『ぷにF1』 第三話


――Angel's Circuit





(一)


 ブラジルグランプリでは三位入賞でも充分であったのに、二位が転がり込んできた。全てが上手く回り始めている。駆はそんな嬉しい手応えを感じて、久遠のスタッフと共に、F1第三戦のサンマリノグランプリが開催されるイモラ・サーキットへと乗り込んでいた。
 金曜日。朝。
「よぉーっ。元気そうじゃないかぁ!」
 フリー走行を前にどこもかしこも騒然としているパドックにあって、ひときわけたたましい声が響いた。日本語だった。モーターホーム横に設置されたベンチに座り、プレスリリースを読んでいた駆は、聞き覚えのある声が自分に向けられていることに気づいて顔を上げた。
「お久しぶりです」
 駆は、精悍な面立ちをしたこの男を良く知っていた。春日部真。気鋭のモータージャーナリストである。
 日本におけるモータージャーナリストの数は限られている。バブル期に盛り上がったF1ブーム当時から、その主だった顔ぶれがほとんど変わらない。
 その中にあって、春日部は若手の注目株だった。彼の強みは、かつては本気でF1を目指していたほど優れたドライバーだったことにある。F1へのステップアップを計る為に、と知識をどん欲に吸収した結果、メカにも英語にも強くなっていた。しかも彼には文章の才能もあった。
「ったく、レースで見かけなくなったと思ったら、こんなところにいたとはな」
 ジャーナリストとドライバーの間柄と言うよりは、むしろドライバーの先輩後輩という関係で二人は話をする。実際に同じレースでしのぎを削り合った経験があるだけに、自然とそういう雰囲気になるのだ。
「見つかっちゃいましたね」
「こっちは、ドライバーのケツだけを追っかけて事たりるような記事は書いてないもんでね。にしても、小田切さんも水くさいよな。教えてくれりゃいいのに」
 砕けた口調で言った春日部が、やれやれ、と首を振る。
「こっちにとっちゃ不細工な話ですからね。小田切さんは配慮してくれたんだと思うんですが」
「まあなあ。レン=イタカやジャックウェルにとっちゃそうかもしれんが、お前さんにとっちゃ話は別だぜ。まぁ、ここにいるプレスの連中も、お前さんの過去は知らないだろうし、正体に興味があるとは思えないがな」
「まだ自分の役割がよく判ってないんですよ」
 駆は肩をすくめ、正直なところを口にした。
「実はな、噂には聞いていたんだぜ。知り合いに片っ端から『遠いところに行く』って言い残して出てきたらしいな。はっきり行き先を言わないもんだから、自殺したんじゃないかって話になって、あやうく捜索願いが出るところだったんだぜ」
「そいつはひどいな。春日部さん、言っておいて下さいよ。元気にやってるって」
「まかせとけ。二度と変な噂が立たないようにしてやるよ」
 春日部がにやっと笑った。
「ちょっと待って下さい、それって記事に書くってことですか?」
「それが一番手っ取り早いんだ。なに、気にすることはない。お前さんは、自分で思っている以上に周囲から評価されてるんだ。おそらく小田切さんやレン=イタカからもな」
「そうは楽観的に思えないんですよ。……あれ、春日部さん。さっきからレン=イタカって言い方してますけど、彼女、日本人かも知れないんですよ。知ってました?」
 駆の一言に春日部は目を丸くした。
「なに、本当かよ。実はトップチームのコメント抑えるので精一杯で、まだ直接インタビューしてないんだ。なんだか知らないが、過去の戦績はちょぼちょぼとデータが流れてくるんだが、人となりはまったくの謎でな」
「そうなんですか。んじゃ、ちょっと呼んできますよ」
 パドックからジャックウェルのピットに戻ると、緊張感漂う刺々しい空気が感じられた。まもなくフリー走行が始まる。マシンには理論値に基づいたセッティングが施されており、限られた時間と周回数によるデータ収集で、理想のセッティングを見つけださねばならない。走り方に問題を感じ取れば、その点も指摘して矯正していかねばならない。
 前戦の入賞は大きな励みになっていたが、反面、プレッシャーともなっていた。なにも駆が重圧を感じる必要はないのだが、何も考えていないような蓮の明るさをみるにつけ、自分がしっかりせねばと思ってしまう。
「あれ、蓮はどこに行きました?」
「なんか、インラインスケート抱えてどっか歩いていくのを見たけどな。そのへんで滑ってるんじゃないか?」
 人手の足りない部署を埋める役割を担う為、いつも忙しそうにしているフローティングメカニックからの思わぬ返事に、駆はあっけにとられる。
「この大事なときに、なにをやってるんだ」
 ぶつぶつ言いながらピットレーンに出る。
 ピットの配置は、入口側から出口側に向かって、前年度のチーム成績に準じて並んでいる。左右を見回していると、最も入口側にある前年度覇者・マクラーレンのピットの方から歓声があがった。ヤジど口笛が飛ぶ。
