東鳩のやさしい掟
第二話
「さらばエクストリーム部の旗よ」前編
長瀬警部の近頃の機嫌は、あまりよろしくなかった。馬のような、まかり間違っても競争馬には見えない馬面に浮かぶ表情こそ変わりのない、のんびりとしたものだが。彼の心中に鯛の小骨のようにしつこく刺さった事柄が表情に出ない部分に影響を与えていた。
相棒である柳川の観る所では、たばことコーヒーの消費量の増加の激しさは間違いなく健康に害を及ぼすレベルであった。むろん、ゲームの中の名探偵でない長瀬が喫煙によって得るものは無茶苦茶な推理でも一時の平安ではなく、肺癌の危険性と周囲からの厳しい視線のみだった。
彼の心中に突き刺さって神経と身体に害悪をなしているものとは、つい一週間前に発生した自殺。高校二年の男子学生が風呂場で感電死したという、さして珍しいわけでもない事件だった。死亡した藤田浩之の家に引き込まれていた工業用の200Vの電圧も、家電製品の電力需要が増大の一歩をたどる昨今ではそう珍しいものではない。それどころか、高性能のPCやHMの一部製品ではAC100Vでの動作を保証しないという無茶な状況のため、家庭での感電死というものが急増している最近ではありふれた事件と言って間違いない。
専門家の言によれば、人間の生命に問題なはむしろ電圧の大小よりも電流だというが、そのあたりの知識にはかけている長瀬には全くどうでも良い話で、100Vより200Vの方が死にそうだな。というのが彼の抱いた感想の全てだった。
だが、電気には全くの不得手であっても長瀬は人の生き死にに関しては葬儀屋と坊主に並ぶプロフェッショナルである。その経験と勘が長瀬に異常を告げていた。
近頃では増えているとはいえ、人が自らの意志によって命を絶つという事には非常な意志を要する。無茶な言い方をするのであれば、人は生まれてから死ぬまで死にたくないから生きているといえる。彼は最近になってそう感じていた。そして、絶望だの何だのが死への恐怖を上回ったその時。人は自分の生命を絶つという行為に出る。
確かに、突然死ぬ人々もいるが。そういう彼らの「突然」とはワイドショーレベルでの「あの人がそんな事をする人には思えなかった」程度のものであり、死んだ人間にしてみれば死んだ人間なりの切実な理由というものが存在するから行動に移るのである。ただ、その理由が一般のレベルからは理解不能な所にあるだけで、おそらく死んだ本人の視点から観るならば重大な恐怖には違いなかった筈である。
そして長瀬は、少なくとも藤田浩之がそのような「恐怖」を抱いていたのか疑問に思っていた。というよりは、あの自殺現場で彼の前に公安の人間が現れた事。それが彼に疑問を抱かせ、ここ数日調べていた藤田浩之の過去など彼なりに検証してみた結果として、疑問は大きくなっていった。
長瀬の視点から見れば、藤田浩之が死ぬべき理由は何一つ存在していない。仕事の都合で別居中の親との関係、近所付き合い、学校生活。そのいずれも、まるで冗談かゲームのように順風満帆で見事な青春時代を謳歌していた。しかも、あの現場を目撃した不幸な少女はおささなじみであり、つい最近になって恋人に昇格したらしいという事もわかっていた。そこらへんの事は、親友を名乗る妙に詳しい少女が頼まれもしないのにかたってくれた。
そんな人間が自殺をするように長瀬には思えなかった。
だからこそ、彼は自らの直感を信じて幾度も上司へ本格的な捜査の許可を具申したが、今に至るも受け入れられていない。理由を詰問しても、曖昧にごまかされるだけで彼の納得できる返答は一度としてかえってきてはいないのが現状である。
「長瀬さん」
