『晴れた日は屋上へ行って』第一話
(1)
最初はなにか判らなかった。
自分がしっかり顔をうずめているものの柔らかさ、そこから発せられる甘い香りに包まれてひどく幸せだった。
しばらくしてそれが何であるかに気づいた。幼なじみの胸だった。藤田浩之はそこへ幼児のように身を寄せていた。
となればこれは夢だと浩之は考えた。まずいな、浩之は率直な感想を抱く。このままもう少し楽しんでいたいのはやまやまだけれども、そうしてしまえば目覚めた後でずいぶんとばつの悪い思いをするのではないか、そう確信できたからだった。
遠くから、今自分が顔を寄せている胸の持ち主であるはずの声が聞こえてくる。そんなことはあり得ないはずだった。必要以上に生々しい感覚があったが、やはりこれは夢なんだな、溜め息をつく思いで浩之は目を開けた。
やはりそこは見慣れた自宅の二階にある自室であり、その部屋には彼以外に誰も存在していなかった。
「浩之ちゃ〜ん、遅刻しちゃうよお」
階下から聞こえてくる神岸あかりの声。浩之は曖昧なうめき声をもらしながら布団をはねのけた。思わず股間の感触を確かめている。ああと浩之は思う。早めに目を覚まして良かった。もう少し楽しんでいたら、あぶないところだった。こんなことが原因で遅刻しては、情けないどころではない。
手早く制服への着替えを済ませた浩之は鞄をひっつかんで階段を駆け下り、玄関のドアを開けた。
「ああ良かった。浩之ちゃん、急がないと遅刻しちゃうよお」
安堵の表情を隠さないあかりの姿はまったく無邪気で、先ほどの夢との落差が浩之に現実を思い知らせていた。たれ気味の目尻も、短い三つ編みのお下げ髪も、普段のあかりとなんら変わるところが無かった。
「判った判った」浩之は靴のかかとを気にしながらあかりの言葉を遮る。「それはいいから、いい加減その『浩之ちゃん』はやめてくれ。俺達、もう高二だぞ?」
「だって、浩之ちゃんは浩之ちゃんだし……」煮え切らない態度で手遊びをするあかりの顔を、浩之はまともに見ることが出来ない。
「さ、行こうぜ。本当に遅刻しちまう」
「うん!」
並んで走り出しながらも先ほどの夢の中でみた姿態をつい思い返し、浩之は何故あんな夢を見たのだろうかと考えながら一人顔を赤らめていた。
(2)
色彩を失った雪原に倒れ伏す野兎を、<皇国>陸軍独立捜索剣虎兵第十一大隊を訳あって率いることとなった藤田浩之大尉は不思議そうに見つめていた。
あの小動物もまた、守るべき世界を守って死んだのだな、彼は妙な納得の仕方をして頷いた。
突如乱入した<帝国>の軍勢に包囲された、わずか三十名程度の大隊を率いる羽目になった兵站将校の思考としては奇妙としか表現しようがなかったが、現実のばかばかしさがそれを許容していた。ちなみに第十一大隊の本来の定数は、八百七十四名である。
敗走する味方を脱出させるため、見地によって合理と理不尽の両極端な評価が下されるであろう判断によって絶望的な戦闘を強いられている彼らだが、士気は高かった。それは浩之の指揮官としての能力の高さを示してはいたが、最終的な破滅が先延ばしにされているだけだという現実が変わる訳ではなかった。
今しも、二度に渡る突撃を阻止された<帝国>軍は、増援を得て第三波の突撃を敢行しようと体勢を整えている。対する浩之達に余力は無い。
「なんだか、随分と楽しくなってきたぞ」
塹壕の中で、浩之は言った。口調と言葉の内容、そして表情が全く一致していなかった。周囲のものの反応は様々だった。自暴自棄さえ突き抜けたところにある感情を描写するのは困難である。
「まあ、予想はしていましたけど」
傷口にかゆみを覚えたのか、松原葵が頬傷に張った絆創膏の周りを掻きながら応じる。かつては浩之の助教であり、今では先任曹長として右腕として働く彼女の眼には、いまなお闘志が残っていた。
