瑠璃色の星 第一話
(1)
せっかくの日曜日だというのに、夕方前になって天候は急激に悪化した。
雨。極端に酸性化したスコールが第三新東京に容赦なく降り注ぐ。
真っ赤な傘を射したルリは一人、図書館からの帰り道を急ぐ。この世の書籍の全てが電子化が為されている訳もなく、未だにそこは知的好奇心を刺激する場所であり続けていた。思いのほか長居してしまったことを心の底で悔やみながら、ルリは雨の中を行く。
ふと、彼女は小さな鳴き声に気付いて足を止めた。
怪訝そうに見回すと、電柱の陰に隠れるようにして置かれた段ボール箱が視野に飛び込む。
「犬……?」
すっかり水浸しになった段ボールに収まり、震える雑種の仔犬。その曇りのない瞳に見つめられ、ルリは少したじろいでしまう。
「貴方も私と同じなのね……」
拾い上げて、家まで連れて帰りたい衝動に駆られる。
しかし、それは許されないこと。
第一、そこが自分の家だという確信を未だに持てない状況で、両親と呼ぶのが躊躇われる養父母に何か頼み事を出来るほど、ルリはその生活に慣れていない。
卑怯者なのだろうか。拾われた自分、拾われない仔犬。
ルリは数歩足を進めた。
再び仔犬が小さく鳴く。ルリの足が止まる。
間。
ルリはくるりと振り向いた。駆け寄って仔犬を抱え上げる。濡れた毛が衣服に張り付き、脇に挟んだ傘の柄が傾いて雨がかかるが、気にもとめない。
意を決したかのようにルリは駆け足で家へと急ぐ。
スコールはいまだ降り止まない。
(2)
コンフォート17マンション。
玄関口のドアがスライドする音を聞きつけ、シンジは自室を飛び出す。先ほどからずっと妹の帰りが遅いのを心配して、なにも手に付かない状態だったのだ。
「やあ、遅かったね、おかえ……り……?」
ずぶぬれになって仔犬を抱いているルリを前に、シンジは絶句する。
「ただいま、……お兄さん」
恥ずかしそうに返事したルリが俯き、視線を足元に落とす。駆けてきた為か、その頬が赤く染まっている。
シンジは大体の事情を把握した。
「と、とにかく、そんな格好じゃ風邪ひくよ。その犬は、僕が面倒見るから、シャワーでも浴びてきなよ」
「ここ、ペットを飼っちゃダメなんですよね?」
胸に抱いた仔犬をシンジに渡しながら、ルリが尋ねる。
「判ってて連れて帰って来ちゃったんだ? しょうがないなあ、ルリは」
再び顔を赤らめて項垂れるルリ。シンジは慌てた。彼もまだ、この妹とのコミュニケーションに慣れていない。
「さ、早く」
「……はい」
靴下まで濡れているのを気にしながら、ルリは廊下を歩いていく。その後ろ姿を見送ったシンジは、ルリに悟られないように溜め息をつく。胸の仔犬がまた鳴いた。
(3)
外の強い雨足に対抗するかのように、シャワーの音が静かに聞こえてきた。
シンジは濡れねずみの仔犬をバスタオルに包んで念入りに拭いていた。ペットを飼った経験の無いシンジには、この後どうして良いのか、良く判らない。
くすんだねずみ色に見えた毛並みは、タオルで拭くうちに元の銀灰色の輝きを取り戻した。シベリアンハスキーかなにかの血が混じっているらしい。
「お腹も空いてるよな」
冷蔵庫から取り出してきた牛乳を、平皿に入れて仔犬にあげる。ぺちゃぺちゃと音を立てながら皿を舐める仔犬の姿に、シンジは一安心する。
「でも、捨て犬を拾ってくるなんて、ルリも意外なことするんだな」
苦笑いに近いものを浮かべてシンジは呟く。そして哀しくなる。
知人の子供を預かることになった。そう言って、ゲンドウがルリを家に連れて帰ってきてから、もう二ヶ月になる。
「両親を亡くした可哀相な子だから、仲良くしてあげてね」というユイの言いつけを守り、なるだけ優しく接してきたつもりだった。
が、未だにその内心を垣間見ることさえ出来ない。それは、シンジにとっては心の中に重荷となっている。僕は良いお兄さんになってあげられないのだろうか――。
と、シンジがしばし物思いに沈んでいると、再び玄関のドアが開く音がして、どたどたと足音が聞こえてきた。その足音で、訪問者をシンジは特定できた。
