瑠璃色の星 第二話
(1)
毒々しい色合いの夕焼けがまだ西の空に残るが、東の空には早くも遙か彼方で光り輝く星々がその存在を主張し始めている。
灯りのともり始めた家々の中には、第三新東京がいかに計画に基づいて隙無く作られた都市であろうと他と変わるはずのない、人それぞれの生活の営みがある。無論コンフォート17マンションにおいてもそれは例外ではない。
「それでその犬を、井上さんのところに預けてきたって訳? まったくもう、シンちゃんは困ったことがあると、今でもナルミさんに頼るのねえ……」
碇邸のダイニングキッチン。珍しく早くに帰宅した両親と共にするのも善し悪しだな、とシンジはばつの悪そうな顔をして、眉を寄せている母親――ユイの小言を聞いていた。
こうなることは判っていたのだから、犬のことは黙って置いたほうがよかったのかも、シンジはそんな事を考えはするが、ナルミとの約束は破るわけにも行かなかった。
ユイの声音にはどこか柔らかさを感じさせるが、目は笑っていない。
「今は真崎さんだよ、母さん」
正面切って言い訳しづらく、つい話題を逸らそうとしてしまう。
「あら、そうだったわね。私にとっては今でもお隣のナッちゃんだから。でも懐かしいわね、小さい頃のシンジはいつもナッちゃんナッちゃんって」
わずかに口元に笑みを見せたユイ。思わぬ方向に話が逸れてしまい、気まずげに目を伏せるシンジ。
「ナッちゃんって、喫茶店の真崎ナルミさんの事ですか?」
ルリが尋ねた。
「そう。昔は、お隣同士だったから、シンジがナルミさんに懐いてて。将来はナッちゃんをお嫁さんに貰うんだ、なんて言って」
「母さん、僕、そんなこと……!」
「要するに幼なじみという訳ですね。よくある話です」
そう言って横で何事もない様子で咀嚼しているルリの姿が、シンジには気になって仕方がない。
「今はその話は置いててよ」
「そうね」ユイは頷いた。「で、どうするの? いつまでも預けて置くわけにも行かないでしょう?」
「うん、それは、そうだけれど……」
「あんまりご迷惑おかけしちゃダメでしょうに……」
「判ってるよ。でも……」
ルリがどうしても、って言うから、という言葉をシンジは呑み込んだ。何があっても口に出来る台詞ではない。ルリの表情を伺う。何か言いたげ。シンジはそれを目で制する。
「保健所だな」
それまで無言で食事を続けていた父・ゲンドウが唐突に言葉を発した。
「父さん!?」
シンジが裏返った声を出す。隣ではルリが奥歯を噛んでゲンドウを上目遣いに見ている。
「貴方、いきなりなんてことを」
シンジとユイの剣幕に、ゲンドウは怪訝そうな顔をする。
「なんだ。狂犬病の予防注射を受けさせることが、そんなに問題なのか?」
同時に肩の力を抜く母と子。
「そういうことは分かり易く仰って下さいな、お願いですから。びっくりするじゃありませんか」
やれやれ、と軽く頭を振りながらユイがこぼす。
シンジは胸をなで下ろしながら両親のやりとりを眺めていた。あんまり安心してばかりも居られないな、と彼は思った。なにしろこれからどうすればよいのか、何も思いつけずにいるのだから。
(2)
”ウイング・オーバー”。
――”命短し 恋せよ乙女 紅き唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを”
営業時間前、店内にはBGMはまだかけられておらず、カウンターテーブルを拭くナルミの鼻歌――とんでもなく昔の曲だった――だけが静かに流れている。
モップで床を掃除しながらその歌に耳を傾けている小野里アキトは苦笑を禁じ得ない。
何かあると鼻歌を歌っているという感のあるナルミのレパートリーは多岐に渡り、アキトが聞いたことの無いようなものも多くあった。
結局芽が出なかったものの大学時代は声優の仕事もしていた、というだけあって歌唱力はなかなかのものがある、とアキトは思っている。声優であれば歌が上手いとは限らないだろうが……。
「”明日の月日は〜”」