その言葉を聞いて、浩之は嬉しげに頷いた。何事も悪いことばかりじゃないなと思い直す。
彼を喜ばせていたのは、配下の一人であり、特に眼をかけていた神岸あかり少尉が立ち直りつつあることだった。浩之のとった、守るべき<皇国>の村々を焦土と化すことで<帝国>軍の進撃を遅滞させるという悪辣な戦術に反対し、そしてそのやむを得ない結果によって幼女を手に掛けてしまった彼女は、半ば腑抜けのようになっていた。しかしこれだけ過酷な状況に陥ったことで、却って彼女が本来持っているねばり強さが蘇ってきた様子だった。
「どうしたものかな」
浩之はだれに聞くともなく、呟いていた。選択肢が極めて限られている事は判りきっているため、意見を求めるというほどの意味を持たない。
彼の傍らに、愛すべき剣牙虎――浩之達はもっぱら猫と呼んでいた――のマルチが髭をひくつかせ、耳を小刻みに動かしながらすりよってきた。浩之が頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じる。尻尾が揺らめいていた。
この愛すべき猫――マルチの武勇伝を、義姉上にも語って聞かせることが出来たなら。浩之は一瞬だけ、ありえない夢想を抱く。
「降伏は論外です」
塹壕の中、膝立ちで浩之の元に歩み寄ってきたあかりが勢い込んで言い切る。葵がちらりと浩之のほうを伺い、笑みを浮かべた。浩之もかすかにうなずく。
「降伏するくらいなら、解囲を試みましょう。さきほどの襲撃から考えて敵の配置は」
あかりが不用意に腰を浮かせ、敵情を観察しようとしていた。浩之も葵も、制止する間も無かった。
銃声。あかりが膝から塹壕へと崩れ落ちる。
「しっかりしろ!」
浩之がうなり声をあげて這い寄り、彼女を膝に抱く。しかし、一目見てその言葉の無意味さを知る。頭部に銃弾を喰らい、鮮血が吹きだしている。今、彼らが置かれた状況でその命を救う術は無い。
「療兵、療兵!」
葵が叫ぶ。あかりがゆっくりと首を振った。
「いいんです、もう。私は浩之ちゃんと違って――」
彼女は最後まで言葉を発することが出来なかった。うつろな目を開いたまま、がくりと首を折る。
浩之は無言で彼女のまぶたを閉じさせ、頬の汚れをふき取って横たえさせた。塹壕の壁面に拳を打ち込む。食いしばる歯の間から獣の呻きが漏れた。
浩之は、<帝国>軍に包囲されたことには、さして怒りを感じなかった。むしろ、このような状況をお膳立てしてくれた人々に対して、明確な殺意を抱いていた。
「覚悟しろよ畜生どもめ。私は決めた。もう決めてしまった! 貴様等が私の敵だと決めてしまった!」
天を仰ぎ、そう叫んだのは、浩之ではなかった。導術で読みとったかのように彼の心情を代弁してくれているのは、手にモップを持つマルチだった。
「畜生。いつの日か貴様らが己が身の不幸を嘆くとき、出自の怪しげなどうということのないメイドロボにどんな仕打ちをしたか、それを思い出すがいい!」
何故だ。浩之は混乱した。<貴様ら>に対して彼女が怒りを抱く気持ちは充分に判る。だがマルチがこんな口調であるはずがない。いやそうじゃない。そもそも何故、猫が人語を話す? それにメイドロボとはいったいなんだ。
マルチの甲高い声はなおも続いていた。
「そしてもし訊ねてくれたなら、私は懇切丁寧にその理由を説明し、その上で貴様等を皆殺しにしてやる。切り刻んでやる。粉砕してやる。そう、絶対に!」
浩之は弱り切った表情を浮かべて、骸となったあかりに視線を向けた。彼女であれば真実を知っていそうな気がしたからだ。彼女が自分を「浩之ちゃん」と呼んだ事を思い出す。ありえない事であった。