 何事かと駆が首を巡らせると、黒いスパッツにだぶついた白いTシャツ、膝と肘にプロテクタをつけた蓮がインラインスケートを履き、ピットレーンを滑ってくるのが見えた。F1マシンがピットインしてくるような速さで、ジャックウェルのピット前まで近づいてくる。
「蓮、危ないぞっ!」
 両腕を大きく振り、速いテンポで足を蹴り上げて加速してきた蓮が、駆の声を耳にして彼に気づき、にっ、と笑った。Vサインを見せて腕の振りを止めると、前傾姿勢で大きく膝を曲げ、腰を低く沈めた。
 そしてちょうどジャックウェルのピット前でタイミングを計り、滑ってきた勢いそのままにジャンプした。両腕を左右に大きく広げ、さらに空中で膝下を交差させつつ空中で時計回りに一回転してみせる。スキーのモーグル競技でジャンプした際にみせる技を彷彿とさせた。
 そこまでは運動神経の鋭さを伺わせる見事なものだったが、すとんと着地した次の瞬間、スケートがずるりと滑り、蓮はまともに尻を打った。
「ふぎゃっ!」
 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴をあげると、各チームの関係者がどっと沸いた。何故か、やんやの喝采である。ジャックウェルのピットに張りつめていた緊張感も一挙に緩んだ。
「恥ずかしいヤツだなぁ。遊んでる場合じゃないぞ」
「うう、しぬほど痛い……」
 蓮はうつぶせになって尻だけ宙に突き出すような情けない恰好で悶えている。だぶついたTシャツがおおきくまくれあがってしまい、背中が脇の下あたりまで丸出しになってしまっている。駆はその首根っこをつかみ、ひょいとひっぱりあげる。見た目通り、軽い。片手で持ち上げることさえ出来そうだった。
「こら〜、なにするんだよぉ」
「仕事だよ。大事な大事なお仕事ってな」
 顔を真っ赤にして蓮が暴れるので、両腕にかかえるようにして抱き上げ、そのまま荷物を運ぶように早足でピットを抜け、パドックの春日部の元に連れていく。
「春日部さん。つれてきましたよ」
「おろせ〜、おろせ〜」
 腕をばたつかせて蓮が抗議の声を挙げる。
「……て言うよか、拉致してきたって感じだぞ。F1ドライバーに対する敬意もなにもあったもんじゃないな」
 春日部が呆れるが、駆はもう蓮の言動に慣れ始めており、しれっとしたものだ。
「そりゃあ、こいつは普段から威厳に欠けてるからですよ。蓮、こちら、春日部真さん。日本のモータージャーナリスト。元はドライバーだから、俺にとっちゃ先輩にあたる」
 言いながら、蓮を降ろす。
 頬を膨らませた蓮は、先ほど嫌と言うほど打ち付けた尻に手を当てて、目尻に涙を浮かべている。
「よろしく」と春日部が日本語で言い、手を差し出した。
「こんにちは。伊高蓮です」
 手の甲で顔をゴシゴシとこすって涙を拭いた蓮は、同じく日本語で応じて握手する。その発音に英語的なイントネーションの訛りは感じられず、元々日本語を話していた事を感じさせた。
「日本の出身だって? 今シーズンは日本人ドライバーがいないことになってるんだけど、そうなってくると日本のファンもきっと親近感をもって応援できると思うんだ」
「えっとね。昔のことはぜんぜん覚えてないから、わかんないんだ」
「覚えてない?」
 春日部が怪訝な顔をしたので、駆がフォローをいれる。
「蓮は、記憶喪失なんですよ。で、ニコルソン監督に拾われたという次第で」
「どういうこっちゃ?」
 駆が、ニコルソン監督から聞いた話を簡単に春日部に説明する。自分の事が話題になっているにも関わらず、蓮はにこにこしながら他人事のような顔をして聞いている。
「そりゃまた、ずいぶん風変わりな経歴だな。そんな話は、おそらくまだほとんど日本じゃ知られてない」
 春日部はそれから蓮にいくつか質問を行う。蓮の答えは時に突拍子もなく、時には純粋すぎるほど純粋で、その度に春日部は大げさな態度で感心してみせた。
「なんか、彼女って妙に知名度低いんですよね、彼女。久々の女性ドライバーってだけで、話題になってもおかしくないと思うんですが」
 ひとしきり春日部のインタビューが終わったところで、駆が口を挟んだ。そういう駆自身が、小田切に呼ばれてジャックウェルに合流するまで、ドライバーが女性だと知らなかった事は黙っておいた。
「いや、逆に女性ドライバーってだけでイロモノ扱いなんだな。ブラジルでの入賞でみんな大慌てって寸法さ。てことは、かなり良いことを聞かせて貰ったって訳さ」
「これから勝ち続ければ、一層話題になりますね。個人スポンサーとかの話が来るかも」
 蓮はなにが起こっているのか判らないと言う風情で首を傾げていた。
「うーん、あんまりピンと来ないんだけどね。とにかくボクは走っていればきもちがいいから、他のことは考えたくないんだ」