胸ポケットの中に入れていたため、ワイシャツと一緒にくしゃくしゃになっている煙草をぼんやりと吹かす彼の元に、若い婦人警官が小走りに駆け寄る。大学を卒業して間も無い、制服に着られているようにしか見えない彼女にしては珍しくそれなりに緊張した面持ちだった。
「んん?」
典型的な気の無い返事をする長瀬に、彼女は「お客様です。本社から」と言った。あやしげな客層で有名なファミレスでのウェイトレス歴が長かったらしい彼女がそういう言葉使いをする時、普段の警官的な言葉づかいよりも様になっている。長瀬は、極彩色のメイド服という理解不能な制服を着て笑顔を浮かべている彼女の写真が一時期、恐るべき速度でもって署内を駆け巡ったのを思い出した。
「お客様って?」
「ほらぁ、あの」
といって指差す方向には、彼が二度と見たくないと思っているものがいた。
春も去ろうという季節を完全に無視した漆黒のスーツを着た見覚えのある女性が、署内全域からのひそやかな視線をさりげなくかわしつつ立っている。すらりと立つその姿勢は、女性の正体について彼の耳元でなんだかんだと無茶苦茶な質問をする婦人警官より遥かに毅然としたものだった。
しかし、その黒い服装と周囲に向けている冷たい雰囲気から、彼は公安警察官というよりも悪名高いアルゲマイネSS。それも国家保安部の大幹部を連想する。
「長瀬さん」
彼の姿を見つけた黒服の女性は歩み寄ると、親しげに。それでいて絶対にそうは思われない冷たさも含んだ声で挨拶をした。さっきまですぐ隣で色々言っていた婦人警官は、別の場所でたむろしている同年代のひとびとの輪の中で噂話に華をさかせている。横目でそれを見た長瀬は、フェミニストが聞いたら激昂のあまり演説をはじめかねない悪口雑言をわめきたくなった。しかし、それはあとに回す事にきめて、目の前で笑顔を浮かべている黒衣の女性。あのとき藤田浩之の家に現れた公安警察の柏木千鶴に向き直った。
「公安のひとがまた、こんな場末の所轄に何の御用で?」
「ちょっとした事なんです」
朗らかな口調で千鶴は言った。
「ただ、少しちかくに寄ったものですから。あなたの事を思い出しましたので」
「勧誘はもう結構」
魅力的な微笑みを浮かべる千鶴とは対照的に、長瀬の馬面は不機嫌になっていく。彼が感じた偽善者という第一印象はますます深まりつつあった。笑顔で雑談している最中でも、細められた瞳は計算高い冷徹さを感じさせるまなざしで長瀬を見据えている。案外、恋人(もし、いるならの問題であるが)の前でもそうなのかもしれない。と長瀬は思った。そして、そうであるならたいへんに幸せなのだろうとも思う。無論、幸せなのは彼女だけであるが。
「そういえば、まだあの件に拘っているそうですね」
「まあ、色々と印象的な事件でしたからね」
長瀬の言葉に、千鶴は面白そうな顔をする。
「印象的。印象的。面白いですね。なにが印象的だったか、捜査の秘密に触れない範囲でしたら教えてはいただけませんか?」
あんたがだよ。と言い出したい欲求を押さえて、長瀬は事務的な口調で応える。
「なにもかも。です。現場に居る時には普通の自殺にしか見えなかったが、こうやって調べてみると不信な点がいくらでも転がり出てくる。まるで魔女の大釜ですな」
「魔女の大釜。ですか?」
偉大なる宇宙意志の存在を発見したかのような表情で千鶴がたずねかえす。そして、如何にも愉快そうな声でしばらく笑い続けると、楽しくて仕方が無いといった風情で彼に言った。
「そうなると、貴男はその魔女の大釜をひっかき回してどうなさるつもりで?魔女狩りの復活ですか?」