浩之が、そっとあかりの頬に手を触れる。
冷たかった。厚手の手袋越しにもそれが判った。早くも周囲を埋め尽くす雪と変わらぬ温度にまで冷え切っていた。そして、浩之が安堵とも落胆とも付かぬ息を吐いた瞬間。あかりの目が見開かれ、浩之の手を信じられないほどの力で握りしめた。浩之は、絶叫した。
「うわああっ!」
机を蹴り飛ばし、椅子をはね飛ばして飛び起きる。生徒達は一瞬硬直し、それから爆笑した。教師は唖然とするばかりだった。授業中の居眠りの結果、最大級のボケをかました愛すべきクラスメートに、好奇の視線が向けられる。
だが、浩之自身は周囲の反応に頓着するだけの余裕を持っていなかった。顔中に脂汗を浮かべ、眉をつり上げて鬼気迫る表情をみせている。
「あかりっ!」
鋭い声で、ついさっき戦死した筈の幼なじみの名を呼ぶ。
「は、はいいっ!」
あまりの迫力に、まるで教師に指名されたかのように、思わず神岸あかりは席を立って直立不動になる。
浩之は一目散にあかりの元に駆け寄り、つま先から頭のてっぺんまでをまじまじと見つめた。
「あ、あの……。浩之ちゃん?」
おずおずとあかりが訊ねるが、浩之は返事をしない。そのただ事ではない様子に、周囲の生徒達も声を掛けるに掛けられないでいる。
しばしあかりの身体を観察していた浩之は、今度はやおら、あかりの頬をぺたぺたと触った。そして、そこに確かに彼女が存在するという確信を得た瞬間。
「きゃっ!?」
今度はあかりが悲鳴を上げる番だった。あろうことか、浩之はあかりの身体を強く抱きしめていたのである。
おおう、と生徒達からどよめく声が漏れる。この一年間に伝え聞いた噂で、なかば公認の仲であることは多くの生徒が知っていた。とはいえ、ここまであからさまな態度を浩之が示したのは、かつて無かった事であった。
ここにきて、ようやくあっけにとられていた教師は、己の職業を思い出していた。わざとらしい咳払いをしてから、浩之をたしなめようと口を開き掛ける。
その時、四限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒達のざわめきが一層大きなものとなる。シャープペンシルの類を筆箱に収納し、教科書及びノートを鞄にしまう雑音が一斉に響きわたる。それは有無を言わせず、教師に授業の終了を強いていた。
今度は教師はわざとらしい溜め息をつき、おざなりな終わりの言葉を残して教壇を降りていた。生徒達は浩之とあかりの様子をうかがいながら、やれやれといった調子で昼食の準備を始めている。
「……浩之ちゃん、苦しいよ」
蚊の鳴くような細い声が、浩之の腕の中から聞こえた。ようやく浩之は抱きしめていたあかりを解放する。
「良かった。生きていたんだ」
周囲から浴びせられる視線にも気づいた様子はなく、浩之は安堵の表情を露わにする。
「え、え?」
戸惑うばかりのあかりはまともな返事をすることが出来ない。
「いやあ、<帝国>軍の弾があかりの頭に命中したときはどうなることかと思ったぜ、けど、無事でよか――」
不意に、浩之の背後から繰り出された拳が無防備な彼の後頭部に打ち込まれ、浩之は頭を抱えてうずくまった。
「ちょ、ちょっと、志保」
おろおろするあかりに対し、長岡志保は平然と言い放つ。
「とうとうヒロが壊れちゃったみたいだからね〜。一、二発ぶん殴ったら元に戻るんじゃないかなあ〜、と思って」
「お前何でここにいるんだよ? 今授業終わったばっかりじゃねえのか?」
浩之が立ち上がりながら、呻くような声で志保に問いかける。後頭部にはこぶが出来ていた。
「ふふん、2Aの四限目の授業は、自習だったのよん。で、そこでとっておきのニュースを仕入れたんで、ヒロにも教えてあげようとおもって待ってたら、あの有り様じゃない。でも」