(二)


 ブラジルグランプリで二位入賞という実績を残したことで、スペンサーも駆の手腕を認め、協力的になっていた。元々人なつっこい蓮も、徐々に駆に信頼を置き始めている。
 駆はいままで以上にフリー走行での蓮の走りに注視し、レーサーとしての経験と、ブラジルグランプリの後に技術書を読みあさって得た知識を総動員して問題点の洗い出しにかかる。
 だが、世の中はそう甘くはなかった。
 これまで二戦、アルバートパークもインテルラゴスも、直線とコーナーのメリハリがはっきりしたコースだったが、イモラには直線らしい直線はホームストレート以外にはほとんどない。
「コーナーばっかりだよぅ」
 という蓮の言葉通り、コースには緩やかなカーブときついコーナーしかない、という点は駆も同意していた。そして、ジャックウェルのマシン・NJ10は、どうも高速時における緩やかなカーブにあわせた微妙なハンドリングが悪いらしい。
 蓮曰く、ほんの少しだけステアを切ってラインに沿って曲がろうとしても、大きくノーズを振ってしまい、ラインから外れてしまうというのだ。
 個人的な癖の問題でもあるのだろうが、蓮は緩いカーブを縁石ぎりぎりにかすめてクリアするつもりが、縁石に乗り上げ、芝地ににタイヤを落としてしまう。この有様では、タイムが良くなる筈もない。
 そして、困ったことには気持ちよくドライビング出来ないことで、蓮は精神的にも乗り切れないでいるようだった。
「なんだか、このコースは怖いね」
 金曜日午前中のフリー走行後。モーターホームでスペンサーや駆とマシンセッティングの状況のミーティングを行った後、珍しく蓮は表情を曇らせていた。
「そうなのか? 蓮でもそういうことがあるんだな」
「走っていて、楽しくない。こんな不安な気分は初めてなんだ。ボク、どうしたらいいんだろ」
「マシンのセッティングがまずいのかな」
 言いつつ、駆の腹が鳴った。メシにしよう、と一旦話を切った。ジャックウェルのメインスポンサーである、ヨーロッパ有数の製菓会社・イリシス社が主催するホスピタリティ・テントへと二人して足を運ぶ。
「なんでこんな感じになるのか判らない。コンクリートウォールに吸い込まれそうになる」
 席に着いた蓮がため息をつく。彼女はきちんとした食事ではなく、イリシスのチョコバーをかじっている。スポンサーへのサービスといったものではなく、このチョコバーが彼女の大好物なのだった。元気の素、と公言している。
「そういや、シルヴァがクラッシュしたのも、このサーキットだったな」
「あんまりヤなこと思い出さないでよ」
 駆の言葉にチョコバーを持った手を止め、ぷるぷると震えながら蓮はそう応じる。顔色もあまり良くない。茶化すつもりで言ったのではなかったが、こう敏感に反応されてしまうと、駆としても居心地が悪い。
「風邪でもひきはじめてるんじゃないか? 体調管理は自分の責任だからな。そこまで面倒見ろと言われても困るんだがな」
「もう……。カケルはボクのこと、ぜんぜん判ってくれない」
 頬を膨らませる。駆はその頭を乱暴に撫でる。
「わかってるさ。とびきり速いF1ドライバーだってな」
 駆は蓮自身の心配をしていなかった。というより、マシンのセッティングをどう決めていくかで頭が一杯で、それ以外のことを考えていられなかったのだ。
 午後のフリー走行では前戦に倣い、駆はサスペンションやウイング、ギア比などをいろいろといじって操作性をよくしよう試みる。スペンサーも駆の提案通りにあれこれと調整を計るが、成果は思ったようには出なかった。サスペンションのスプリングレートを固いものにすることでハンドリングの反応はやや良くなる事を確認したにとどまった。
 セッティングを変え、再びピットを出た蓮だが、今度はエンジンが不調をきたしてしまった。ピットまで戻ってくることが出来ず、コースをそれてグリーンゾーンにマシンを停める羽目になる。
「エンジントラブルの原因はなんですか?」
 慌ただしくなったピットで、駆は小田切以下の久遠スタッフに問いかける。
「今のところは電気系としか判らない。エンジンの回転があがらない。フィールセンのマシンにも同様の不調が出ているようだから、一旦ピットに戻す必要がありそうだ」
 F1では、極限まで速さを追求する為、各パーツの軽量化に並々ならぬ努力をそそぎ込む。そして、耐久性能をその分犠牲にしている。F1は乗用車とは違うのだ。従って、この手のトラブルはつきものといえた。歓迎すべき事ではなかったが。
 結局、フィールセンをピットに戻したものの、原因を解明して対策を施し、再びコースに送り出す前に走行時間が終わってしまった。その後、ようやく蓮のマシンがクレーン車で回収されてくる。明日朝のフリー走行と午後からの予選を控えて、ピットに戻ってきたマシンがメカニック達の手によって整備が始まる。
 参考記録とはいえ、蓮のラップタイムがフィールセンともどもあまり良くないため、空気がやや重い。そんな中、ウィリアムズのジェイソン=バトルがジャックウェルのピットに顔を出した。
「やほー、ジェイソンー」
 それまで表情が曇りがちだった蓮が、嬉しそうに顔を輝かせ、ぱたぱたと手を振る。
「やぁ、レン。ブラジルの二位入賞おめでとう」
 自身も五位に入ったことで面目が立ったと考えているのか、バトルはにこやかに蓮に声を掛ける。
 蓮とじゃれあうようにしていたバトルが駆のほうに目をむけた。視線に気づいた蓮が駆の前に立って腕を掴んで引っ張り、バトルの前までつれていく。
「あ、紹介するね。久遠のスタッフのカケルだよ。ボクのマシンのセッティングを手伝ってくれているんだ」
「カケル=アリハラです。よろしく」
 若き天才ドライバーと名高いバトルを前に、駆は緊張した。駆にとってはバトルは年下ではあるが、その才能は認めざるを得ないものがあるのだ。
「あ、申し訳ないです。なにか、大事な話の途中でしたか……? 僕はジャックウェルのマシンを偵察に来た訳ではないので、お邪魔なら退散しますが……」
 まだ二十歳のルーキーということもあってか、バトルの口調は驚くほどに丁寧だった。
「いやいや、べつにそんな風に勘ぐったりはしていないよ」
「そーだよ。別に見たってへるもんじゃないしさ!」
 駆としてはどういう風に応対して良いか判らなかったが、蓮のほうはお構いなしにバトルと話しはじめた。
 年齢的にはほとんど変わらない(蓮の場合は実年齢は不明なのだが)二人の筈が、話している姿をみると、無邪気な妹とそれに手を焼く兄といった風情に見えた。
 だが、その中に入っていけない自分に気づくと、あまり和んでばかりもいられないな、と駆は思う。F1ドライバーの世界に足を踏み入れる資格を、今の駆は持たないのだから。

