラインを説明した。
「難しいショットになるけど、成功させてみせる。協力して」
「……協力もなにも、チームやないけ」
にっ、と空音が笑って親指を立てた。千雪とゆかりにも異論は無かった。
「的確な判断だと思いますよ」
「せめて一泡ふかせてやらないと、おさまらないわね、確かに」
ゆかりの言葉に送られて、和子はショット側のホッグラインに戻った。
身体の震えを深呼吸して抑え、右手の手袋の中指を噛んで掌を引き抜く。脱いだ手袋をジャージの尻ポケットにねじ込み、右手の指を屈伸させる。
冷えた外気のせいではなく、緊張によって指先から血の気が失せていた。それでも、目に見えるほどに震えている訳ではない。
ゆっくりとハックに左足をかけ、前に踏み出した右足を胸につくほど曲げて身体を沈み込ませた。ストーンのハンドルに手を掛ける。
顔を上げた。
スウィーパーの位置に戻った二人と目があう。ゆかりが任せろとばかりに静かにうなずき、空音は再び親指をたてた。ハウスでは、千雪がブラシの先で狙うポイントを指し示し、和子の放つストーンをじっと待っている。
(お願いっ!)
祈るような気持ちでストーンを押し出す。
ストーンを滑らせる強さをウエイトと呼ぶ。そのウエイトを調整する技術も今の和子には伴わない。二ヶ月の間で身体が覚えた経験に基づく、不確かなカンだけが頼りだ。
反動を付けてハックを蹴って身体を押し出す。ハンドルをそっと指先から離す。ストーンはわずかな回転がかかり、安定した軌道を描いて狙い通りにガードストーンが作る関門へと向かう。
「クリーン、クリーン……」
澄んだ声を、千雪がリンク上に響かせる。リンク上に落ちたゴミをストーンが巻き込まないように針路前方をきれいに掃け、という指示だ。
空音とゆかりがブラシを動かし、ストーンの前方を力を入れずに掃いていく。
回転の与えられたストーンはわずかながらカーブする。和子が見た、イメージ上のライン通りに滑っていく。そして、するりとガードストーンの間をくぐりぬけた。
「行けっ!」
ショットした後は見送ることしか出来ない和子は、そう声をあげずにはいられない。
和子達四人の思いを乗せたストーンはそのままハウス内へと入り、ティーに陣取るストーンへとぶつかっていく。
これで相手ストーンをテイクアウトできれば、三点を奪われるピンチから一転して、こちらが得点を挙げる事になる。そうなれば得点は五対一と四点差に縮められる。まだ逆転の可能性はわずかでも残るのだ。
狙い過たず、和子のショットしたストーンがナンバーワンへとヒットする。
ゴツッ、と鈍い音がした。二十キロ弱の花崗岩がぶつかり合う重い音からは、ボーリングでストライクを出したときのような心地よさはまるで感じられない。
カーリングはどこまでも、スポーツが当然持っている爽快感から背を向けているようだった。
しかし、この愛想のない鈍い音が、和子にとってはこれほど気持ちよく聞こえた経験はいままで無かった。震えるような快感が背中を突き抜ける。
「やったぁ!」
小さなガッツポーズさえ飛び出す。重い気分がこの一発で全て吹き飛んだ気になった。
しかし、ハウスで見守っていた千雪は力無く首を振っていた。
「え、え……?」
訳が分からず、ハウスまでスライダーを使って滑って近づく。四十メートルほどの距離がどこまでも遠くに感じ、もどかしい。
そして、ようやくのことでたどり着き、見た。
「惜しかったですね」
傍らから状況を覗き込んできた周防の、皮肉ではなく本心から出たであろう言葉も、耳に入らない。
「そんな……」
和子のストーンは確かにナンバーワンを捉えていた。
しかし、和子の位置からは見えなかったが、ナンバーワンの真後ろにも赤い『レディ・レックス』のストーンがあって支えになり、テイクアウトを防いでいたのだ。
和子が放ったストーンが持っていた運動エネルギーでは、一直線上にならんだストーン二つをはじき飛ばすにはあまりに力が足りなかった。