「魔女狩り。そんなものはどこの世の中にだって存在してるではないですか。内部監察屋のあんたが知らんわけないでしょう。まさか、この世が正義と自由と平等の名の下に完全平和を実現しとるとでも思ってるのですか?まさか。ゲームかおとぎ話じゃあるまいし」
「近頃のゲームはそうでもないらしいですよ」
「というと?」
「近頃では、ゲームの中にも現実とやらを取り入れるのが流行だそうですよ。可笑しいと思いませんか?そいういう時にかたられる言葉が「現実を見ろ」なのですから。ゲームで知る現実。私には、眼が顔面の半分もある少女や完全無欠の美少年の語る現実なんて冗談にしかおもえません」
「あんた。一体、何の話をしたいんです」
「ゲームの話。ですけど?」
「何を話に来たのです?」
「言ったじゃないですか。ちょっとした世話話ですよ。言い換えるなら、現場レベルでのパイプの構築と言えるかもしれません」
「で、そのパイプを構築してあんたは何をやらかそうっていうんですか?」
長瀬が今にも絞め殺しかねない声でいうと、千鶴はてへっと誤魔化すような笑みをもらした。もし長瀬が中年への進化をほとんど終えてしまった人間でなければ、一撃で悩殺されかねない可愛さをもった笑顔であったが、彼は中年だった。不機嫌さをさらに強めた視線で千鶴を見返している。
「少し喋りすぎました。まあ、そういう事なのです。あ、何がどういう事なのかなんて野暮な質問は無しですよ。本当に、ちょっとした暇があったので立ち寄っただけなのですから」
エクストリーム部の部長である松原葵が部室へとたどり着いたのは、午後五時を廻ろうとする時間だった。一年生でありながらもなにはともあれ部長になってしまった彼女も、やはり生徒会などによる予算編成会議には出席しなければならない。そして、現在空手部とサッカー部が予算の分捕りあいを繰り広げているので、会議も長くなったのだった。
元自衛隊員の再就職先らしい工務店が与えられた資材と資金の限りを尽くして建築した結果、戦術核の直撃以外のほとんどの打撃に耐えられるという意味不明の伝説を持つ武道場に入った葵は、毎日の事であるが入り口をくぐった瞬間に空気が一遍するのを感じる。
50cm近い鉄筋コンクリートと、窓の少ない設計とよって外界から隔絶された武道場は新築であるにも関わらず微かな汗の匂い。それに、練習中らしい空手部、柔道部、剣道といった大手様と合気道、少林寺拳法、なにをまかり間違ったのか銃剣道に自衛隊仕込みを自称する徒手格闘。さらに、葵が部長を勤める異種格闘部などの中小戦闘部が行う練習の活気と緊張感をもった気合の声が響き渡っていた。
古びた木製の下駄箱に靴を収めると、葵は冷たいリノリウムの床に一歩踏み出した。
武道場にはいくつかの規則がある。といっても、黒い服を着なければいけなとかそういう物ではない。
絶対に土足厳禁という事。部員達の多くには神聖とかなんとかという意識はないものの、小学生、中学生時代にも武道をやっていた人々には道場は土足厳禁という刷り込みがある。また、寒い12月の早朝に冷たいというよりは突き刺すように痛い雑巾でもって何度も床掃除をやった事のある人間にしてみれば。やはり道場に土足というのは精神的に同調しかねる者があった。まあ、それはどちらかというと「てめぇらだけに楽をさせてたまるものか」という怨念にも等しい物であったのだが。そういう人々は靴下すらも厳禁しようと尽力しているのだから、怨念とは恐るべきものであった。
これまで練習場を選んでこなかった葵にしてみればどうでも良い話ではあるのだが。二階にある限られたスペースとはいえ立派な部室も練習場も持ち合わせた(神社に比べたら、屋内であるというだけでどこだって極楽である)異種格闘部の領域にはさすがに愛着をもっていた。