志保が口をVの字にする。ヒロが壊れた事のほうが、ニュースとしてはおもしろそうじゃない。全身でそう物語っていた。
「壊れた壊れたって言うな。俺はな、……俺は」
反論しようとした浩之の言葉が途切れる。
「どうしたの、浩之ちゃん?」
心の底から心配そうな表情で訊ねるあかりをみて、浩之は内心に浮かんだ不安をうち消した。
「夢だよ、夢。寝ぼけて飛び起きて、この様なんだよ」
怒ったように浩之は言い、くるりとあかりに背を向けた。
夢。そう言い切るにはあまりにも明瞭な世界を彼は見ていた。反響する銃声。手に残るあかりの身体の冷たさ。手を握られた感触。血の匂い。そのすべてが、ただの夢として割り切れない何かを彼の記憶に刻みつけていた。同じ夢にしても、今朝見たそれに比べてひどすぎた。
「なんだったんだ、一体」
浩之は自分がなぎ倒した机と椅子を元に戻すと、脱力したように座り込み、机の上につっぷした。午前の授業が終わったというのに、昼食を採る気力すら失っていた。その様子に、あかりも志保も言葉を掛けることが出来ずにしばし顔を見合わせていた。
意を決したかのように一度小さく頷いてから、浩之の元に歩み寄ったのは、やはりあかりだった。
「ね、浩之ちゃん。お弁当食べようよ。私、作ってきたから」
「……おう」
のっそりと浩之は身体を起こした。恐ろしく不健康な表情だった。
(3)
屋上。
校内では数少ない心休まる要素に満ちた場所であるにもかかわらず、人影は少ない。隠れた名所という訳だが、浩之は周囲の情景に注意を払う様子もなく、無言で機械的に食事を進めている。
「また、暖かくなったね」
設置されたベンチに並んで座るあかりが、沈黙の気まずさを紛らわせるように、さして意味のない言葉を口にする。
「ああ」
浩之は上の空で生返事を返す。彼はずっと、今日見た夢の意味を考えていた。
それを隠された本心、あるいは願望の表れ、などと短絡的な解釈をして悦に入る者がいたとすれば、彼はその相手を殴打したであろう。考えたくもない仮定であった。
必要以上に生々しく、はっきりと記憶に残っているのも引っかかっていた。不可解なことに、彼の記憶には断片的ながら、今まで聞いたことも無いはずの<皇国>に関する知識が残っているのだ。
(ったく、俺に姉貴なんていないってのに、“義姉上”って誰なんだよ)
いっこうに気むずかしげな表情を崩さないので、傍らのあかりはどうしてよいか判らずにいる。それを気に掛ける余裕すら、今の浩之は失っていた。
その気詰まりの状況をは、唐突な形で打破された。あまりにも唐突で、ある意味都合が良すぎる面があったため、いったい誰の作為だろうかと浩之が勘ぐりたくなるほどであった。
屋上に暗色の光が射し込んだ。そんな印象があった。
気配を察して、屋上に通じる階段の上部に振り返った浩之は、しばし平静を保つのに苦労した。
そこにいたのは、浩之のよく知る、美しい女生徒だった。艶やかな黒髪を風になびかせるままにし、分厚い何かの本を片手に持ちながら、ささやかな紅の入った形の良い薄い唇を動かして呪文のようなもの(あるいは、呪文そのものか)を小声で唱えている。
もっとも素晴らしいのは、本に記された字句を追って微妙に揺れ動く愁いを帯びた瞳だった。ほっそりとした肢体については言うまでもない。
なにより浩之が気に入っているのは、それほどの魅力に溢れていながら、傾城の臭いがしないところだった。触れればくずおれてしまいそうな華奢な姿であると同時に、むしろ凛としたものがあった。
来須川グループの令嬢にしてオカルト研究部員として名を馳せる三年生・来須川芹香であった。
「来須川先輩、いつからあんなところにいたんだ?」
