瑠璃色の星 第五話
(1)
第三新東京総合病院。一階待合室。
ユイが流石に深刻そうな表情で、背もたれのない茶色の長椅子が並べられた待合室の端に立っていた。
「……母さん」
シンジは話のきっかけを探しあぐね、声を掛けたものの言葉が続かなかった。本当は尋ねたいことが山ほどあるのに、どこから聞いて良いのか見当も付かない。
「何か飲む?」
それを見たユイが、壁際に並んだ自動販売機の列を見ながら聞く。シンジは無言で首を横に振った。
「母さん、教えてよ。ルリの病気は一体……?」
ようやく、思い詰めた口調でそれだけ問うシンジ。
「病気じゃないのよ。体調を崩しているだけ」
そう応じるユイの顔には憂色が濃く浮き出ていた。シンジはその表情の裏にある何かを感じ、納得せずに畳みかける。
「そんな。だって発作とか起こして、凄く苦しそうだったって、ナルミさんも言ってたのに! 隠さないで、教えてよ」
険しい表情で睨むシンジを前に、ユイは後ろめたさからか、しばし視線を外してから、大きく息を吐いた。
「……そうね。もうシンジも子どもじゃないものね。全てを知っていたほうが良いわね」
ユイが自分を納得させるように頷いてから、静かな声で問いかけた。
「シンジは、お母さんとお父さんが今どこで働いているか、知っているわね?」
「人工進化研究会とかいったよね? でも、何をしているかは知らない」
「人工進化研究というのは、平たく言えば遺伝子の研究のこと。原始的な単細胞生物の誕生から現在に至るまで、進化の過程を遺伝子情報をたどる形でさかのぼり、遺伝子に刻まれたデータを明らかにするのが目的よ」
「遺伝子のデータを」シンジには、言っていることは判っても、そこから何が得られるのかがよく判らなかった。
「遺伝子は恐ろしく巧妙な仕組みで、数多くの情報を世代を超えて伝えていく。だけど、たとえそれが神の仕業としても、遺伝子情報も完璧じゃないの。人間の遺伝子を例に考えても、先天的な遺伝病や、病気とは言えないまでも健常者より劣る形質が伝わるときもある……」
シンジは学校で習った生物の授業を思い出した。同時にぞっとしたものが背筋を走った。
「まさか! 遺伝子の中の悪い部分をどんどん取り除いて、完璧な遺伝子を作るって事!?」
「そういうことよ。そしてその研究の範疇には、当然ヒトも含まれるわ。ヒトの遺伝病克服も、大きなテーマの一つだから。元々、この計画を提唱して、推進していたのは星野博士という方。立派な、信念を持った方だったけど亡くなられて、その計画を私達が継いだという訳」
ユイは説明しながら、苦しそうな表情を垣間見せた。
遺伝の優性、劣性が社会的に語られるとき、それは医学上の問題を超えた禁忌となる。それは容易に人としての尊厳を失わせる差別問題へと発展するからである。シンジはそんな研究を平然と行っていた両親に恐怖を感じたが、何故ユイがこんな話を始めたかに思い至り、表情を凍り付かせた。
「じゃあつまり、ルリは……?」
「”R計画”は」ユイが、遠くを見るような目つきで話す。「遺伝子の不良部分をかなりの確度で取り除いた上で、ヒトを人工子宮の中で誕生させ、その成長過程をデータ化するというものだったわ。ルリは計画開始から二番目の研究素体よ」
「そんなの、ひどいよ。ルリはそのこと、知ってるの?」
「自分が、普通の人間とは違ってることは知ってるはずよ。でも、私達が怖くなるくらい、彼女はその事実を当たり前のように受け入れてる……。情緒が欠落しているといったら良いのかしら。彼女を研究所の中に閉じこめていても、実生活においての事象を研究することが出来ない、と――」
「ルリは、情緒が欠落してなんかいないよ!」
シンジが場所柄もわきまえずに声を荒げる。
「……そうね。私も、家に引き取って育てることが出来て本当に良かったと思ってるの。だけど、身体の成長過程で想定外の体調不良が発生してしまったわ。こんなことになるなんて、本当に残念だわ」
「ルリはどうなるの?」
「ここでは、対処治療が精一杯で、下手すると一生病院暮らしになりかねないわ。だから、遺伝子研究のより進んだドイツ第二支部に移送して、遺伝子レベルの治療を行う必要があるのよ」
「ドイツ……」シンジが遠くを見る目になる。「そこに行けば治るの?」
「ええ。時間は掛かるでしょうけど」
「どれくらい?」
「断定は出来ないわ。一年後か二年後か……。なにしろ、身体を構成する最も根本的な要素を作り替える作業になるから」
「……」