「ナルミさん、楽しそうっすね?」
「そうかな?」鼻歌を止めて顔をあげ、小首を傾けるナルミ。そういう彼女の口元にははっきりとした笑みがこぼれている。
「なんかあるんすか?」
「そろそろ、ソウハチさんが帰ってくる頃なの」
「旦那さん、ですか?」
「うん」たれ気味の目尻をさらに下げ、ナルミは溶け崩れるような笑顔で大きく頷いた。「忙しい仕事だから、なかなか帰ってこられないんだけどね」
「真崎さんの旦那さんってどんな人なんすか?」
「優しくって、強くって、最高に格好良くっていつでも私を護ってくれる人」
全く臆面もなくそう言い切るナルミを前に、アキトの目が点になる。
「あ、はは……。真崎さんの王子様って訳ですか?」
アキトのとぼけた口調に、ナルミが苦笑する。
「王子様って感じじゃないかなあ? 騎士様かも」
そういって弾けるような笑い声をあげる。アキトはやれやれと頭を振るばかりだった。
(3)
数日後。
朝から容赦なく照りつける太陽は午後三時を過ぎてもなお容赦がない。アスファルトを焼く中、銀髪を陽光に煌めかせるルリが、歩道を懸命に駆けている。
背中には勉強道具と”オモイカネ”を収めた小振りな水色のリュックを背負い、右手にはコンビニで買ったばかりのドッグフードを収めたポリエチレン袋がしっかりと握られている。
見るからに華奢なルリが喫茶店”ウイングオーバー”の前にたどり着く頃には、彼女の息はすっかり弾んでいた。
二、三度、大きく肩で息を吸い、額の汗をハンカチで拭ってから、ルリは建物の間の狭い隙間を抜け、裏手に出る。そこに、彼女の愛犬・サージの仮設住宅があるのだった。
今日は平日。学校があった。家に帰る手間すら惜しんで、ルリはサージの顔を見たかった。残念ながら場所が通学方向と全く逆であるため、行きに立ち寄るという訳に行かなかったのだ。ここ数日、サージの処遇が決まらないままに、ルリはサージの元に通い詰めていた。
浮き立つ心を抑えかねて裏手に回ったルリは、そこで思いも寄らない光景を目にした。
「さあ、しっかり食べて立派なイヌになれよ、サージ。ここの食材はいいものばかりだからな、まあちょっと栄養バランスは偏るかも知れないけれどもさ」
「なに、してるんですか?」
がつがつと食事をむさぼるサージを前にしていた小野里アキトが顔を上げた。
「やあ、ルリちゃん。なにって、見たら判るだろ? サージに餌をあげてるんだ」
無神経な返事に、ルリの眉がつり上がる。
「餌って、ここの残飯じゃないですか! ひどいです、そんなの」
「え?」アキトはきょとんとした顔をする。ルリがどれほどサージの事を想っているか、理解できないのだ。「そこいらのイヌより、よっぽどいいもの喰ってると思うけどな……」
ルリは困り顔のアキトの弁明を無視した。
「おいで、サージ」
優しく声を掛ける。
だが、食事に夢中になっているサージは全くそれに応じない。
「サージ!」
ルリがきつい調子で、再び声を出す。ようやくのことでサージがのんびりとした調子で顔を上げる。
その瞬間、なにか耐え難い感情がルリの内心を満たした。普段は大人びた言動で周囲を困惑させている彼女の中に生まれた今の感情は、全く子供らしい、彼女自身馬鹿馬鹿しいと思えるものだった。
ルリは問答無用にサージを抱き上げた。ぎゅうと抱きしめ、頬ずりする。サージは黒目ばかりが目立つ眼でしばらくルリを見つめていたが、やおら小さく啼き、その口元をルリの頬に近づけた。
あるいは食事を中断させられたことに抗議しているのかも知れなかった。サージは妙に甘い匂いを帯びていた。ケーキか何かを食べていたのだろう。
独占欲。サージを誰にも渡したくない。幼い感情に突き動かされるまま、ルリはその場を脱兎のごとく駆け出した。
「あ、ルリちゃん!?」
残されたアキトが数泊遅れて後を追うが、狭い建物の隙間を苦労して抜けた時には、ルリはサージを抱いたまま歩道を駆け去っていた。
「……なんか、まずいこと、しちゃったかなあ」
後頭部を掻くアキトもまた、叱られた子犬のような眼になっていた。