浩之の問いに、あかりは曖昧に首を振る。
「さ、さあ」
やがて呪文詠唱が終わったのか、芹香がおぼつかない足取りでそろそろと屋上に降りてくる。なにもわざわざ一段高い場所に登らなくても、と浩之などは考えるが、そこは黒魔術の世界、どんな決まり事に従っているのかは知れたものではなかった。
「おーい、来須川先輩」
浩之が手を振る。ちらりと振り返った芹香は、本(魔導書か?)を胸に抱え、小さく頭を下げた。横顔にわずかながら笑みのようなものが浮かんだように見えたのは、浩之の錯覚か。
羽織った黒いマントを翻し、芹香は階段を下りていく。
(先輩に夢占いでもして貰うってのも、一つの手かも知れないな。それはまあ、最後の手段だけれど)
ようやくの事で表情を緩めた浩之をみて、あかりがほっとした顔をみせていた。
(4)
午後の授業は何事もなく過ぎ去っていった。
浩之は今日はなにをする気にもなれず、あかりを伴ってさっさ下校することに決めた。
「寝不足みたいだからな。今日は速攻で寝る」
宣言する浩之に、あかりがうんうんと頷く。
彼女にしても、いきなり抱きつかれた時は相当に驚いたのだが、あれは寝ぼけての行為であったのだから、その事は忘れて普段通りに接しようと彼女は心に決めていた。それでも昼以来、ほとんど声を掛けてくれなかった事を彼女は気にしていた。ようやく、浩之ちゃんもいつものペースを取り戻してきた、とあかりは素直にうれしがっていた。
浩之のほうは、あかりに対してどう接して良いか、まだ態度を決めかねるところがあった。今朝はその胸に顔を埋めていたかと思えば、昼には頭部を砕かれて殉職するところを目の当たりにしてしまっている。どうしても態度がよそよそしいものになる。
そんな二人の思惑などまるで頓着しないかのように、志保が並んで廊下を歩く二人の背後から顔を突きだしてきた。
「ふふーん」
二人の顔を見比べ、意味ありげな声を漏らす。
「あーうっとうしいな、今日はお前の相手する気分じゃないの」
あっちに行けとばかりに手を振る浩之だが、それくらいで志保が引き下がるはずもない。
「なによお。ヒロの壊れ具合、きちんと確認しておかないと、志保ちゃんネットワークの名折れなのよ!」
「……ねえ、志保。浩之ちゃんはちょっと疲れてるみたいだから、そっとしておいてあげてよ」
「ぶう。あかりまでそんなことを言う? 私達の友情はどうなった訳?」
三人してあれやこれやと言い合いながら、一階に降りてきたところで、モップを持ったHMX−12・マルチが例によって一生懸命に廊下を掃除しているところに出くわす。
「あ、こんにちは。浩之さん、あかりさん、志保さん」
律儀に一人ずつに対して深々と頭を下げるマルチ。
「毎日毎日、よく頑張るよな。えらいぞ」
浩之は当たり前のようにマルチの頭を軽く撫でる。マルチが嬉しそうににぱっとした笑いを浮かべる。
「ま、それがメイドロボの宿命だし。メイドロボなら当然よ」
志保は一言で切って捨てる。好感情を抱いていないことが即座に理解できる声音と表情であった。そしてマルチもその通りです、と頷いている。
だが、志保の言葉を聞いた浩之の中で、突如として得体の知れない衝動が沸き上がっていた。
「そんな事は無い!」強い調子で志保の言葉を否定する。気がついたときには、浩之自身ですら思いも寄らなかった言葉をまくしたてていた。「考えてもみろ。マルチはなんの為に生まれたんだ? たかだか学園じゅうを掃除した後でスクラップになるためか? 違う。絶対に違う。少なくとも俺はそれを認めない。マルチは、この半径六千五百キロのゴミのような惑星を綺麗にするために生まれたんだ!」
マルチがモップから手を離していた。柄が廊下に転がり、からんと音を立てる。
「……ひ、浩之さん。私、私……」