シンジは呆然と、しばしその場から動くことが出来なかった。
(2)
コンフォート17。
シンジは腹を決めていた。ユイの話を信じるならば、安静にさえしていれば命は助かるだろう。だが、そうであるならば、せめてドイツに行く前に、ルリをサージに会わせてやりたかった。
「このままドイツに行かせたくないものな」
決意は固まっていたが、さすがにその為の準備を始めるときは額に汗が浮かんだ。それでも勇気を振り絞って、必要な物を揃え始めた。
「シンジ、居るんでしょ?」
相変わらずの強引な調子で、アスカが玄関から入ってくる。シンジは無言で準備を進める。
「何してるのよ?」
部屋を散らかしているシンジに、遠慮なく胡散臭そうな視線を浴びせてアスカが尋ねた。
「病院に持っていく荷物を選んでるんだよ」
「聞いたわよ。ルリ、明後日にはドイツの病院に行くんだってね。その為の荷物?」
「そうじゃないよ。これから持って行くんだ」
「そんなの、役に立たないわよ。すぐに持って帰ってこないといけないんだから。アンタ、まさかドイツにまで付いていくつもりじゃないでしょうね?」
「……無理だよ」シンジは気弱げで自虐的な笑いを漏らした。「僕は到底、外国でなんて暮らせない。一緒に行ってやりたいけど。もし行っても、大したことはしてやれないし」
「そうよね。そりゃそうよ。アンタにはアンタの生活があるんだから」
戸口に立つアスカに背を向けたまま粛々と準備を進めるシンジが、堅く拳を握った右手をわななかせていた事は、アスカには気づかれなかった。
だが一方では、シンジの女々しい台詞にアスカが明らかに安堵の表情を浮かべた事もまた、背を向けたシンジは気づかなかった。
(3)
病室。
即応体制の高い集中治療室とはいえ、関係者であれば面会謝絶という訳ではないらしかった。さしたるチェックも受けないまま、シンジはルリの新しい病室に入ることが出来た。
見たところ、ひどく殺風景な部屋だった。細長かった部屋がほぼ正方形になったのと、常時看護婦が詰めているのがまず目に付いたが、前の部屋にあった流し台が無く、クローゼットもコンパクトにまとめられて壁に埋め込まれていた。
シンジはアキトに倣ってか、荷物と一緒に大きな花束を片手に持っていた。
「すみませんが、ちょっとだけ二人で話をしたいので、その間に、花瓶に水を入れてきてくれませんか」
いつになく決然としたシンジの口調に、兄妹の会話を立ち聞きされたくないのだろうと、看護婦は物わかりの良いところを見せた。今のところ、発作が起こる前兆もなく、看護婦は花束を受け取ると、病室を出た。
「お兄さん……」
シンジの思い詰めた顔に、ルリが怪訝そうな表情を浮かべる。ルリはドイツ行きを聞かされたときも、平静さを崩さなかった。
だが、シンジが持ち出してきたよそ行きの服――サージを拾った日、ナルミの喫茶店に相談に行ったときに着た紫色のワンピースだった――を見て、ルリは混乱した。
「行こう、ルリ」いつになくきっぱりとした口調で言い切るシンジを前に、その混乱は増大する。
「何処へですか?」
「サージに会いに行くんだ」
「え?」
「会いたいだろ? このままずっとここにいたら、直接ドイツ行きの飛行機に乗せられて向こうに行くことになるんだ。何時帰ってこられるか判らないって母さんは言っていた。今、サージに挨拶しておかなきゃ、ダメなんだ」
大人の世界に今まで正面から逆らったことのないシンジが、大胆不敵な脱走計画を口にしたことに、ルリは驚きを隠せなかった。
だが、同時にうれしさがわき上がってくる。サージに逢えることも嬉しいが、それ以上に、シンジがここまで自分のために無理してくれることが、正直に嬉しかった。良い家族、良い兄を単に”演じて”いるのであれば、絶対に出来ない筈の、文字通り親身の行為だったからだ。
看護婦が病室に花瓶を持って戻ったときには、ベッドの上に人影は無く、花瓶を置く筈だったキャビネットの上に、「昼までには戻ります 碇ルリ」と書かれたメモだけが残されていた。
(4)
アキトはナルミと共に、開店前の準備を進めていた。店内を掃除し、いくつかの食材の下ごしらえをして、グラスや皿を用意する。
「そうだアキト君、サージに朝御飯をあげてきて頂戴」
ほぼ準備が一段落し、店を開ける段になって、ナルミが言った。
「そうっすね」
「サージ、ルリちゃんが来なくなってからちょっと元気が無くなってるみたいだから、餌は多めにしてあげて」
「わっかりました」