「シンジ、この間貸した”物理化学”の辞典、返して貰うわよ!」
リビングに入るなりそう大声で宣したアスカもまた、皿に頭を突っ込んでいる仔犬の存在に気付いて言葉を失う。
「あの本はルリが読みたいって言うから……、アスカ?」
「そ、その犬どうしたのよ!?」
タンクトップにショートパンツ姿という刺激的な格好のアスカを見ても、こうヒステリックに喚かれたのではシンジも閉口してしまう。
「ああ、ルリが拾ってきたんだよ。この雨にうたれてる仔犬を見つけたら、やっぱり拾っちゃうよな、普通」
「アンタ莫迦? ここ、ペット禁止なのよ、判ってるの?」
「判ってるけど、仕方ないだろ? ルリだって知ってるよ。可哀相に思って拾ってきただけなんだ、飼うと決めた訳じゃないよ」
「あ〜もう、ルリルリうるさい!」
アスカが金切り声をあげる。昔から怒りっぽかったが、ルリが来て以来、一段と癇癪持ちになった、シンジはそう思ったが、無論口にはしない。
そこに、シャワーもそこそこに、空色地に大きな白い水玉模様の入ったパジャマに着替えたルリが顔を出す。生乾きの髪をタオルで拭きながら。普通、ルリはそんなしどけない姿をシンジに見せることはないのだが、やはり仔犬が気になったのだろう。
その無防備な様に、シンジの心臓が妙な音を立てた。それに気付いたか、アスカが険のこもった視線をルリに向ける。
「あんた、こんなの拾ってきてどういうつもり!?」
「アスカさんには関係のないことですが」
紙縒で出来たようなアスカの堪忍袋の緒が切れる音を、シンジは心の耳で聞いた。
「じょ〜だんじゃないわっ! アンタがこんな勝手な真似すると、シンジが迷惑するのよ!! 大体アンタはまだ――」
「ねえ、アスカ」シンジはたまらず口を挟む。ルリを守ってあげないと。その思いが髪を逆立たせたアスカに立ち向かう勇気をシンジに与えてくれる。その是非は別にして。「僕は別に迷惑していないよ。ほら、可愛いだろ?」
仔犬の前足を背後から持って、シンジが抱え上げてみせる。
アスカが肩を震わせ、こめかみをひくつかせる。
「莫迦莫迦莫迦! もう、イヤッ!」
脱兎の如くリビングから飛び出していくアスカ。シンジは唖然としてそれを見送る。
「いいんですか?」
嵐の去った後、ルリが尋ねる。
「いいんだよ、いつものことだから」シンジは力無い台詞を吐いた。
間。スコールのかすかな雨音だけが聞こえる。
「それよりもほら、こいつ、こんな綺麗な毛色してるんだ」
シンジは犬の顔をルリの眼前に近づけて見せた。仔犬はルリの鼻を舐めた。
その牛乳臭い匂いに、ルリが嬉しそうに目を細めた。
(4)
時の経つのを忘れ、ルリは仔犬と戯れていた。
「で、どうしよう?」
シンジが頼りなげな声を出す。ペット禁止のマンションで、こっそりこの犬を飼うのか、どうするかの決断をルリに求めているのだ。
「どうしても飼っちゃダメなんですか?」
「たぶんね。そんなにこの犬が気に入ったの?」
無言で頷くルリ。胸元に犬を抱き寄せ、愛おしげにその毛並を整える様を見ていると、シンジにしても到底、元の場所に返して来いなどとは言えなかった。
「でも、育て方とか判るの?」
「”思兼”で調べます」きっぱりとルリが言い切る。
ルリの愛用するモバイル機の愛称だ。そもそも思兼とは高天原にあって大事に参画し深謀を示す神の名前とされている。日本神話のハイライトの幾つかに顔を出すにもかかわらず、それを祭る神社は存在しないという、少し不思議な神である。
シンジは、その命名を聞いたとき、ルリが自分の有様を例えているのでは感じた。この二ヶ月の生活の中で、ルリがとんでもなく頭の冴えた少女であることをシンジも知っている。
口が裂けても言葉に出来ないが、近所で評判の天才少女であるアスカをも凌駕していると感じている。それなのにルリは私立の名門中学への受験を考えるでもなく、目立たないように日々を過ごすことに心を砕いているように見える。
「どうかしましたか?」
考え事をしていたシンジの目を、ルリが覗き込んでいた。
「ん、あ、いや、別に……」