(三)


 その晩。
 ホテルの自室でソファの上にあぐらをかき、駆は分厚い専門書に目を通していた。小田切との相部屋だが、小田切はまだサーキットから戻ってきていない。
 小田切は今日の午後になって発生したトラブルを明日の朝までに解消すべく、夜遅くまでエンジンの整備にかかりきりになるメカニック達と行動を共にしているのだ。
「小田切さん達も頑張ってるんだから、こっちもなんとか力になれるようにしないと……」
 駆が読んでいるのは、小田切に無理を言って借りた、久遠シノダエンジンの整備マニュアルだった。もちろん、エンジンのスペックは企業秘密の固まりであり、そのマニュアルも紛れもない部外秘の代物であった。
 少しでもセッティングを考える上での参考になれば、との思いでページをめくるのだが、専門用語が並び、容易に理解できるものではなかった。
「こんなことなら、もうちょっとメカの勉強をしておくんだったな」
 駆は嘆息した。自分でステアを握ってコースにでていた時でさえ、ここまで頭を痛めることはなかった。
 イメージをうまく言葉にして伝えられない蓮の代わりに、セッティングの方向性を決め、それをスペンサーに伝達するのも駆の役目だ。蓮の考えを理解できると判断されたのは、ドライバーとしての腕を見込まれてのことだ。だが、だとしてもメカの知識がなければ結局はもどかしい思いしかできなくなる。
 ジャックウェルに雇われた身でなく、久遠のスタッフとして参加していることが、駆の役割を一層曖昧なものにしている。アドバイザーとはいうものの、駆が伝えるのはあくまでも参考意見にすぎないのだ。
 ドアがノックされた。駆は参考書をカバンの中に隠し、ドアを開けた。
 パジャマ姿の蓮が枕を抱えて立っていた。寝ぼけ眼で、表情も冴えない。
「どうしたんだ?」
「眠れなくて。一緒に寝ていい?」
「緊張してるのか。それともフリー走行の成績がよくなかったから悩んでるのか」
「それもあるけど、それよりなんかヘンな感じがするんだ。ボクが部屋に一人でいると、だれかに見られているような気がして」
「見られてるって? 取材とかいっぱい受けたから、ナーバスになってるんだろう
 とりあえず部屋の中にいれる。こういう時はドアを開けておくのが礼儀だったかな、と思ったが、蓮は身体を滑り込ませるとすぐさま自分でドアを閉めてしまった。
「そんなんじゃないよぅ」
「それじゃこのホテル、幽霊かなんかでるのか? 俺は霊感のたぐいがゼロだから判らないけど、建物は結構古いから、ありえなくはないな」
「おどかすのはやめてよ」
 涙目になって首を振る蓮。
「ははぁ、蓮はお化けのたぐいが苦手なんだな」
「う〜。ひどいよぉ」
 蓮の膨れ面にも、駆は軽く笑って取り合わない。
「だけどさ、蓮。ここは俺一人の部屋じゃないんだ。小田切さんも戻ってくるから、ちょっとここで寝るってのはまずいよ」
「オダギリに部屋を代わってもらってよ……」
 小さな声で、言う。これがF1ドライバーの仕草とは、にわかには信じられないほどに幼さを感じさせる。
「そうも行かないって。まあ、寝られないならムリしなくてもいいさ。しばらくベッドに横になってるぐらいなら構わないしな」
 駆はちらりと時計に目をやった。まだ十時前である。
 駆もレース前日に寝られなくなったことはある。寝ないといけない、という焦りがかえって神経を高ぶらせてしまうのだ。
 もっとも、まだこの時間なら、少々起きていたところで大差はないだろう。そのうちに身体の方が自然と眠りを欲しがるようになる筈だ。
「じゃ、ここで横になってるね」
 愛用しているらしい枕を抱えた蓮が、そう言いながらベッドに横になった。枕を抱えたまま、顔を埋めるようにうつぶせになる。
「電気、消すか?」
「いい。暗いの、こわい」
 どうやら、相当に神経質になっているようだった。駆にはどう扱ってよいか判らない。
「そうか。ま、ちょっと落ち着くまでそうしてたらいいよ」
「カケルはまだ寝ないの?」
 枕に顔を押しつけているせいで、くぐもった声で蓮が訊ねる。
「ちょっと、調べておきたいことがあるからな。小田切さんがまだ戻ってきてないのに、寝られないよ」
 駆は一度は隠した専門書を取り出し、読み始めた。パワーを有効に使えるエンジン回転数のグラフと、昨年までに得られたコースごとのギア比の一覧とを見比べる。昨年、サンマリノで実際に用いられたデータも揃っているが、エンジンもシャシーも前年と同じではない為、セッティングも微妙に異なってくる。蓮のクセも未知数である。
「蓮、今日のセッティングだと、ストレートエンドでエンジンが噴けきる寸前の筈なんだが、ギア比をあげたほうが良いかな? ハンドリングの問題がなければ、六速と七速のギアを……」
 駆は言葉を中途でとめた。蓮はもう、軽い寝息をたてていたからだ。思わず鼻を鳴らす。
「なにが寝られない、だよ。ったく、小田切さんになんて言うかな」
 駆は途方に暮れてしまった。だが、結局小田切はサーキットに泊まり込んだらしく、朝になっても戻ってこなかった。