アキトが戸棚の隅に置かれていたドッグフードの紙箱を手にとって、裏口から外に出る。
「え?」
余りに思いがけない光景を前にして、アキトはしばし呆然となった。
そこには、サージを胸に抱いたルリが居たのだ。傍らにはシンジも居た。
軽いパニックに襲われたアキトは「外出が許可されたのかな?」と考え、一瞬対応が遅れた。シンジがルリの腕を取って駆け出したのを見て、ようやく事態を把握した。いや、把握したというよりは、行動を起こさなければならないと気づいたと言った方がよい。
「ナルミさん! ルリちゃんが来てます!」
裏口から再びカウンターの中に飛び込んだアキトが叫んだ。
「え? どういうこと?」
「サージを連れに来てるんですよ!」
「そんな筈は……」
怪訝そうな声を出したナルミだが、開店前の喫茶店の入り口を開けて外の歩道を見た。ちょうど、裏手からシンジとルリが手を取り合って飛び出してくるところだった。
「どうして……? シンくん! ルリちゃん!」
ナルミも大声を出して呼び止めるが、二人は振り返りもせず駆け去っていく。
「アキト君、なんだかよく判んないけど、とにかく追いかけて。私は病院の方に電話してみるから」
「はい! いったいなんで病院から出てきたんだろう」
アキトはナルミに問いかけるでもなく疑問を口にして、店内を横断して入り口から歩道に出て、ナルミの脇を抜けて後を追った。
10分ほどして、アキトが息を切らせて戻ってきた。
「すいません、見失ってしまいました。朝のラッシュ時にぶつかってしまって……」
アキトが申し訳なさそうに頭を下げる。
「そう。仕方ないわ。病院には連絡しておいたから」
「大丈夫すかね? 確か、ドイツ行きの飛行機が出るのは今日でしょう?」
「ええ。でも夕方って話だから、まだ時間はあるわ。そっか、きっとルリちゃんはサージにさよならが言いたかったのね」
「でも、病院を抜け出すなんて無茶だ、しかもシンジ君も一緒になって。病人のルリちゃんを連れ出すなんて、どうかしてるぜ」
しばし荒い息を吐いていたアキトは憤然として、テーブル席の一つに、勢い良く腰を落とした。
(5)
前にもサージを連れて”オーバーロード”から逃げ出してきたことがあった。
その時のルリは街中の緑地公園で足を落ち着けたのだが、今度はシンジと一緒に、芦ノ湖と富士山、そして第三新東京市の都心部ビル群が綺麗に映えて見える高台の公園に来ていた。
「ここはね」シンジが、公園端の木の手すりに肘をついて、芦ノ湖を見下ろしながら言った。「悩んだり、落ち込んだりしたときに良く来る場所なんだ」
「秘密の場所、ですか?」
サージを足元に降ろしたルリが、シンジの見つめる先に視線を合わせて聞いた。
「うん。多分アスカもこの場所は知らない」
しばらくの時間、二人はその場所でゆっくりとした時間を過ごした。ルリにとっては今までの日々に別れを告げる大事なひとときだった。
一体どれくらいの時が流れたのか。
ルリとじゃれあっていたサージがふいに耳と尻尾を立て、顔を振り仰いだ。その視線の先をルリが伺う。今まで年相応の無邪気な笑みを浮かべていたその表情が、悟ったような澄まし顔に戻る。
「いや全く、走りまわっちまったぜ」
面倒くさそうな顔つきで腹に響く声を出す真崎が歩み寄ってきていた。
「どうしてここが……? アスカが知っていたんですか」
シンジは咄嗟にルリをかばうようにして真崎の前に立っていた。が、如何せん、先日ルリに絡んだ大学生を瞬時に叩きのめした真崎が相手だ。実力行使で敵う相手ではない。
「アスカ? ああ、坊主の隣の家に住んでる、坊主の同級生だな。……別に誰に聞いた訳でもない。ナルミが、思いつく限りの人間に手分けして探させていてな。大騒ぎだ。で、俺が当たりくじをひいただけだ」
真崎は、シンジやルリのクラスメイトが、学校の授業を返上して街で二人を探していると教えた。流石に自分がいかにだいそれたことをしたのかを思い知らされたシンジは蒼白になっていた。
「ま、そんなに心配するなって。俺もガキの頃は良く授業をさぼって抜け出した。さ、送っていくぜ」
真崎は低い笑い声をもらし、公園の横を走る道路に止めた、丸っこいデザインのショートワゴンへとシンジとルリ、そしてサージを導いた。
第三新東京総合病院に戻る道すがら、真崎は携帯電話でナルミと、主立った関係者に連絡を取っていた。
そのお陰で二人と一匹の捜索に散っていた人達はそのまま、ルリの旅立ちを見送ることが出来た。
