瑠璃色の星 第三話





(1)


「報告書は検討させて貰った。興味深い、と言って良いのだろうな」
「ありがとうございます」
「感受性が豊かになっている? それは想定外の事象なのか?」
「いえ。人間ですから。周囲の環境が精神に影響を与えるのはごく当然のことです」
「人間、ね。果たして”R”をヒトと呼んで良いのか――」
「冗談を言わないで下さい。彼女は、れっきとした人間です。あらゆる見地からみても、疑問の余地はありません」
「先代の愚を犯しているのではないのかね? ”R”が人間的な感情を有するということは、すなわち己の存在に絶望する可能性があるという事だ」
「だからこそ、私達が彼女を引き取り、人間が生きるべき環境を彼女に与えているのです。人間には、生きていく理由と場所が必要なのです。……レイの悲劇は繰り返させません」
「時々、君の価値基準が判らなくなるよ、碇ユイ博士。人工進化、その意味を理解しているのだろうね?」
「無論ですわ、白根教授。でなければ、研究を続行など出来ません」
「とにかく、”R”のことは君に任せよう。ただ、もし”R”を外の世界に出したが故の問題が発生した場合は、研究はただちにドイツ第二支部に移管することになる。そのこと、忘れないように」
「判っています。今では、”R計画”は向こうのほうが主流ですからね」
「それは皮肉と受け取って良いのかな?」
「いいえ、とんでもないです。医療分野のすそ野の広さにおいては、やはり向こうに一日の長がある、そう言いたいだけですわ」
「結構だ。次回の報告書では、もう少し具体的な成果を期待したいものだね。下がってよろしい」
 結局、教授は一度もルリの事を名前で呼んでくれなかったわね。ユイは研究室を辞しながら唇を噛んでいた。

(2)


 私立第三新東京文理大学附属小学校――通称・サントウブン小学校――は、4限目を控えた休み時間を迎えていた。5年A組の次の時間は算数だった。
「ねえ、ここなんだけどさ」
 甲高い声が教室中に響いた。ルリの目の前に算数の教科書が差しだされていた。
 ”オモイカネ”のキーボードを叩いていたルリが顔を上げる。活発そうな少女が期待のこもった目で覗き込んでいる。二人とも白地のセーラー服に黄色いスカーフ、紺のハイネックという取り合わせが特徴的な制服姿なのだが、周囲に与える印象は驚くほど異なっている。
「ね、お願い」
 そうやって拝んでいる少女は、鈴原という姓だった。ルリはシンジから彼女の事を少し聞いたことがあった。
 鈴原の兄、トウジがシンジと同級生なのだ。大阪弁を改める気の毛頭ない兄と違い、鈴原の発音は少し違和感の残るものの、普通の標準語だった。
「小数点のわり算なんて、実社会で役には立ちませんよ」
「もう。それは出来ない私達みたいなのの言い訳なんだって。ルリちゃんが言わないでよ」 鈴原が困った表情を見せる。次の算数の時間は小テストがある。
 ”想像・発想・洞察”を教育理念に掲げ、偏差値重視の教育を脱却しようと意欲的に取り組んでいる第三新東京文理大ではあるが、昔ながらの予習・復習・宿題、等々のシステムを放棄したわけではないのだった。
 ルリは仕方なく、教科書を自分の正面に向け直した。
 そして、ほとんど考える仕草を見せることなく、まるで何かを書き写すようなペースで次々と設問を解いていく。
「終わりました」
「え? あ……」惚けたような表情をしていた鈴原が我に返る。「え〜ん、どうやったのか全然わかんないよ〜」
 嘘臭い泣き真似をされても、ルリはどう反応して良いのか判らない。さすがに”オモイカネ”に向き直ってしまうほどの薄情さを持ち合わせていないが、かといって軽い調子で突っ込みを入れることも出来ないのだ。
 ちょっと前までなら――、研究所に居た頃なら、こういう手合いには容赦なく「莫迦ばっか」と言っていただろうな。ルリは途方に暮れながら、そんな事を考えていた。何故、そう言えなくなったのかは、自分でもよく判らなかった。
「ルリちゃん?」
 ふと気づくと、鈴原がルリの顔を不安げに覗き込んでいた。
「なんですか?」
「なんか、顔色悪くない? まあ、ルリちゃんは元々肌、白いから……」
「そうですか。いつもと変わらないと思います」
 時々、熱っぽかったり、気怠くなったりすることは口にしなかった。別に、鈴原に心配をかけたくない、という思いが働いた訳ではなかった。単に、医者でない鈴原にうち明けたところで、なんの解決にもならない、と醒めた思考が結論を導き出しただけのことだった。