(四)


 翌朝。
 ジャックウェルのピットでは二台のF1マシン・NJ10がリズミカルなエンジン音を響かせていた。
「お疲れさまです。エンジン、治ったみたいですね。結局、原因はなんだったんです?」
 疲れ切りながらも満足げな小田切をピットで発見し、駆は開口一番にそう訊ねた。
「コンピュータのプログラムに、ちょっとした欠陥があった。燃料制御に関する部分だった。要はミスファイアを防ぐシステムが、今回から持ち込んだスペック2のエンジンと一部ミスマッチしていたんだ。大急ぎですりあわせをやったが、どうにか間に合った。プログラム的な問題で、パーツ自体に問題が無かったのは救いだった」
「そうですか、それは良かった」
「あとは、フィールセンと蓮が、好タイムで前のグリッドを確保してくれる事を期待するだけだ」
 蓮に対する期待は、駆に対しての期待でもある。駆は自分の肩に掛かる重圧を感じた。
 
 土曜日午後の予選でも、結局、最適なセッティングが決まらないままだったが、蓮は四回目のアタックで八番手につけるタイムを残した。
 決勝を前にしたセッティングは、駆の苦心の後が残っていた。
 蓮がアンダーステアを訴えていた為、ハンドリングを良くすべくフロントサスペンションを固くした。その分グリップ力は悪化し、タイヤの摩耗も速くなることが予想された。
 予選ではそこそこの位置につけたものの、長丁場の決勝にマシンが耐えられるか、さらには蓮の体力が保つのか、一抹の不安を残したまま日曜を迎えることとなった。
 この日のイモラは曇り空。気温は二十度にも達しない肌寒い天気となった。これまで二戦、南半球の強烈な日差しに照らされて汗だくになりながらのレースだったことを考えればむしろ心地よいほどだ。
「マシンのセッティングは完璧とは言えない。済まない」
 決勝前に許される午前中のフリー走行時間を目いっぱい使っても、最適セッティングには至らなかった。駆としては、情けなさをこらえて謝るしかない。
「べつにだいじょぶだよ、いまのまんまで」
 決勝までの短い時間、モーターホームで休憩する蓮はいつものように屈託がない。だが、どこか無理をしているような気がしてならない。
「身体のほうは問題ないのか?」
「うん。べつにどこもおかしくないんだ。ちょっと、マシンを思うように動かせない感じがするけど」
「それはつまり、セッティングが――」
「そうじゃなくて。なんていうか、うまく言えないんだけど。……やっぱり、相性が悪いのかな」
 自分の思いをうまく言葉で表現出来ないらしく、蓮が眉を寄せた困り顔になる。反対に慰められてしまっている駆も、無念の思いで送り出すしかない。
 ダミーグリッドに運ばれたマシンの前で、ドライバー達がプレスが突き出すマイクに囲まれ、インタビューを受ける。前戦二位という成績をひっさげて乗り込んできているため、蓮の注目度は過去二戦とは比べものにならないほどに高い。