それが、ここ一週間彼女の足を武道場から遠ざけていた原因だった。できる事なら今日とて足を運びたくななかったのだが、部長であるという手前。予算という重大なものを扱う会議について部員達に報告しないわけにはいかなかった。
一般生徒が聞いたら怪鳥の叫びにしか聞こえない声が炸裂する女子空手部の前を通りがかろうとした時。葵は唐突に道場から出てきた女子部員と目が合って、反射的に視線を床に落とした。それは彼女の良く知る人間であると同時に、今はあまりあいたくない人間でもあった。
「葵」
坂下好恵は、困惑を隠せない。唐突に出会ったせいもあるが、視線を床に落として足早に目の前を通り抜けていった姿は、あまりに弱々しかった。少なくとも、好恵は葵があれほどに弱った姿を見るのは初めてだった。
好恵は、正直その姿に衝撃を受けた。彼女の知る松原葵は極度にプレッシャーに弱いという欠点は持ち合わせていたが、少なくとも落ち込んだり、陰にこもったりする事のない直球にも程がある程の馬鹿正直者であった。そんな彼女が背中を丸めて歩く様は、好恵に少なからぬ衝撃を与えると同時に、彼女に一つの決心をさせた。
好恵にとって、葵のその姿の原因は明確であったから。そうであるならば、格闘家にとってこれほど簡単な話はない。そう、ただ相対し撃砕するのみ。悩む事などない。なぜなら、好恵の脳裏にあるのは葵を正しい道に戻さなければならないという彼女なりの正義であったのだから。
葵が入った時。既に道場は薄暗かった。
それは、窓が少ないといった設計上の問題ではなく電灯の類が一切つけられていないためだった。
信じられない重いで葵は時計を確認する。午後五時六分。異種格闘部の練習開始時刻が午後四時三十分であるから、たかが三十六分。準備も含めれば、もっと短い時間で引き上げてしまった事になる。確かに、異種格闘部は新興であり、メンバーも格闘技初心者が大半という状況であったから仕方がないかもしれない。しかし、これまで動揺に葵が部長という肩書きに付属する諸事をこなしていたため武道場入りが五時三十分を超えた時間でも練習が行われていた事から考えると。あまりに速すぎた。というよりは、持ち前の万能ぶりで助教としても才覚を発揮していた藤田浩之の存在がどれほどの物だったか、を葵に再認識させた。少なくとも、三日間は使用された形跡がない。
「誰一人。来なかったわね」
唐突に 暗がりからかけられた声に、葵は硬直した。
「あ、綾香さん」
横倒しになったサンドバックに腰掛けた綾香は怒気すらふくんだ視線で葵を睨み付けている。それだけで、葵は一歩も動けない。少なくとも、試合中に鋭い。震えるような目をする事があっても、今ほどに厳しい眼をするのを葵はこれまで観た事がない。
「一週間。何をしていたのかしら?」
「わ、私は」
慌てて答えようとする葵の言葉を遮って、綾香は有無を言わさない鋭い声で一喝する。
「答えなさい!」
「家で・・・・・・」
「センチメンタルに浸るのもいい加減にする事ね!いい葵。あなたは今、ようやく得たものを失おうとしているのよ。何のために坂下と戦ったの?何のために部を築いたの。さぁ、答えなさい」
葵は答えられない。肩を震わせながら俯いて綾香の言葉を受けている。
「一週間。忘れろなんて言わないわ。でもねぇ葵。あなたがどっかで泣き濡れてる一週間でどれほどのものが失われたかわかってないでしょ!?」
「失われたって」
葵が弁明をしようとすると、綾香は急に冷静な顔になって彼女の顔をまっすぐに見返すと、冷たい声で「部を。実質的に纏めていたのは誰?」と言い、呆然としている葵に向けて更に言葉を続ける。