「……どうかしたの?」
騒ぎが店内まで聞こえたのか、表の扉を開けて、ナルミが半身を覗かせていた。アキトは肩をすくめ気味にかいつまんで状況を説明する。
「困ったわね。しっかりしてるように見えたんだけどな。やっぱりまだ子供なのね」
「俺、ルリちゃんが何考えてるかよくわかんないっす。でも、大丈夫でしょうか? 俺、追っかけて来ましょうか?」
もし慌てて走っているルリが交通事故にでも遭ったら、とアキトは不安げな顔をしている。
しばし黙考していたナルミが首を振る。
「心配ないと思うわ、彼女、頭の良い娘だもの」
「さっきの言葉と違ってません?」
「大丈夫よ」ナルミは断言した。「忘れたの? 彼女には頼もしいお兄さんがいるのよ」
そういうと、さあ仕事仕事とばかりにナルミは引っ込んでしまった。
「真崎さぁん、それって全然説明になっていないっすよ……!?」仕事をさぼるわけにも行かず、渋々と後を付いて店内に入るアキトは、最後まで首を傾げたままだった。
中学校から帰ってきたシンジは、ルリがまだ帰宅していないことにすぐに気づいた。
きっとナルミさんの所だ、彼はそう直感する。普段、ルリがあまり友達と遊んで道草したりしないことを知っていた。
『あんまりご迷惑おかけしちゃダメよ』ユイの過日の言葉がシンジの脳裏に蘇る。その通りだと思う。まだこれからどうするか全然決めていないのに。なにか面倒なことが起こってなけりゃいいけど。
そう思うと矢も楯もたまらず、シンジは制服を脱ぎ捨てて私服に着替えると、玄関を飛び出した。ちょうど碇邸に、いつものごとく呼び鈴すら鳴らさずに踏み込もうとしていたアスカと激突する。
「ったあ……、何よいきなり!」
たたらを踏みながらも転倒せずに踏みとどまったアスカが、頭突きを喰らわされた額を抑えながらわめく。
「ごめん、ちょっと急いでるんだ」
「どこに遊びに行こうって訳? せっかくこのアタシが、バカシンジの宿題を見てあげようってのに。アタシに教えて貰わなきゃ、ぜーんぜんどうしようもない癖に」
アスカの険を含んだ声。しかしシンジはそれすら気にならない。
「ナルミさんの所だよ。すぐに戻るから。宿題は、そのとき」
シンジはそう言い捨てて、アスカの返事も待たずに飛び出していった。
「こら、待ってよ!?」
アスカの叫びが空しく廊下に響いた。
一体どこに向かって走っているのか、ルリにもよく判らなかった。サージと一緒に、どこか遠くまで行ってしまいたい気分だった。
もちろんそんな事は出来はしない。その点、ルリは嫌になるほど常識と現実と義理をわきまえていた。だからこそ、せめて今だけは、サージと一緒に遊べる場所に行きたかった。
結果たどり着いたのは、結構な広さのある緑地公園だった。
よほど手入れが行き届いているのか、広々と敷き詰められた芝生は立ち入りが禁止されることもないのに青々としていた。向こうのほうでは、ヒマを持て余した大学生らしき若者がサッカーの真似事などをしている。
ルリはその一角に立ち止まるとサージを腕から降ろし、リュックを芝生の上に置いた。そのままごろんと横になる。芝生の匂いが鼻をついた。サージが歩み寄ってきて、ルリの傍らでぺたんと座り込む。
なんだか妙に全身が熱っぽくて気怠く、頭の中にもやがかかったような感覚が残っていた。きっと走ってばかりいたせいだろう。ルリはそんなことを思いながらしばらくのあいだ寝ころんだまま呼吸を整えていた。しばらくしてあることに思い立って、袋からドッグフードの箱を取り出し、封を開けた。ほんの数粒だけを手に取り、それをサージの鼻先に突き出す。
「お食べ……」
先ほどあれだけ”残飯”をがっついていたにも関わらず、サージはドッグフードをパク付いた。さらに物足りなさげにルリの手を舐める。
「くすぐったいよ、サージ」
にっこりとほほえんだルリは、思わずサージを抱きしめていた。サージと居ると、例えようもなく幸せな気分だった。今までも面白からざる境遇を全て忘れられた。
バシッ!