(3)


 その日の放課後、ルリは日課になっていた”ウイングオーバー”には寄らず、まっすぐにコンフォート17に帰宅した。自分の部屋に戻ると制服を脱ぎ、動きやすい私服に着替える。
 白いTシャツにオレンジ色のショートパンツ、そして最近ちょっとお気に入りのベースボールキャップをかぶり、姿見の前に経ってみる。服装は行動的でも、抜けるように白い肌を露出しても、あまり健康的なイメージはない。
 やはり同じような格好をさせると、アスカのほうが似合う。それは認めざるを得なかった。何しろ体格が違う。ルリの場合、ボリュームのある髪さえ無ければ、なんだか少年のようにも見えた。
 どうしたものかな、と思っていると、玄関から音がした。シンジが帰ってきたのだった。
「準備は……あ、もう着替えてるんだね」廊下に顔を出したルリの姿ををみて、シンジが少し照れくさそうに視線を逸らせた。しなやかに伸びたルリの四肢を意識した為だが、さすがにルリはそこまで気が付かない。
「ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」
「はい、お兄さん」
 ”お兄さん”、の一言がわりとすんなり口に出来たことが、ルリは何故か嬉しかった。そしてシンジはもっと喜んでいる様子だった。
 言葉通り、シンジはすぐに着替えを済ませた。ポロシャツに綿パン。あまり冴えた格好ではないが、とりたててセンスが悪い訳でもないとルリは思った。採点が妙に甘いのは、身内だからかな、と思ってルリはどきりとする。いつの間にか、特に意識しなくてもシンジを兄と認識出来るようになっている自分に驚いたのだった。
「よし、じゃあ、行こうか。戸締まりは大丈夫だね」
 ルリの心に気づかないシンジが、はしゃいだ声を出した。
 二人が誘い合わせて出かけるのには理由があった。
 古いつきあいである真崎ナルミの夫・ソウハチが久しぶりに休暇を取って帰宅したというのに、ナルミから二人に「家に遊びに来て」と誘われていたのだった。
 どこをどう押せばそういう方向に話が行くのか、ルリには判りかねたが、シンジは大体予想がついていたようで、訳知り顔でその話を承っていた。
 ルリにとってはあずかり知らぬ事だと思ったが、なにしろサージを預かって貰っている身である。顔を出すくらいなら、というのでシンジに連れられて、ナルミのマンションに向かう。歩いて十分ほどの近所である。