「部員から、最も便りにされていたのは誰?」
「それは・・・・・・」
「あなたが言いたくないなら言ってあげるわ。浩之よ。だからこそ、彼が死んだ後だからこそ。葵。あなたは部に顔を出して、異種格闘部がまだ終っていない事を知らしめないといけなかったのよ。それが何?!なんたる醜態よ」
綾香はいらついたしぐさで髪をいじくる。その手つきは乱暴そのもの。
「で、でも。私は」
「ああ、もう。弁解は要らないわ。逃げるなら一生逃げてなさい。自分から逃げ出しなさい。でも、そうでないのなら。あなたがまだ終っていないのなら、今からでも建て直しに奔走なさい。ここでようやく芽生えたエクストリームの芽をを潰す事を、彼が望んでいるわけがないわ」
「でも、どうしたらいいか」
「自分で考えなさい!仮にも部長であるのなら!!」
翌日。
「やっぱり、私一人じゃあ駄目なんですね」
周囲の闇がその濃さと大きさを時が経つにつれて広げつつある夕闇の中で、葵は力無く呟いた。晩春であるというのに、驚くほど冷たい風が木々の間をすり抜けて立て付けの怪しい神社の扉を揺らす。古ぼけたサンドバックを木からつるしている縄が不気味に軋んだ音を立てる。
本堂の縁側に腰を降ろした葵は、うつろな顔でその縄を見つめた。再び、風が吹いてサンドバックを揺らす。軋んだ縄の気味の悪い音。それが、どういうわけか葵には自分を救ってくれるような気がした。
部員への説得は、正直に言って大失敗としか言いようがなかった。幾ら葵が精いっぱいの言葉を紡いだ所で、一度去ろうとした彼らの決断を曲げる事はできなかった。それどころか、自分の手前であたふたと説得なのだか弁解なのだかわからない事を言う下級生に敬意を抱けるものは皆無だった。部員の大半は、流行のエクストリームだからという程度の理由で居たのだから、葵の基礎を徹底しようという至極全うな方針にも元々納得していたわけはない。
全敗。誰一人として部への復帰の意志を持つ者はいなかった。その結果、異種格闘部の在籍部員は一名。松原葵のみという状況が確定した。
学校の予算とは無限ではない。そして、部員が一名ではそもそも部として認められる筈がない。おりしも空手部がその勢力の拡充を図っている真っ最中という今の状況では、いつ廃部決定の為されるかも不明な状態。葵には、浩之の死後八日で至った事態に全く対応する事ができなかった事となる。
葵はぼんやりと縄を見つめた。次第に、全て自分が悪かったのではないかという気がしてきた。綾香の言う事はもっともだと葵は思った。部長として部を纏める必要がある時に自分は何をしていたかといえば、練習を無断でさぼり(それも、部長が)これまで欠かした事のなかった自主練習も放り投げて。ただ、部屋のベッドの上できつねのぬいぐるみを胸に抱きながら泣き、何もする気が起こらずに天井を眺めている事だけだった。
一点の染みだった罪悪感が、葵の心の中でじわじわと広がっていく。もう少し私が気丈に振る舞っていたら。せめて一回でも練習に顔を出していれば。ううん。もしかしたら、もしかしたら。
葵は、思った。
藤田さんは自殺だったというけれど、もしかして原因は・・・・・・。
ふと思い浮かんだ考えは、彼女の不安の中で休息に広がっていく。頼りすぎていた。もしかしたら、無意識のうちに浩之さんに負担を。私のせいなんじゃ。私が全て悪いんじゃぁ。浩之さんは快く部に協力していてくれたけど、もしかしたら本当は。もしかしたら、そうなのかも。無限に増殖する「もしかしたら」と「かも」が葵の思考を浸食していく。これまでの全ての光景が、すべての事象が全く違った意味を持ちはじめ、そしてその全てが葵に一つの予測を強いていく。