シンジは曖昧に笑って言葉を濁す。
「それに、僕達は兄妹なんだから、敬語を使わなくても良いんだよ」
「でも、……お兄さん、も無理してるみたい」
ルリとシンジは向かい合って苦笑を漏らしあう。
「ま、そのうち慣れるさ」
「そうですね」
「そうだ」シンジがポンと膝を叩く。さも名案を思いついたと言わんばかりの明るい口調になって言った。「ナルミさんに相談してみよう」
「ナルミさん?」ルリが初めて聞く名前だった。
「近所で喫茶店をやってるんだ。僕が小さい頃は、よく遊んで貰ったっけ……」
懐かしそうに話すシンジ。ルリの瞳がわずかに翳ったことを、彼は気付かなかった。
(5)
スコールが駆け抜け、空にはこれ見よがしの虹が懸かっていた。余所行きの紫色のワンピースに着替えたルリは仔犬を抱き、シンジに連れられて歩道を歩く。
ショッピングモールから少し離れた雑居ビルの一階に、少しばかり洒落た感じの喫茶店があった。
筆記体で描かれた英字の店名をルリは呟く。
「 ”ウイング・オーバー”? 変わった名前ですね」
「そうかな、ナルミさんらしいのかな、考えたこともないや」
そう言いながら、シンジはドアを開けた。カラコロと来客を告げる音がした。
「あら、シン君じゃないの、久しぶり」
カウンターでグラスを磨いていたナルミがにっこりと微笑んだ。シンジ達にとっては幸いなことに、時間帯のせいか他の客の姿はなかった。
「どうも、ご無沙汰してます」とシンジが頭を下げる
「そんな老けた挨拶しないの」彼女以外には絶対に似合わないと思われるエプロンドレス姿のナルミは噴き出しながら手を振る。「で? そちらの可愛らしいお嬢さんは、シン君の”新しい”恋人さんかな?」
「ち、違いますよ、それに”新しい”って何ですか!?」
「だってシン君にはアスカちゃんがいるから」
「アスカはただ家が隣だってだけです。ルリは……ちょっと訳有りなんですが、僕の妹です」
「へえ、確かに訳有りそうね」
手を拭きながらカウンターから出てきたナルミが、テーブル席の一つに二人を並んで座らせ、ナルミはその対面に着いた。
シンジは手短にルリが碇家に来たいきさつを話した。それほどシンジも詳しい事情を知っているわけではなかったので、いい加減な説明しかできなかった。
「ふうん。いろいろと大変ねシン君も。それで今日はその挨拶に?」
「あの、その言いにくい事なんですが」シンジはルリと、その胸に抱えられた仔犬に視線をやってから言葉を押し出す。「ナルミさんに、この犬をしばらく預かって欲しいと思いまして」
「お願いします。マンションではペットを飼えないんです」
ルリもシンジと一緒になって頼む。
「困ったわねえ……。私もマンション暮らしだから家には預かれないし。店の裏になら少し空き地があるけど、ウチもほら、客商売だから。衛生面での問題とかもあるし、きちんと面倒を見られるかどうか――」
ナルミは頬に手を当てて首を傾ける。
「置いてくれるだけで良いんです。世話は、私がします」
「ならなんとか……。でも、大丈夫?」
「はい。どうかお願いします」
身を乗り出して懇願するルリの健気さに、シンジは正直感動していた。世の中を諦観して感情を露にしないようにみえた普段のルリとは別人のように見えた。
(だけど、ルリって本当はこんなに感情豊かな娘なんだよな)
シンジは思わず、ナルミに頼み事をしに来たことを忘れかけていた。
そこに、カウンターの奥から声が掛けられた。
「真崎さ〜ん、食材仕入れてきました。冷蔵庫に入れときますよ。っと?」
「ご苦労様、アキト君。ちょっと卵と牛乳は置いといてくれるかな?」
ひょっこり顔を出したのは、黄色地のジャケットを羽織った優しげな面立ちの青年。ナルミが振り向いて声を掛ける。
「なんか作るんすか? 俺、やりますよ」
ナルミが話し込んでいるのを見て、アキト君と呼ばれた青年は気を利かせたようだった。
「じゃあ、お願いしようかな。二人とも、ホットケーキで良いかな?」
「あ、でも……」
「これは私の奢りだから、心配しないで。アキト君、ホットケーキ二人前。コーヒー紅茶、どっちがいい?」