「そうだった。判っていたんだ。わたしはハウスにずっといて、こういう配置になってるって判っていたのに……」
正面ではなく、側面から角度をつけてナンバーワンにヒットさせなければならなかったのだ。配置を失念していた訳ではない。見切ったと思ったライン取りが甘かったのだ。
結果、第三エンドが終わった時点で、二点を追加されて七対ゼロというところまで追い込まれてしまった。和子のラストショットでどうにか三点を与えずに済んだのだが、残り三エンドでこれをひっくり返すのは絶望的だろう。
「これまでね」
ゆかりが静かな調子で言い、和子を見つめた。なにを言わんとしているのか、和子にも良くわかった。
屈辱に唇を噛みながらうなずいた和子は、重い足取りで愛里のもとに向かう。
「あの……。もう、わたしたちには勝ち目がないと思うんだけども……」
「それで?」
「……ギブアップ、します」
涙がこぼれそうだった。悔しくてたまらない。
「そう。残念ね。千雪、これで判ったでしょ。実力差がありすぎる。この環境では、貴女の腕も鈍ってしまうわ」
そう話す愛里も決して誇らしげではない。無理に淡々とした口調を保っているようにも聞こえる。それが勝者としての態度だとわきまえているのだろう。
「ちょっと待ってえな!」
声もなく静まり返っていたアリーナに、空音の普段以上の大声が響きわたった。
うつむいていた千雪が、はっと顔を上げる。その胸元に空音が詰め寄る。
「それで千雪は、はいそうですかと戻るつもりなんか?」
「駄目だよ、まだ千雪は返せない。だってわたしたちはやっとカーリングの技術を覚えてきたところなんだもん」
空音の剣幕に後押しされるように、和子も声を絞り出す。
「ちょっと、なにを言い出すんですか、今更――」
そう言いかけた周防は、もの凄い形相で振り返った空音と目があって言葉を飲み込んでしまった。
「おまえら、今のウチらに勝ったぐらいでいばるんやないで。半年――、いや、三ヶ月でええ。時間をくれへんか。そうしたら次は絶対ウチらが勝ってみせる!」
空音の剣幕に愛里達は顔を見合わせる。淡海村の人間に、ここまで激しく拒絶されるとは思っていなかったのだ。
「しかし、約束は約束よ。……千雪?」
愛里の呼びかけに応じず、いきなり千雪はリンクから飛び出していった。
「千雪っ!」
その様子にただならぬものを感じた和子が後を追う。
(十)
いつの間にか、雨が降りだしていた。
外に出た千雪はカーリングアリーナの建物に背を向けたまま、駐車場に一人立ちつくして雨に打たれている。
「ごめんね、守りきれなくて。けど……」
和子に続いて、試合の当事者だけでなく、勝敗を見守っていた部員や村人達が何事かと集まってくる。
千雪が振り向いた。その瞳は憂いに沈んではいるが、表情は決して絶望したものではない。その手には、どこから取り出したのかハサミが握られている。
何がはじまるのかと息を呑む和子達の前で、千雪は白い紐で縛ってまとめた髪の房を左手に掴んで顔の前まで掲げた。
「千雪、いったいなにを」
困惑の表情を隠さず、愛里が訊ねる。
「髪は女の命と言いますでしょう? それに、あの忌まわしき出来事を招いたのもこの髪。わたくしはこの髪を切ってお詫びいたします。ですからどうか今回の事、理を曲げて許していただきたいのです」
そう言うや、千雪は右手に持ったハサミを無造作に入れ、切り始めた。
雨に湿った風が吹き、束ねられていた髪が舞い散る。
追いかけてきた生徒達や『レディ・レックス』の仲間達から悲鳴があがった。だが、機械的にハサミを動かす千雪の手は止まらない。
「や、やめてっ! もう、判ったから。次の試合で決着をつける話、受けるから。だから、髪を切るのだけはやめてよ!」
涙声になって訴える愛理の声が耳に届いたところで、ようやく千雪はハサミを持つ手を降ろした。
|