 晴天の空の下、サンマリノグランプリがスタートする。
 操縦しにくさが改善されきっていないマシンでは、さすがの蓮も思うように走れない筈だ。それでも、トサ・コーナーとリヴァッツァ・コーナーで、早いタイミングでインに突っ込む得意のドライビングで二台を抜き、さらに上位をうかがう勢いをみせる。
(優勝は無理でも、ポイント争いには、なんとか)
 駆は、蓮が見せる相変わらずの素晴らしい走りっぷりに感嘆するばかりだった。セッティングが煮詰まったとは言えない状態のマシンであるのに、いざ決勝となると蓮はそんな不安要素を全く感じさせない。
 だが、そうそう全てがうまく運んではくれなかった。
 十周ほど走ったところで、異常が発生した。コントロールラインを通過し、コース中最も高速の出るタンブレロ・コーナーからトサ・コーナーにかけての区間で、蓮のスピードが伸びてこない。
(いったいなにが……)
 モニタ画面上では、エンジンに異常が発生しているようには見えない。小田切も一昨日に解消したトラブルと同じ現象ではない、とテレメータを見ながら断言する。
「どうした、レン」
 ニコルソン監督も異変に気づき、無線で呼びかける。
『ギアが、うまく、切り替わらないよっ』
 意志疎通を容易にするため、駆もインカムを渡されており、蓮の声を聞くことが出来る。ひどい雑音混じりの声だが、その分緊迫した空気が伝わってくる。
「……テレメータのデータでは、電装系の異常は検知されていないぞ」
『そんなこと言われてもわかんないっ! スピードが出ないんだ』
 蓮の悲痛な声。いつもであれば、レース中は普段よりもむしろ大人びた雰囲気のある蓮が、いつも以上に幼い口調になっている。
 それを聞いているだけで、どうすることも出来ない自分がもどかしく、駆は歯がみする。
 蓮はマシンの限界を把握する能力が高い。だがそれは本能的・直感的なものだ。マシントラブル発生の予兆を事前に予知出来る類の能力は持ち合わせていない。さらに、マシンが不調になってもその原因を理解できる訳でもない。一言で言ってしまえば、メカには弱いのだ。
 なんとか蓮はスピードの出ないマシンをだましだまし走らせるが、一度はかわした筈のマシンに次々に抜かれていく。
 二周走ったところで、ホームストレートで最下位のマシンに抜かれた。
 三十周目。大きく周回遅れにされるなか、タイヤ交換の為にピットインした蓮は、ニコルソン監督にそのままマシンを降りるよう言い渡された。ギアチェンジが思うに任せない状態で、低速のギアでアクセルを踏みっぱなしにして走った為、エンジンが過回転でブロー寸前の状態になっていたのだ。
 三戦目にして、蓮は二度目のリタイアを経験することになった。
「あーあ。やっぱりヤな予感がしてたんだ……」
 蓮はさすがにがっかりした様子で、積まれたまま出番が回ってこなかったタイヤの上に座り込む。
 彼女の脱落からほどなくして、フィールセンもまたトランスミッションにトラブルを発生させ、レースを終えた。
 それを受けて、ジャックウェルのピットでは、レース終了を待たずに撤収作業が淡々と進められていく。前戦で表彰台の味を覚えて期待が高まっていただけに、むなしさは一層だった。
「ギアだけじゃなく、電装系もまた異常ですか」
 作業を見守る駆は小田切に尋ねた。彼もチームスタッフの一員ではあるが、詳しい情報は、機密漏洩を恐れてか、担当スタッフ以外にはなかなか漏れ伝わってこない。メカニカルトラブルであるだけに、駆が詳しく知ったところでなにが出来るわけでもないのだが、やはり落ち着かない。
「正確に言うと、セミオートマのシフトを行う電気信号が正常にトランスミッションに伝わらなくなっていた。システムのバグという訳ではない。デリケートな新式のギアボックスとの相性が悪いようだ」
 エンジン周りのトラブルでない。そう応じる小田切としても他人事だと済ませられない様子で、表情は冴えない。
「結局は、ギアの問題なんですね」
「ジャックウェルというチームは、マシンの開発にかけてはかなり過激に新技術を導入する傾向がある。ギアボックスでも、可能な限りコンパクト化して軽量化を図り、なおかつエネルギー伝導効率を可能な限り高めようとする。まだ充分に熟成されていない技術であっても取り入れるんだ」
 無茶な話ではあるが、それがF1というものだった。もっとも、小田切にしてもそれは判っており、責める口調ではなかった。EARに対するシノダのようにマシン開発に携われない久遠の微妙な立場が、駆にも判り始めていた。

(五)