 午後の陽光の差し込む居間は、なんとなく甘い匂いがした。
「お店、今日はいいんですか?」
 シンジは少し落ち着かない様子で室内を見回しながら、ナルミに尋ねた。
 普段は女性の一人暮らし同然の生活だけあって、真崎邸の居間はきちんと整頓され、趣味の良い調度品が並んでいる。
「うん、せっかくソウハチさんのお休みの時だからね」
 ナルミがティーセットを居間の真ん中にある丸机の上に置き、シンジとルリをソファに座るよう促す。
 並んで座った二人の対面に、ナルミが腰を下ろす。手慣れた手つきで紅茶を三人分カップに注ぐ。
「で、その、真崎さんは?」
 ナルミも”真崎さん”なのだが、シンジにはどうしても旧姓のイメージが強すぎて、その事を忘れてしまう。
「ソウハチさんは、ちょっとその辺り走ってくるって、さっき出かけちゃった」
「はあ」
 せっかくの休みなのに? シンジの間の抜けた返事はそう問うているのも同然だった。それに気づいて、ナルミが補足する。
「何しろ体力勝負の仕事だから。身体鈍らせると後が辛いんだって。それに、ただ走るだけじゃなくて、途中で、……シャドウボクシングっていうのかな、パンチとかキックとかの練習もしてくるんじゃないかな?」
 シンジはそれを聞いて、先日の真崎の立ち回りを思いだし、複雑な表情になる。身体を張ってでもルリを守るためには、自分もそうやって鍛えておかなければならないのだろうか、という思いがよぎる。
 きっと、アスカに言わせれば「アンタ、莫迦? その貧弱な身体で? 人には向き不向きってモノがあるのよ。まあ、莫迦シンジに向いてるものが何かあるかなんて、アタシは知らないけど」という具合に一刀両断されてしまうだろうな。シンジがそう心の中で結論づけつつ、ちらりとルリの横顔を伺う。
 ルリはシンジの葛藤ではなく、室内のある一点に興味を引かれている様子だった。
 ナルミがルリの視線に気づき、ルリが見ているサイドボードの上に飾られた写真立てに顔を向け、まぶしそうに目を細めた。
 写真には、オレンジ色の作業服のような厚手の上下を着て立つ真崎と、少し気合いを入れて化粧をし、カジュアルドレスを纏って椅子に腰掛けるナルミが写っていた。真崎は誇らしげであると同時に恥ずかしげ、一方のナルミは幸せいっぱいといった表情を浮かべている。
「なんの写真なんですか?」とルリが尋ねた。ナルミはともかく、真崎の格好が解せない様子だった。シンジも傍らで、ナルミの返事を興味深げに待つ。
「これね、ソウハチさんが特救隊のオレンジ服を貰ったときの記念写真なの」
 ナルミがまってましたとばかりに、嬉しそうに話し出す。
 海上保安庁特殊救難隊・通称特救隊とは、海難事故におけるレスキューを担当する特殊部隊である。作業時に着用する特殊救難服はオレンジ服と呼ばれる。しかし特救隊に着任したばかりの隊員はオレンジ色ではなく、青色の特殊救難服が与えられる。オレンジ服は一人前の証なのだった。
「今、真崎さんは特救隊でもさらに特別な、第五班ってところにいるんだって。最新鋭の武器とか使う訓練したり、空飛ぶ船みたいなのに乗って夜の海に出かけたり、大変だけどやりがいがあるって」
 空飛ぶ船、という幻想小説じみた表現にシンジは引っかかったが、ルリは別のところに疑問を抱いたらしく、質問を重ねる。
「……なんで人命救助に、武器がいるんですか?」
「さあ? きっと、海には危険が一杯、ってことじゃないかな?」
 あっけらかんと答えるナルミ。シンジとルリには、返す言葉がなかった。

 それから、どうということのない世間話が続いた。ナルミは楽しそうに、シンジの小さい頃の話を話題にした。ルリにそれを聞かせるために、話をそちらに持っていっているのだった。
 シンジはやたらと恥ずかしがり、話の腰を折ろうとばかりしていた。自然とルリは聞き手にまわり、黙り込んでいた。
「あの、私、サージに会ってきていいですか?」
 しばらくの間、居心地悪そうにしていたルリが尋ねた。
「うん。やっぱりルリちゃん、あの子の事が気になるか」ナルミは楽しげだった。
「いいんですか?」少しだけ意外そうな表情を見せるルリ。
「別に無理に引き留める気なんて無いしね」ナルミが微笑む。「シン君はどうする? も少し一緒にいてくれると、ソウハチさんが帰ってくるまでの時間、寂しくなくてすむんだけどな」
 そう言われては、帰りますとは絶対に言えないシンジである。
「じゃあ、ルリ、行っておいでよ」
「はい」後ろめたさを感じながらも、やはりサージの事が気になるルリであった。軽い身のこなしで立ち上がる。

(4)


「ねえ、シン君。どうしてルリちゃんはあんなにサージにこだわると思う?」
 ルリが玄関の戸を閉めるのとほぼ同時に、残ったシンジにナルミが唐突に尋ねた。
「え!? ……たぶん、寂しいんじゃないですか? ナルミさんが、真崎さんが居ないと寂しいのと一緒で」
 シンジが、さっきのナルミの言葉を思い出しながら応じた。ナルミは悪戯っぽい目でシンジをみている。
「どうしてそう思うの? ルリちゃんにはシン君がいるし、お父さんもお母さんもいる。学校にも友達が居るよ、きっと」
 ナルミの言葉に、シンジは自分が責められているような気分になってうつむいた。
「だから、たぶん……。ルリは、まだ僕たちの家族の一員だと思ってないんだと。一人だけ別の存在だと思って、その――」
「私は違うと思うな」
 ナルミが穏やかながらもはっきりした口調でシンジの台詞を否定した。
「え?」
「きっとルリちゃんは、シン君やご両親の愛情が照れくさいのよ。たぶん、自分が照れているという自覚もないんだと思うわ。むしろ、そういう親の愛、兄妹の愛ってのを素直に受け入れて甘えるのが莫迦みたいだと思いこんでるんじゃないかな」
 一方的に愛情を向けられるだけの存在で居たくない、自分だって誰かに愛情を注げる存在であることを確認したい、その思いがサージに一心に傾けられているのだろう、ナルミは優しげな笑みを絶やさないまま、そう説明した。
 しかし、聞き手であるシンジは、訳知り顔で話すナルミの口から、”兄妹の愛”という言葉が出た途端、真っ赤になって何も考えられなくなっていたのであった。