私が、全部悪い。
そう思った瞬間。再び冷たい風がふいた。木の揺れる音も、戸ががたがたと鳴る音も、風の唸りも、サンドバックの揺れる音も、林の木々も、地面に転がっている小石も、縁側にできた影も、どこかで聞こえる烏の泣き声も、雑草も、地面も、空も、雲も、星も、太陽も、この世のありとあらゆるもの全てが葵を糾弾しはじめる。
「私が、悪いのかな」
八日間。たった八日間で異種格闘部に訪れた崩壊。藤田さんがいなくなっただけでこの体たらく。何も有効な事をできなかった。綾香さんは励ましてくれたけど、どうにもならなかった。期待を裏切った。もし、私がエクストリームを始めなかったら、綾香さんも浩之さんも好恵さんも私みたいな面倒に関わらずに済んだんじゃあ。そう。私がいなければこの世のすべての問題が片付いて・・・・・・。
とりとめのない葵の思考の中に、一つの可能性が浮かぶのにさして長い時間はかからなかった、そのために必要なものは、葵のすぐ目の前できしんだ音を立てている。縄。
縄を解くと、サンドバックは地に落ちた。
それから縄を取り外すと、ちょうど良さそうな大きさの縄をつくって木から釣り下げる。ちょうど縁側の端の、小柄な葵の首がようやく届くくらいの高さに調整する。そこで首に縄をかけて縁側から一歩踏み出せば縄は締まり、いともたやすく葵の頚椎が外れて速やかな暗黒が待っているのは確実だった。無論、小柄な葵の足はつりさがった状態でも地面より遥かに高い位置になる。
「私が、いるから」
呟きながら足を伸ばし、縄でできた輪の中に首をいれる。あとは、飛び降りれば良いだけの所で葵はある事を思い出した。何で知ったかは彼女自身も覚えてない。しかし、窒息した人間の死に様が少しばかりきれいとは言い難い事をふと思い出した。同時に、はるか足元の地面に転がっているサンドバックを浩之が練習に使っていた事も。
「いけない」
とりあえず縁側から飛び降りた葵は、サンドバックをかなり離れた所まで持っていく。葵は、それを絶対に汚してはいけないように感じていた。それが、自分の汚物であるなどもっての他。
重いサンドバックを10mほどどかす。彼女にはそれが妙に重く思えて、それを移動させるだけの事でたっぷり十分がかかっていた。その間も、葵の心中では肥大化した自責の念が彼女を苛んでいる。
再び縁側に上り、縄に首をかける。覚悟は決まっていた、あとは一歩を。
「ごめんなさい」
浩之に、綾香に、好恵に、親に、教師に、この世の全てに葵は謝罪をすると。運命の一歩を踏み出した。
その瞬間。葵は何かに張り飛ばされたのを感じた。葵は、本で読んだのとだいぶ違う。と思った。
「あの馬鹿!!」
綾香は、智子が驚きの声をあげるよりも早く行動に移っていた。
それと同時に、智子は二つの事に驚愕していた。綾香の人間業とは思えない素早さと。二人がとても友好的には見えない会話を繰り広げていた図書室に転がり込んできた一年の女子生徒。名前は覚えていなかったが、色々と噂の尽きない彼女が必死の形相で叫んだ「大変な事になります。はやく。神社へ!」という言葉が現実であったという事に。少なくとも、智子の見る限りそれは大変な事に違いなかった。
綾香は何かに憑かれた肉食獣のような獰猛さを感じさせる動きで10mほどの空間を駆け抜けると、腰ほどの高さがある縁側に飛び乗り、なおかつそこで一歩を踏み出した葵の首にラリアットの一撃を叩き込んで縁側の内側へと戻す。縄は、着弾の衝撃で葵の首から抜けていた。
しかし、綾香の動きはここで止まらない。本堂の壁に叩き付けられて気を失っている葵の頬に力まかせの右フックを打ち込む。慌てて駆け寄る智子が思わず顔を背けたくなる嫌な音とともに、葵は力無く縁側に崩れ落ちる。