最初、その音が何か、ルリには判らなかった。明後日の方向から飛んできたサッカーボールが自分の頭に命中したのだと気づいたときには、ルリはつんのめって芝生に顔を突っ込んでいた。
後頭部と鼻先を片手ずつで押さえながら身体を起こすと、安っぽい雰囲気の大学生が数名、駆け寄ってくるところだった。
「御免な、大丈夫かな?」
大学生の一人が――黄土色に染めた長髪をいい加減に束ねていた――笑いを含んだ言葉を掛けてくる。
ルリが自分の小さな世界を侵された事に腹を立てるより前に、サージが行動を起こしていた。幼い身体を懸命に大きく見せようと四肢を踏ん張り、低く身構えて今までにルリの聞いたことのない種類の声で、大学生に向けて啼いたのだ。
サージが自分を守ろうとしてくれている。ルリは嬉しかった。が、彼女の冷静な部分は、サージの行動が大変危険な挑発であることを察していた。
案の定、長髪の大学生は、なんだこいつ、とばかりに、軽く足を振ってけっ飛ばす真似をした。次の瞬間、サージは躍り上がって大学生のふくらはぎに噛みついていた。
「サージ、止めなさい!」
ほとんど飛びつくようにしてルリはサージを後ろから抱きしめて大学生から引き離した。が、その時には数名に四方を取り囲まれていた。
その場をシンジが目撃することになったのは、果たして幸運だったのか、どうか。偶然とも奇跡とも表現しがたいタイミングで、”ウイングオーバー”で事態を聞かされてあちこちを走り回っていたシンジが緑地公園に足を踏み入れていた。
前後の状況は全く判らなかった。ただ、ルリが何人もの大学生に詰め寄られている。その現状を見ただけで、彼の思考は半ば停止してしまった。
ルリを助けなきゃ。ルリにとっていいお兄さんになってあげなきゃ。
その一念が、見境もなく彼を突っ込ませていた。ルリを離せ、と気恥ずかしい台詞を吐きながら。
ここで彼が獅子奮迅の働きをみせて大学生を追い払っていれば、どれほど彼にとって素晴らしかっただろう。たとえ半ば状況を誤解していたのだとしても。が、現実は彼にとってどこまでも厳しかった。
一瞬呆れたような顔をした大学生が手加減なしに拳をふるった瞬間、シンジはあっけなく吹っ飛ばされてしまったのだった。
「シンジ兄さん……!」
悲痛なルリの叫びが却って見境を知らない若者達の加虐心を煽ったらしかった。異様な光景であった。相手にとっては、単にからかっているだけなのかもしれなかったが、シンジには己の無力心を思い知らされる情景であった。
シンジが現実から目を背けてしまいたくなった刹那。
ぶん、と空気を鳴らす音がしたかと思うと、一抱えもある黒い何かが、横合いから男達の頭部にぶっ飛んできた。
先ほどシンジを殴った長髪の若者は危うく腕で防いだものの、その重さに抗しきれずにひっくり返る。
「よう、碇さんところの坊主じゃないか? 久しぶりだなあ」
剣呑な調子で声を掛けてきたのは、剽悍な顔をとんでもなく日焼けさせた筋肉質の男だった。さっき投げつけられたのは彼の鞄らしかった。一口に鞄といえど、縦に置けばルリの肩まで届くような代物であり、しかも中身は相当に詰まっている。それを10メートル近く離れた位置から、気配を悟られることすらなく放り投げるような男である。シンジが知っている中で、これほど無茶な人間は一人しかいなかった。
「ソウハチさんじゃないですか!?」
真崎ソウハチ。真崎ナルミの夫にして、海上保安庁の特別救難隊第5班、通称”トリプルS”に籍を置く、血の気の多い男だった。
一目見ても、真崎のほうが大学生達より腕っぷしにかけては格が上だった。そのことをどこまで悟っていたのか、男達の何人かが、示し合わせたかのようにズボンのポケットから折り畳み式のナイフを取り出して、刃先を真崎の方に向けて構えた。
当然、ひるむことを期待しての行動なのだろうが、この状況を前に真崎は莫迦にしたように笑って見せた。
「どうにも楽しくなってくるな、おい? ど素人が。おい、そこ、本気でやるときは刃を上に向けて握るもんなんだよ。日本刀みたいに構える奴があるか!」