(5)


 喫茶店”ウイング・オーバー”
 店の主が自宅で、年の離れた幼なじみと紅茶を飲んで話をしているくらいだから、当然のことながら店のドアには”本日休業”の札がかかっている。ルリはそれを一瞥してから、いつものように店の裏手に回った。
 しばらくサージとじゃれあっていると、裏口の戸が開いて、ひょっこりとアキトが顔を覗かせていた。
「やあ、ルリちゃん、今日も来てたんだ。……この間は、悪かったね」
「アキトさんは、どうしてお店に?」ルリは不思議に思い、アキトの謝罪の言葉も聞き流して訊ね返す。
「店番」アキトはむっつりとした顔を作ってそう言ってから、苦笑いした。「店の器具使って、料理の練習して良い、ってナルミさんに言われて。それで」
 言われてみると、開いた裏口の戸の奥からは、いつものお菓子の甘い香りとは少し違った感じの香ばしい匂いが漂っていた。
「ねえ、ルリちゃん」
「なんですか?」
「ルリちゃんは大人になったら、何になりたい?」
 ルリは小首を傾げて、アキトの目をじっと見つめ返す。
「……大人には、なりたくありません」
「そっか」
 アキトが、一人決めをした顔で頷く。その表情をみて、ルリの心に好奇心が沸く。
「アキトさんには、何か将来の夢があるんですか?」
「ある」アキトはきっぱりと断言する。「予算が溜まるまでは、アルバイトでもなんでもしながら修行して、屋台のラーメン屋をやる。それで儲かって、腕も上がったら、自分の店を持つ」
 言われて初めて、ルリは、店の奥からの匂いが、中華風のそれであることに気づいた。
「じゃあどうして、喫茶店でアルバイトなんてやってるんです?」
「うん、まあ、色々あってね」途端にアキトが砕けた表情になる。
「これ、ですか?」
 ルリは親指と人差し指で円を作って見せた。
「はは、ルリちゃんは随分とはっきりしてるなあ」アキトが照れた。それから、はにかみながら首を振る。「確かにそれもある。それにオレ、ナルミさんのファンだし」
「ファン?」
「あの人、今はこうして喫茶店やってるけど、ちょっと前はアニメの声優さんだったんだ。今でも覚えてるんだ、ナルミさんが声あててたキャラ」
「ふうん」ルリが気のない返事をして、アキトの顔を伺う。
「あ、アニメファンを莫迦にした目つき。やだなあ」
「そういう訳じゃないですけれど。意外と子供なんですね」
「まあオレも、ルリちゃんと一緒で、本当は大人になんてなりたくないのかも知れないなぁ。ナルミさん見てるとそう思うよ。あの人、ホントに子供みたいに無邪気だからさ」
「なんだか、うまくはぐらかされた気がします」
 仏頂面のルリを前に、アキトが噴き出した。
「ごめんごめん。ねえ、もし良かったら、オレの作ったラーメン、試食してみてくれないかな? 喫茶店の調理台だから、火力が足りなくて色々工夫してみたんだ。うまく行ってるかどうか、確かめてみたいんだ」
「いいですけど、私、少女ですよ? 料理の批評なんて出来ませんけど」
「構わないよ」アキトがはっきりとした口調で言った。「おいしいかおいしくないか。それだけ聞かせて貰えば十分だから」
 こういう物言いを格好良いと思うか暑苦しいと思うかは、人それぞれなんだろうな、とルリは思った。彼女自身に照らし合わせてみれば、決して不快ではなかった。

(6)