専用のリアジェット機が既に駐機場に待機する中、ルリは人混みでごった返す第三新東京国際空港のロビーで、ドイツ第二支部から派遣されてきた医師に付き添われて見送りを受けていた。
「貴女と一緒に暮らして、本当にいろいろと教えられたわ。治療が終わったら、また一緒に暮らせるように、部屋はきちんと置いて、掃除しておくから。ねえ、貴方」
ユイが言い、ゲンドウが「ああ」と言葉少なに頷く。
「大変だろうけど、頑張って」アキトは潤んだ瞳をルリに見せまいとして顔を背けていた。
「ちょっとしかお話しできなかったけど、元気になったらまた”ウイングオーバー”で会えるかな?」
大学の講義を抜けてきたユリカが、悲壮感とは無縁な朗らかな笑顔で問う。
「絶対に、手紙、頂戴ね! ルリちゃんがドイツに行っても、私は絶対、ルリちゃんのこと友達だって思ってるから!」
ユリカとは対照的に、悲鳴のような声をあげる妹の肩を、鈴原トウジが軽く押さえる。その表情は限りなく優しかった。
「ま、ドイツは良い国だし、ずっといても良いんじゃない?」
アスカは相変わらずの突き放した調子。沈みがちな周囲を明るくしようとしている訳ではなかった。
「うーん、看板娘がいなくなると、店の売り上げに響いちゃうな……。だから、早く戻ってきてね。それまでサージは預かって置くから」
懸命に笑顔を作ろうとしながらも、やはり目尻に涙が浮かんでくるナルミ。その傍らにいた真崎が「子供を商売のダシにするなよな」と素っ気なく突っ込みを入れて、それまで無言だったシンジの頭にごつい掌を乗せ、乱暴に押し回す。
「ルリ……」真崎に促されるように、シンジが呟く。何か口にしただけで、涙がこぼれそうになる。涙は見せたくなかった。「ルリが来てくれてから、凄く毎日が楽しかったんだ。だから、すぐ戻ってきてよ。ルリがいない生活なんて……」
「ありがとうお兄さん。じゃ、行ってきます」
ルリが頷き、言葉少なに応じた。もう出発の時間だった。
ルリの旅立ちを察したのか、サージが名残惜しげに足元にまとわりついていた。
(6)
第三新東京国際空港。
観光シーズンではないが、ロビーには様々な人達が行き交っている。
「この光景は、あのときと変わらないや」
シンジが辺りを見回しながら、眉を寄せて呟いた。
あれから、5年の歳月が流れていた。
シンジの足元には、今では逞しく凛々しい成犬となったサージが静かに控え、それでもシンジの弾んだ気持ちが伝わるのか、時折尻尾を振っていた。
アスカもシンジも、共に大学に進学していた。当然のように、学力が違いすぎて、アスカが一流国立大に難なく合格したのに対し、シンジは猛勉強の末にようやく一流半の私立大でどうにか格好を付けていた。
「そろそろ時間よね」
シンジはそわそわと落ち着かない。その横にいるアスカが呆れたような、恥ずかしそうな、同時に鬱屈した複雑な表情を見せて声を掛ける。
無理もなかった。今日は、5年にも及んだルリの治療がようやく終わり、帰国を許されたルリが日本に戻ってくる日なのだった。
世間から隔離されたドイツ第二支部隷下の病院で治療を受けている間、ルリには面会はおろか、手紙や電話で連絡を取ることすら許されなかった。シンジの元に数ヶ月に一度、無事を知らせるルリの手紙が一方的に届けられるのみだった。
「あの」
ロビーで待ちかねていた二人の後ろから、一人の女性が声を掛けた。
聞き覚えのある声質に、シンジとアスカが一瞬顔を見合わせてから振り向く。
タイトな紺のワンピースの上から、体形を隠すように白いケープを羽織っている。丈の短いスカートから、灰色がかったストッキングに包まれた脚がすらりと伸びている。
「……ルリ?」シンジが呆けたような声を出す。
スレンダーな、見事なプロポーションをした彼女を、シンジはしばらくルリと認識できなかった。側頭部で艶やかな銀髪を二つにまとめるのは昔と変わらないが、その髪は腰に届くほどに長く伸びていた。
だが、ルリのほうはすぐに、整った口元をわずかに緩めて、はっきりとした声で言った。
「ただいま」
その表情が、五年前のルリの姿としっかりと重なった。途端にシンジの目元が潤んだ。
「おかえり。やっと会えたね、ルリ」
「はい、お兄さん」
ルリがシンジの元に駆け寄り、アスカや、周囲の人々の視線を全く気にも留めず、そのまま胸に飛び込んだ。シンジはよろめきながらも、しっかりとそれを受け止めた。
足元のサージが一声、鋭く鳴いた。
(おわり)
『瑠璃色の星』(C)まルリ委小説製作委員会/NAMAKE企画,1998