「あんたはなんて馬鹿なのよ!この馬鹿。大馬鹿。馬鹿愚か!!」
仁王立ちした綾香は意識がはっきりしていないのか、うつろな瞳で無茶苦茶な事を叫ぶ綾香を見返している。対する綾香は、怒り狂ったというよりもこわばってはいるがむしろ冷静に見える顔で葵を見返している。
「そこまで負け犬根性染み付いてるたぁ。思ってなかったわ!ええ!?。どうしてそんなにすぐに諦めるの。どうしてそんなにすぐに放り出すの!あなたがショックを受けたのもわかる。だけど、いえ。だからこそどうして。何故ベストを尽くさないの!」
智子は唖然としていた。綾香があそこまで感情を炸裂させるのを見るのは始めてだった。そして、綾香の声が、次第に涙声に近くなっているのに気がついた。
「私が、みんな悪かったんです。だから・・・・・・」
ぼんやりと、何かが抜け落ちたように話す葵の上に綾香は座り込むと、両手で葵の頬をやわらかく挟む。
「葵。あなたは悪くない。大丈夫よ、まだ取り返せるから。あなたが希望を捨てなければ、大丈夫。絶対に大丈夫よ」
子どもに諭すような声で語り掛ける綾香を、不思議そうに葵は見上げる。綾香はそれに気がつくと「大丈夫だからさ」と言って微笑んだ。涙が、葵の頬に音を立て落ちる。
「でも私、今日も」
「なに言ってんのよ。大丈夫。ほら、あいつも行ってたじゃない「葵ちゃんは強い。葵ちゃんならできるってさ」。今日は駄目だったとしても、明日があるじゃない」
「そうね。新しい明日が始まる事だってある」
聞き覚えのある声に、綾香の顔がこわばる。
智子がいるのとは反対方向の林の中から聞こえた声に続いて、道着姿の女子生徒が姿を現した。
「坂下。好恵」
そう言う綾香の声にはあからさまな敵意が含まれている。
「大丈夫。葵には新しい明日が用意されているから」
妙な自信に満ちた顔をして好恵は言った。その余裕に、綾香は不吉なものを感じた。背筋に走る緊張感が、彼女の勘が好恵の態度になんらかの危険性を感じているのは間違いなかった。そして、綾香は自分の勘を疑った事はない。そうでなければ、不可思議な少女の言葉もあったのだが。綾香が勘で彼女の言葉を信じなければ葵は間違いなく死んでいた。
「新しい明日。どういう意味かしら?」
「かしらかしら、ご存知かしら」
妙な言い回しをする坂下に、綾香は恐怖を感じた。彼女の知る坂下好恵は、戦国末期の武人タイプと言おうか、あくまで真剣。そして実直な性格であった。綾香には、目の前にいる坂下が異質な何かに思えた。勝ち誇ったような余裕ありげな態度も、違和感を感じさせる。
「ずいぶんと、気分が良さそうね」
「積年の悩み事がはれたから」
「なに?」
「葵は、また私と一緒に空手をするのよ」
「どういう意味?」
「決定が下った。異種格闘部は元来高校生らしいものとは思えず、さらに部員一命という状態では廃部もやむなし。」
「好恵。あんた腐ったわ」
「異種格闘なんていうもの事態が、汚らしい商業主義に犯された外道よ。私は、そこから葵を救い出す」
「葵の想いは」
「いつか絶対にわかってくれる。そして、あなたから。エクストリームから救ってくれたことを私に感謝するに決まっている」
「好恵。あなた、おかしいわよ」
「そんな口もお終い。明日から葵は空手部員として新しい一歩を踏み出すんだから。綾香。あなたは必要ない。それに、元々他校の生徒であるあなたが葵にちょっかいかけるのもおかしい話よ」
そう言われると、綾香も反撃しにくい。確かに、彼女はうやむやのうちに校内に入り込んで好き勝手やってはいるが、基本的に寺女の生徒である事に違いはないのだった。そして、異種格闘部に関する事は他校の「内政問題」であるいじょう、綾香に本来口を挟む権利はない。