しばし両手で口を押さえていたマルチの両目が、見る間に潤みだした。頬が上気したように赤く染まっている。
「嬉しいです! すっごく! 浩之さんが、そんな風に思っていて下さったなんて! 私、頑張りますっ! 世界中をお掃除します、はい!」
「おおげさな奴だなあ」
苦笑する浩之の肩を、ぽんぽんと志保が叩く。
「で、ヒロはどうなのよ?」
「なにが?」
「ヒロはなんの為に生まれたの、って聞いてるの?」
そう訊ねる志保の目にはどこか意地悪げな光が宿ってる。
「う……」
浩之は言葉に詰まった。沈黙が流れた。ひとりマルチだけがはしゃいでいた。
(5)
夜。
浩之は自室のベットで横になったまま、なかなか眠れずにいた。
『ヒロはなんの為に生まれたの?』
志保の問いかけに答えられなかったことに、密かにショックを受けていた。
あの場は、じゃあそういう志保はどうなんだ、あかりはどうなんだ、と切り返してごまかしはしたが、自分の答えを持てなかったことは事実だった。
「俺は、なんの為に生まれたんだろうな?」
今まで、思ってもみなかった設問だった。即答できるはずもなかった。
どうも、今日は朝から調子が狂っていた。
「あの夢……。やはり、願望なんだろうか」
浩之は頭からかぶった布団の中で呟く。むろん、あかりの胸の柔らかさを堪能したり、彼女が目の前で死んでくれることを望んでいる訳ではない。夢の中の浩之は<皇国>の軍人として戦っていた。軍人など頼まれてもなりたくないが、少なくとも、自分が何者であるかを判りながら生き、そして死ぬことを許された存在としてそこにいた。
それが、将来のことをなにも考えられないでいる自分の裏返しのように、浩之には思われたのだった。
「ああ、畜生。眠れねえや」
散々昼寝した上に、いつもより早い時間に布団に潜り込んでいたのだから当然といえば当然だった。浩之は開き直って布団を押しのけ、身体を起こした。
電気を消した部屋の中は、思いのほか明るかった。すぐにその理由に思い至る。カーテンを閉め忘れていた。窓から、外の光がそのまま差し込んでいたのだ。
「外の光?」
夜だというのに? 浩之は素朴な疑問を抱き、それを直接的な方法で解消することにした。すなわち、窓際に歩み寄り、スモークの入ったガラス窓を一杯に開けたのである。
「う……」
息を呑む。雲のない夜空は、星々で埋め尽くされていた。そして、無数の星を従えて、無頼の光量を発揮している月の姿があった。
あの月に立った人間もいるんだよな。鏡板のように光を放つ月を見上げながら浩之は思った。俺には一生、月面に降り立つなんて事には縁が無いだろうけれども――。
その瞬間、ほとんど本能に近い直感的な閃きが、浩之の五感を貫いていた。己の卑小さを相対的感覚として理解出来たのだった。宇宙の広さ(それはすなわち世界の広さだ)を、はじめて知識としてではなく知覚によって捉えたと言い換えても良いだろう。
さきほどと何一つ現実は変化していないというのに、浩之の内心には奇妙な安堵に満たされていた。自分自身の存在の小ささに満足したかのようだった。
もしも月と星の光に照らされながら、目指すべきは空よりも高い場所だ、などと決意したたのだとしたら、いささか劇的に過ぎるだろう。
浩之が感じたのはそんな事ではなかった。このちっぽけな自分ですら、これから先の人生は一筋縄ではいかない、その事実こそがおかしかったのだ。
その夜、浩之は心からくつろいで、深い眠りを貪ることが出来た。夢は見なかった。
結局のところ、その日が全てのはじまりであることに気づいたものはいなかった。人知れず、煮え立つ地獄の釜の蓋が開かれ、いくつもの薄汚れた世界が顔を覗かせ始めていた。混乱の春が始まった。
第二話へつづく