シンジもルリも紅茶を頼んだ。ナルミがそれをオーダーする。
「わっかりました!」
威勢良く応えて、てきぱきと準備を始めたアキトの姿を、シンジは不思議そうに眺める。
「彼? 小野里アキト君。ちょっと前からウチでアルバイトして貰ってる、コックの卵さんよ」
聞こえよがしのナルミの台詞に、アキトはしきりに照れた。
「やだなあ真崎さん。まだ専門学校に通ってる途中なんすから」
「あの」ルリが口を挟んだ。「このコの事ですけど」
「ああ、そうだったわね。アキト君、店でちょっと犬を預かろうと思うんだけど、どうかな」
「犬っすか? まあ、店の中にずっと置いとくってんじゃなかったら、別に構わないっすけど? 裏の空き地ですよね?」
玉子をボールで溶きながらアキトが二つ返事で応じる。
「これで決まりね。いいわ、預からせて貰うわ。でもホントに”しばらくの間”なんでしょうね?」
ナルミの鋭い指摘に、ぐっと言葉に詰まるシンジ。自分の家で飼えないことが判りきっている以上、約束なんて出来ないのは明らかだった。
そんな姿を見ているルリの視線がシンジには痛かった。情けない、頼りにならないお兄さんだと思われているのだろうなそう思うといたたまれなくなる。
ナルミは小さく息をついた。
「ご両親には相談した?」
「いえ、ルリがこの犬を拾ったのはついさっきですから」
「じゃ、今日の晩、これからどうするのかきちんと話をして、また明日来て頂戴ね」
「……判りました。すみません」
項垂れるように頭を下げるシンジ。
やがて、ウエイター兼任のアキトが、自ら作ったホットケーキと紅茶を運んで来た。
「こちら、私の幼なじみの碇シンジ君と、その妹さんのルリちゃん」
「はじめまして」「こんにちわ」ルリとシンジが言葉を重ねる。
「よろしく」すこしおどけた口調でアキトも挨拶する。それからナルミの方を向いて言葉を繋げる。「ナルミさんの知り合いって、結構珍しいですよね」
「あんまり宣伝してないからね〜、私が喫茶店やってるって」
ナルミはそう言いながら席を立ち、ルリの元に歩み寄って両手を差し出す。その意味に気付いたルリは、名残惜しげに抱いていた仔犬を渡した。
「この犬、なんて名前?」
「あ、そういや決めてなかったんじゃ、ルリ?」シンジがルリに視線を向ける。
「サージ、です」
ルリは俯き加減の小さな声で言った。幻想世界を舞台にしたある小説に登場する銀狼の名。物語内ではヒロインをかばって命を落としているから、縁起は悪いかも知れない。ただルリは――自覚は無いかも知れないが――ヒロインと銀狼の、主人とペットという枠を超えた強い結びつきに憧れていたのだろう。
「ふうん、サージって名前なんだ、君」
ナルミは幸か不幸かその小説を読んでいないらしい。少し変わった名前だなと訝りながら彼女が仔犬の頭を撫でる様を、ルリは切なげな目で見上げていた。
「じゃ、私はサージを迎える準備をするから、アキト君、あとお願いね。シン君、ゆっくりしてってね」
「はあ……」とアキトのシンジの生返事が重なった。
ナルミはサージを抱いて、カウンターの奥の関係者用出入り口から、店の裏にある二坪ほどの空き地へ出ていった。
「あ、手を洗ってからのほうがいいね」アキトが洗面所を指さす。
「はい。ありがとうございます」
アキトはカウンターに戻り、あれこれと仕事を始めた。
ルリはその様を横目で伺いながら洗面所に入った。胸が高鳴っているのが不思議だった。それほど人見知りするタチではないと思っていたのに……。鏡に映ったルリの顔。合点がいかないと言いたげに自分を見つめている。
綺麗に手を拭いてテーブルに戻り、ナルミの座っていた席に着く。ホットケーキにシロップをたっぷりかけて口に運んだ。とても美味しいと思ったが、何故かそれを言葉にするのが躊躇われ、黙り込んでしまった。向かいのシンジがそれを心配そうに見ているのも恥ずかしく、ルリの頬が桜色に染まった。
(つづく)
『瑠璃色の星』(C)まルリ委小説製作委員会/NAMAKE企画,1998