 第四戦の舞台はイギリス、シルバーストーン・サーキット。
 ジャックウェルにとっての本拠地であるが、同時にウィリアムズの地元であり、気鋭の新人、ジェイソン=バトルの故郷でもある。
 当然の事ながら、前戦のサンマリノとはうって変わり、イギリス勢への応援が多くなる。
 中でも一番人気はバトルであった。昨年までここイギリスのF3に参戦して好成績を残し、F1にステップアップしたのは蓮も同じであるのだが、やはり知名度では格段にバトルのほうが上のようだった。何事も斜めから観察せずにはおれない国民気質というべきか、蓮が第二戦で二位入賞を果たしたことを素直に評価する向きは少ない。
 曇り空の下、金曜日午前のフリー走行を控え、各チームのマシンが準備を進める。最初のマシンセッティングの打ち合わせを終えた駆はピットレーンに出て、グランドスタンドを見上げていた。
「凄いもんだなぁ」
「ジェイソンは昔っから人気者なんだよ」
 いつの間にか蓮も出てきて、駆と同じ姿勢でスタンドに視線を送っている。
「そうか、蓮はフォーミュラフォードとF3で、バトルとやりあった仲なんだったな」
 などと話しているところに、当のバトルがジャックウェルのピットに顔を出した。大量の地元マスコミを引き連れて。
「やほー。相変わらず人気者だね、ジェイソン」
 頭二つか三つ分は身長差のあるジェイソンを見上げて、蓮は笑顔を向けた。
「あぁ、その顔だ」とバトルが困り顔で肩をすくめる。「何度もレンに痛い目に遭わされているのを思い出したよ。僕への声援が大きいほど、レンのほうが張り切ってしまうからね」
「あれ、そうだったかな?」
「そうだよ。お陰で成績が心許なくなって、僕は危うく今年のステップアップを諦めないといけなくなるところだったんだ」
「へへぇ。じゃ、今度も勝ってみせちゃうよ」
「お手柔らかに頼むよ」
「そうもいかないよ、だってここはボクにとっても故郷なんだから」
 と、蓮。
 二人が楽しげに話しているのをみて、駆は言葉をかけそびれてそっとその場から離れた。
 バトルが持つある種のオーラに圧倒されてしまったのかも知れない。内心にわき上がる悔しさを、駆はそう観察する。F1ドライバーを前に顔をあげることの出来ない自分が情けなかった。
「くそっ。くさるな。今は自分のやるべきことをやるだけだってのに……」

 フリー走行が始まる。元々が飛行場の敷地を利用して建設されたシルバーストーンは平坦で、イモラにも劣らぬ高速サーキットである。
「なんだかうまくいかないなぁ。こんなに難しいコースだったかな?」
 マシンを降り、モーターホームに戻った蓮がぼやき、首を傾げる。本拠地であり、F3時代から走り慣れたコースではある筈なのだが、F1マシンに乗って走った回数はあまり多くないらしい。
 加えて、朝方から雨がぱらついた為にコースのコンディションがあまり良くない。生乾きといったところで、コースのライン上だけが乾いている。ライン取りにクセのある蓮にとっては、コーナーの飛び込みで路面の濡れたところに一瞬だけタイヤを落とす形になるため、やりにくそうだった。
 それは同時に、タイヤ選択に頭を悩ませる事も意味している。
 だが、蓮の調子の悪さはコースコンディションの悪さだけが問題ではないようだった。天性の速さを持つとはいえ、いや、だからこそ一度フィーリングがあわなくなってしまうと自分だけでは修正が効かないのだ。
「なにがどう、うまくないんだ?」
「えっとね……」
 コース図のコピーを見ながら、蓮が説明を始める。「このコーナーでがんばれない」やら「上手く曲がれない」といった曖昧な表現しか出来ない蓮の言葉に駆は辛抱強く耳を傾け、テレメータリングシステムではじき出されたマシンのデータと、録画されたテレビ画像を付き合わせて、問題点を探る。
 駆もここまでの三戦を経験し、ただ唖然と周囲を眺めていた訳ではない。各チームのドライバーの走りを目を凝らして眺め、ライン取りやブレーキングのタイミング、アクセルワークなどを事細かにチェックすることを覚えていた。
 その知識を元に、駆はれっきとしたF1ドライバーの蓮に対して走りをレクチャーすることになる。
「ホームストレートからコプス・コーナーへかけてと、ハンガーストレートからストウ・コーナーへかけての進入で、ブレーキングをあと五メートル遅らせる事が出来そうだ。そうなるとギアチェンジのタイミングが後のコーナーで変わってくるから……。ギア比も変える必要が出てくるかな」
 言いながら、駆はシャープペンシルでコース図にギアチェンジのタイミングを書き込んでいく。蓮は黙って駆の言葉を聞いている。
「あと、ゆるいコーナー……、アビー・カーブと最終のウッドコート・コーナーでの立ち上がりでアクセルの開きが荒い。もう少し抑えられるようなら、リアウイングを一ノッチ分寝かせたほうがタイムは向上するだろう。どうだ?」
 しばしの間、ぽかんとした表情で聞いていた蓮の表情がみるみる明るくなっていく。
「すごい、すごいよ、カケル……。そんなことまで判っちゃうんだ」
「前に言っただろ。俺はイギリスF3にフル参戦した事もあるんだ。このシルバーストーンは何度か実際に走ってるから、フィーリングは判るんだ。あとはF1のデータに当てはめて行くだけ。たいしたことじゃない」
「そんなことない。すごいよ。だってボクはF3でもF1でも走ってるけど、そんなことはちっともわかんなかったんだもん」
 尊敬のまなざしで瞳を輝かせる蓮を前に、駆は照れ笑いを浮かべるしかなかった。