「じゃあ、葵本人の意志はどうなるの?」
「大丈夫なのよ。葵は絶対に向こうから空手部にやってくるから。あのひとがそうしてくれるから」
「あの人?」
綾香の顔が殺気を帯びる。胸の底でざわつく嫌な予感が彼女に無意識のうちに戦闘態勢をとらせる。
「そう。あの人が。せいぜい、楽しみにしていなさい」
坂下はそう言い捨てると、きびすを返して校舎の方へと歩み去っていく。その後ろ姿が見なくなるまで、綾香は厳しい視線を向け続けていた。
そして、ぽつりと呟く。
「試合開始。か」
ぐったりと横たわった葵も、その会話の内容だけははっきりと聞いていた。意識はもうろうとしていたが、その意味もはっきり理解した。両目から涙があふれる。鳴咽する事も、悲痛な絶叫をあげる事もなくただただ滂沱と涙は流れていく。
喪失感が葵から気力を奪い去っていた。砂上の楼閣よりも脆く、葵と浩之のつくりあげたエクストリーム部は崩壊した。綾香に殴られた頬が火照る。葵の初めて聞く泣きそうな綾香の声が脳内に繰り返される。
「何故ベストを尽くさないの!」
葵は、全身の気力を全てかき集めて両手をきつく握った。指が食い込む程に強く。
彼女の前に征くべき途はなくなった。だが、葵は決心した。途がないのであれば、切り開く事を。たとえその道が自分の流す血と涙に濡れていようとも。二人の作り上げたものを、とりかえすために。
東鳩のやさしい掟
第二話後編に続く
解説(というか、そう呼ぶべきもの)
熱狂的ファンを抱える佐藤大輔の復活ぶりが華々しいなか、こうして半年ぶりに12式臼砲氏の作品を読めることは、私にとっては何よりの喜びである、と断言できる。
佐藤氏と12式氏を直接比較するのは気がひけるが(意外に照れ屋な(!)12式氏も恥ずかしがるだろう)、12式氏も佐藤氏同様、執筆感覚こそあいてしまったが、その豪腕ぶりに全く遜色の無いことが一読していただければ、あきらかであろう。
改めて念押しするのもどうかと思うが、本作は、佐藤大輔著『東京の優しい掟』(徳間文庫・1996)を下敷きに生み出された作品である。
とはいえ、今回の描写はそのほとんどがオリジナルに書き起こされたものであり、いわゆる佐藤度は敢えて低く押さえられている印象を受ける。12式氏の「SaTo Heart」に対する姿勢を垣間見ることが出来る。仮想戦記にとどまらない小説に対する深い造詣を持つ12式氏は、上っ面だけの「語呂合わせの言葉遊び」を敢然と拒否している。
今回は幸いにも一人の人死にもなく終わった(松原葵の自殺未遂には読みながら冷や汗を書く思いではあったが)。しかし、12式氏の作品傾向を考えると、今後もなお陰鬱な空気を濃厚に醸し出しながらストーリーは展開していくことは確実と思われる。
今後のカギとなるのは、12式氏が「To Heart」よりも好んでいる「痕」から出張してきている黒服の公安・柏木千鶴であろうか。いずれにせよ、ハッピーエンドに終わる余地の失われたこの物語世界がいかなる方向に進んでいくのか、目が離せない。
唯一気がかりなのは、第二話後編の執筆予定に関しては全く未定とのこと。単純な私とは違い、12式氏は感想メールを貰ったからといってすぐさま作品執筆に取りかかるという精神構造ではないだろうが、かといってそれが感想を伝えなくて良いという理由にはならない。本作になんらかのインパクトを感じられた方は是非とも感想メールを送っていただきたく、あらためてお願いしておく。
(編集・文責:島津)
この作品のご意見、ご感想は、
12式臼砲氏までお願いします。
特設広場に戻る