真崎はへっぴりごしの肥満体の相手に対してひとくさり苦言を呈して、そして、吠えた。
「痛い目に遭いたい奴からかかってこいや!」
その挑発はすぐさま行動を呼んだ。
ナイフを持っていない、真崎より頭二つは小柄な男が正面から突っかかる。真崎の腕を取り、動きを封じようという考えだった。真崎は腕を構えるでもなく、棒立ちになったままに見えた。
瞬間。
真崎の左足が男の両足の間にまで一気に踏み込まれたかと思うと、腰の入った重い縦拳の右中段突きが炸裂した。
「ィエイッサァ!!」
奇声としか表現できない掛け声と同時に拳が繰り出された。シンジの目には、真崎の肘まで男の腹までめり込み、突き抜けたかのように見えた。
くの字に身体を折った小柄な男がすっ飛ぶ。
逆上してナイフを繰り出した太り肉の男が、側頭部に飛び込んできた上段蹴りを綺麗に喰らって真下に崩れ落ちる。そこを容赦なく真崎は脚を払い、相手を頭から地面に落下させる。その間に真崎の背後に回っていた三人目が突っ込む。先ほどシンジを殴り飛ばし、真崎に鞄をぶつけられた長髪だった。振り向いた真崎の顔面めがけて拳をふるう。
真崎はその攻撃を半身を切るだけでかわし、右の下段蹴りで相手の両脚を薙いだ。同時に拳を繰り出した状態で伸びた腕を掴み、力任せに上方に引き上げながら自分の身体を宙に跳ねた男の真下に潜り込ませる。
「リャアッ!」
気合いが弾ける。真崎の両拳が、目にも留まらぬ連打となって男の腹部に叩き込まれ、相手が一瞬宙に静止した。もんどりうって地面に転げ落ちたときには、既に意識を失っていた。
「やりすぎですよ、真崎さん!」
「あ、そういやそうだ」
真崎がシンジの声を受け、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「ずらかるぞ、こりゃ、どう考えても過剰防衛だ」
真崎はそういうや、自分の鞄を担ぎ、ついでと言わんばかりにルリも片腕で抱き上げてしまった。
「きゃっ……!」
ルリは小さく悲鳴をあげ、足下ではサージが可愛らしい声で吼えている。が、真崎は委細気にする様子はない。
「あ、ちょっと、待って下さい……!!」
あっけにとられていたシンジがあわてて真崎の後を追う。
(4)
「自分で歩けますから、降ろしてもらえませんか?」
「ん? 悪い悪い。軽すぎて、担いでるのを忘れてた」
ルリの抗議を受けて、歩道の真ん中で真崎はルリを肩からゆっくりと降ろす。頬を紅く染めていたルリがぷいと横を向く。
「どうして、ですか?」
「なにが?」
ルリは自分の発した疑問が、頭の中で反響しているのを感じていた。どうして助けてくれたのか、と訊きたかった。が、本当、どうしてあんな暴力を振るうのか、とも尋ねたかった。ルリは結局、より疑問の大きいほうを問うた。
「暴力で物事を解決する大人は嫌いです」
真崎は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐににんまりと笑った。
「正直な感想で結構。おうよ、他人にどう思われようと知ったことじゃねえわな。特に、しょんべんくせえガキが相手じゃな、怒る気もしねえや」
「私、しょんべんくさくなんてありません」
「わはは。そりゃ悪かった。……さて。これからどうするんだ?」
頬を膨らませるルリの仕草も気にかけず、真崎がシンジに尋ねた。二人のやりとりを完全に傍観していたシンジは唐突に訊かれ、しどろもどろになって応じる。
「あ、その、ナルミさんの所に行かないと、心配してるかも……。その、ありがとうございました」
うなだれてシンジは礼を言った。なんという格好の悪さ。情けなさ。逃げ出してしまいたくなる。ルリにきっと嫌われてしまっただろう。なんて頼りないお兄さんなんだろう、と。
要領を得ないという表情の真崎を前に、シンジが経緯を説明する。
「なんともまあ、お騒がせな嬢ちゃんだ。坊主もしっかりしないとなぁ」