 翌日。
「アキトアキトアキト〜!」
 店の入り口の戸を開けるやいなや、高槻ユリカの放った頓狂な声が、”ウイングオーバー”の静かな空気をぶち破る。
 他の客がいないから良いようなものの、営業妨害にも等しい行為であるが、ユリカは気にする様子もない。
「おめえ、大学のほうはいいのかよ」
「もう、アキトの照れ屋さん! 今日は午後から休講なんだ。だからわざわざ会いに来てやったんだぞ」
 カウンター席に腰をおろし、両肘をついて頬を抑えるユリカが満面の笑みを浮かべる。困惑するアキトの様子を、ナルミはその後ろで面白げに眺めるばかりだ。
 ユリカとアキトが幼なじみであることを、ナルミはアキトから話を聞いて知っている。どうにも昔から世話の焼ける相手だったらしい。
(昔はよくシン君もアスカちゃんにいじめられて、私のところに逃げてきたっけ)ナルミはふとそんな事を思い出し、懐かしい思い出と目の前の現実を脳裏で重ね合わせる。
 が、一応は店の主人という立場も同時に思い出して、「ほら、オーダーを聞いて頂戴」と、笑いを押し隠してアキトに言う。アキトは申し訳なさそうにナルミのほうに頭を下げてから、不機嫌そのものの声で招かれざる客に注文を尋ねる。
「……ユリカ、何にするんだ?」
「なーんでも。アキトにお任せ」
「あのなあ」

 ルリが店に顔を出したのは、ちょうどアキトがユリカを持て余しているところだった。
「やあ。こんにちはルリちゃん」
「こんにちは」
 少しだけユリカのことを訝る仕草を見せつつ、ルリはアキトとナルミに軽く会釈した。そのままカウンターの中に入り、アキトの後ろを通って裏口から外に出る。
「あれ、今の娘は?」
「ルリちゃん、ていってね。ここの裏で飼ってる犬の飼い主さん。マンション住まいだから、犬、飼えないんだってさ」
「ふーん」ユリカは興味なさげに相づちをうった。

「ほら、お食べ」
 その言葉を聞くやいなや、サージは餌皿に頭を突っ込んだ。音を立てて咀嚼し始める。
 ルリは、与えたドッグフードがたちまちの内に平らげられていくのを、目を細めて見守っていた。
 拾ってきた時より、心なしかサージの身体が大きく感じられた。
 今はただ可愛らしいだけの存在だが、いずれは、時には恐怖さえ感じさせるような逞しい成犬になるはずだった。
 ルリはその時の事を心に描いてみる。その頃には自分もそれなりに成長しているだろう。
 出来れば、毎日こうやって通い詰めるのではなく、もっと他の方法で毎日その成長を見守っていたいのだけど、と思う。
「ごめんね、サージ」
 軽く頭を撫でられて、サージが尻尾を激しく振りながら啼いた。甘えを感じさせる声だった。
 その鳴き声に、ルリはたまらないものを感じ、思わずサージを強く抱きしめていた。またサージが啼く。端から見れば、食事の邪魔をされて怒っているようにしか見えなかった。
 裏口が開いた。先日同様、アキトが顔を覗かせていた。
「ルリちゃん、サージの餌あげるのが終わったら、上がっておいでよ。何か飲むもの、入れてあげるから」
「お金、持ってません」
 相変わらず、有無を言わせない調子のルリの返事。
「いいよ、お金は」
「アキトさん、”これ”が大事なんでしょ?」
 ルリがこの間のように、指で輪っかを作った。
「ははっ、ルリちゃん相手に商売する気は無いって。それに、お金はユリカに払わせるから気にしなくていいよ」
「ユリカ、って、さっきの女の人ですか?」
「ああ。あいつの家は、金持ちだからな。コーヒー代が倍になったって、どうってことないんだ」
 アキトがぶっきらぼうな調子で言った。
「随分とユリカさんのこと、詳しいんですね。恋人ですか?」
 ルリの言葉に、アキトはてきめんに慌てた。
「ば、莫迦なことを……! そんな訳ないじゃないか。ルリちゃん、大人をからかうのは良くないよ」
 その狼狽えぶりに、ルリの心が少しだけ痛んだ。が、その一方では、もっと意地悪な事を言ってみたくなる。
 さてなんて言おうか、ルリがそう思ったとき。
 ふと、彼女の目が霞んだ。
 最近、妙に熱っぽい気がする。風邪気味だろうか。
 ルリはそんな事を考えながら、抱いていたサージを足元におろし、立ち上がろうとした。
 意に反して膝から力が抜けた。
 バランスを取ろうとするが、足がもつれた。立っていられず、そのままどさりと地面に倒れ込む。
「ルリちゃん、大丈夫? ……ルリちゃん? ルリちゃん!」
 アキトの呼び声が、やけに遠くから間延びして聞こえた。

(つづく)


 『瑠璃色の星』(C)まルリ委小説製作委員会/NAMAKE企画,1998