 ミーティングを終え、上機嫌の蓮は食事をとるためにホスピタリティ・テントに向かった。一緒に行こうとした駆を、スペンサーが呼び止めた。
「シノダは、バージョンアップしたエンジンを持ち込んでいるそうだが。久遠のほうはどうなんだ? 今のスペック2も悪くはないが、向こうはもっと回せるエンジンだそうじゃないか」
「開発速度でワークスにカスタマーが勝てるはずがないじゃないですか。……久遠のチューニングではダメですか?」
「確かに前年より回転数ではあがっている。しかし、高回転時には、パワーバンドが唐突にかなり狭くなる。つまり、ピーキーなものになっている。これではギア比をあげていくのに一抹の不安が残る。特にレンのような、経験の少ないドライバーには厳しいだろう」
「しかし、こっちはこれ以上のことは……」
 困り顔の駆を前に、スペンサーは不意に表情を緩ませてぽんぽんと駆の肩を叩いた。
「判っているよ。だが、EARが羨ましくなったとしても、責められまい。これは私個人の意見でないぞ」
「判ります。私もドライバーの端くれですから。強力なエンジンはいつでも魅力的なものです。ですが、エンジンが強力であれば勝てるという時代でもないでしょう。マシンの空力やメカニカルな要素がどれか一つ欠けただけで戦闘力を失うわけですから」
「久遠のスタッフとも思えない台詞だな」
 スペンサーは肩をすくめた。彼もまた、駆に注文を付けたところで事が進まないことは判っているため、それ以上は口にしない。
 結局、翌日の予選では、午前中にまたギアのトラブルが発生した事もあって手間取り、蓮は十一番手に沈むこととなった。
「ごめーん、カケル。せっかくセッティング決めてもらって、アドバイスもしてくれたのに……」
 そう言って肩を落とす蓮と対照的に、フィールセンが予選二番手につけ、関係者を驚かせた。
 フィールセンは、マシン開発にテストから関わり、しかもシルバーストーンでは縁石の傷まで知り尽くすほど走り込んできた結果だ、と誇張も謙遜もせずに淡々とインタビューに応じる。だが、言葉の端々に、セッティングに苦しんで思うように走れない蓮を皮肉っているように駆には聞こえた。
「ま、気にするなよ」
 いつものように予選終了後、駆は蓮をバイクのバックシートに載せた。フィールセンが二番手になっただけでなく、ライバルと目されるバトルが六番手と好成績を残している。それだけに、蓮としては悔しさでいっぱいなのだろう。いつものはね回るような元気さがあまりない。
「うん……」
「フィールセンはファーストドライバーで、しかも開発にも携わっていた。マシンの癖がフィールセン向きになってるのは間違いないんだ。フィールセンと蓮じゃ、走り方が全く違う。ということは、NJ10は蓮向きのマシンじゃないってことだ」
「うん、でも――」
 駆の腰に手を回しながら、歯切れ悪く何か蓮が言いかける。
「いいから。気にすんな」
 駆は蓮の言葉を遮るようにアクセルをあおった。駆自身のうっぷんを張らすように、甲高い排気音が轟いた。

 日曜日の決勝。
 金曜日、土曜日とぐずついていた天気も朝になってどうにか回復し、雲間から薄日が差し込んでいた。芝地はたっぷりと水を含んでいるが、路面状況は午前のフリー走行でマシンが走り抜けた結果、ほぼドライになる。
 蓮は十一番手スタートだったが、第二戦のブラジル同様、予選順位が中段にあるほうが蓮にとってはリズムが良くなるらしい。
 スタートで前列の二台をかわすロケットスタートで飛び出し、その後も周回を重ねながら順調に前を行くマシンをとらえ、かわしていく好調の走りをみせた。
 だが、予選三番手、四番手からのスタートとなったマクラーレンの二台が速い。さらに、その後方からウィリアムズのクルト=シューバッハとジェイソン=バトルが食い下がる。バトルは地元とあって奮起しており、トップから多少タイム的に離されても集中力を切らずに走り続ける。蓮も簡単には追いつけないままに終わった。
 レースは、ポールポジションだったフェラーリのバリチェスがリタイアした事もあり、マクラーレン勢がワン・ツー・フィニッシュを決め、巻き返した。これまで開幕から三連勝を果たしてきたフェラーリのアルベルト=シューバッハは、予選五位から三位まで順位をあげるのが精一杯だった。
 ここまでマシントラブルに悩まされ、精彩を欠くことの多かったマクラーレンの復活に、詰めかけた観衆は大いに沸いた。
 終わってみれば、五位に入ったバトルに続き、蓮は六位入賞を果たしていた。まずまずの結果である。
 しかし、抜かれることこそなかったが、切れ味の良いオーバーテイクをみせる機会の無いままレースが終わってしまった。追いつくことが出来なければ、当然追い抜くことも出来ない。
 フェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズに続くこの順位は、まさに蓮とジャックウェルの現時点での実力を、如実に示しているかのようだった。
 一方、予選で二位に入り、ファーストドライバー健在をアピールした筈のフィールセンはマシンの不調に苦しんで十七位に沈み、面目を失うこととなった。トップからは実に六周遅れで、完走車中最下位に終わった。
 だが、気持ちを最後まで切らずに完走したフィールセンの姿は、ドライバーとして一つのあり方を教えて貰ったように、駆には思えた。
 トラブルが発生するのはある意味、避けられない。その原因を究明する為には、走り続けてデータを収集するしかない。それが次回からの戦いに繋がるのだ。

 第四話に続く

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