ルリの頭に掌を乗せ、無遠慮にぐしゃぐしゃと引っかき回しながら真崎が口をへの字に曲げてみせる。
「やめて下さい」
ルリは冷静な顔のまま、真崎の手を払いのけようとするが、真崎の太い腕から逃れるには、ルリは余りに非力だった。
その様に軽い嫉妬を覚えながらも、シンジは真崎に頭を下げる。
「……すみません」
「謝ったって仕方ないしな。まあいいさ。どっちにしろ俺もナルミの所に行く途中だった」
「あの」それまで黙っていたルリが、珍しくためらう調子で口を開いた。「……ごめんなさい、兄さん」
「いいんだよ。でも、ナルミさんの所でなきゃ、サージは置いて貰えないから」
「判ってます。ちょっと、サージと二人きりになりたかっただけです」
「うん、ルリは頭が良いから、それくらいのこと判ってるよね」
「はい」
素直に頭を下げるルリの姿に、シンジはわずかに満足げに頷いた。
”ウイング・オーバー”。
カラコロと来客を知らせる音を立てて扉が開かれると、カウンターでアキトが破顔した。
「ルリちゃん、良かった。さっきはごめんね。……真崎さ〜ん、ルリちゃんが戻ってきましたよ〜」
サージを抱えてうつむくルリに意識を取られていたアキトは、その後ろで大きな鞄を下げた男も、さらにはその後ろに隠れるようにして立つシンジの存在も気に掛けていなかった。
「はいは〜い。私はそんなに心配していなかったけれ……ど……」
カウンターの奥から姿を見せたナルミの言葉は中途で途切れてしまった。
「よぉ。新しいバイトの兄ちゃん雇ったんだな。腕は立つのかい?」
真崎の言葉もナルミには届いていないかのようだった。口に手を当てて立ちすくむナルミの目元には、涙さえ浮かんでいた。
「ソウハチさんっ!!」
半ば悲鳴のような声を挙げて、ナルミが真崎の元に駆け寄ってそのまま胸に飛び込む。
「……なあ、そりゃ驚かそうと思って黙ってたけどさ。そこまで大げさにしなくてもいいと思うぜ。半年も顔見せないとか、そういう訳じゃないんだしさ」
「でも、一ヶ月ぶり……」ナルミは首を振って泣きじゃくっている。傍らでアキトがぽかんと口を開けているのも、シンジが気恥ずかしげに明後日の方向を向いているのも、ルリが無表情で眺めているのも気づいている様子はなかった。
「そんなになるか? まあ、そういう仕事だしな」
「……ええ。これ、汚れ物ですか。まあ大変。すぐに洗濯しなきゃ……」
涙を拭いたナルミが真崎が下げたままにしていた鞄を無理矢理自分の腕に取り、その重さによろめいた。真崎が苦笑しながら鞄を取り戻す。
「先に戻ってるから心配すんなって。店がまだあるんだろ」
「え? あ、それはもういいんです。すぐ閉めますから。アキト君、今日は店終わりだから。後片づけしちゃっていいよ」
「は? はあ……」
急に笑顔になったナルミを前に、アキトがげっそりした顔で頷く。シンジがやれやれといった表情で、真崎とナルミのやりとりを眺めているのに気づき、小声で尋ねる。
「あれ、真崎さんの旦那さん?」
「そうですよ」シンジも小声で応える。「真崎ソウハチさん。仕事が忙しくて滅多に帰ってこられないから、偶に帰ってくると、ナルミさんはいつもこんな感じで」
「へえ。なんというか、意外というか」
アキトの難しい顔つきもよそにナルミの舞い上がりぶりは凄まじく、あたふたと半ば意味のない行為に時間をしばし費やしてから、二人は自宅への帰途に就いた。腕を組むでもなく、鞄を担いでさっさ大股で歩く真崎と、そのあとをぺたぺたと小走りに追い慕うナルミの後ろ姿は、傍目にはこれでうまく行ってるのだろうか、と心配になるほどアンバランスな光景だった。
「ほんと、莫迦ばっか……。ねえサージ、どう思う?」
その間、ルリは騒ぎから逃れるように店の裏手にまわり、サージを犬小屋の前に放していた。先ほど公園で感じた熱っぽさがまだまとわりついているような、奇妙な感覚がルリの身体に残っていた。きっといろんなことが一度に起こりすぎたせいだ、とルリは思った。
(つづく)
『瑠璃色の星』(C)まルリ委小説製作委員会/NAMAKE企画,1998