「新社会兵庫」 9月9日号
- 年金収入増えずに負担増 − 大衆増税反対の声を大きく
原 義弘(社会保障制度研究会代表)
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収入は増えていないのになぜ税金などが増額になるのか?
ここ数年、年金生活者などで、収入は増えていないのに税金が増えたり、新たに課税になったりして、国民健康保険料や介護保険料などを含め、負担が大幅に増額したという事例が数多くある。
そうした事例と経緯について、少し振り返りながら整理してみる。
対象となる収入は同年のものであっても、所得税はその年に、住民税は翌年に負担増となる。
税制改正決定の年度での呼称や所得税負担増の年度があるが、ここでは住民税負担増の年度で表示する。
1.各種控除の廃止や減額
2005年(平成17年)に配偶者特別控除の上乗せ分33万円が廃止され、06年(平成18年)には老年者控除48万円(所得税は50万円)が廃止されるとともに、公的年金控除の140万円が120万円へと最少でも20万円が減額されてしまった。
こうしたことから、収入は増えていないにもかかわらず、対象となる控除が廃止や減額になったことから、その分所得が増えた≠ニして、増税されることになった。
具体例としては、控除対象配偶者のある65歳以上の年金生活者は、33万+48万+20万=101万円“所得が増えた”として、それに住民税5%(現在は10%)・所得税10%(現在は5%)の税率を乗じたものが、それぞれ増額された。
さらに、大都市の国民健康保険料は、住民税額を算定基準としていることから、その増額分に料率(平成17年度5倍、18年度4倍ほど)を乗じたものが健康保険料の負担増となった。
2.定率減税の半減・廃止
消費税の3%から5%への引き上げに絡んで導入されてきた所得税の20%(上限25万円)、住民税の15%(上限4万円)の定率減税が、恒久的減税として実施されていた。
しかし、その恒久的減税とはかけ声倒れで、ものの10年も経過していないにもかかわらず、06年(平成18年)に半減とされ、07年(平成19年)には全廃とされた。
3.高齢者非課税措置の廃止
合計所得(収入から公的年金控除や給与所得控除した額)が125万円以下は非課税という制度が、高齢者、障害者、未成年、寡婦(夫)にあったが、06年(平成18年)から高齢者の非課税措置が廃止された。
その結果、それまでは266万6666円以下の年金生活者は非課税だったが、単身者は155万円以上、控除対象者があっても211万円以上は課税されることとなった。
このことにより、65歳以上の多くの年金生活者が、非課税から課税となった。
その救済・経過措置として、新たに課税されることとなった税額の3分の2減額=06年(平成18年)、3分の1減額=07年(平成19年)が実施されたが、08年(平成20年)からは全額徴収とされた。
非課税から課税になったことにより、その税負担はもとより、介護保険料は少なくとも2段階の負担区分の上昇となり、住民税を基準としている大都市の国民健康保険料は、その税額に料率を乗じた所得割が加算されることになった。こうした負担増が年々続いてきているのである。
さらに、さまざまな「福祉施策」は、非課税世帯を対象としていることから、それらの福祉施策からも除外されることとなり、そうしたことによる負担増も発生している。
以上3点に整理したように、支給年金額が減りこそすれ、増えていないにもかかわらず、各種控除の廃止や減額により、また、定率減税が廃止されてしまったことにより、大きな負担増になっているのが現状だ。
また、老年者非課税措置が廃止されたことにより、平均的な年金生活者はすべて課税世帯とされてしまった。
この間、高額所得者に対する減税、低所得者に対する増税・課税という大衆増税と格差拡大が着々と進められてきた。今後、さらに、配偶者控除や扶養控除などの見直し(廃止)が検討(準備)され、消費税の引き上げも企図されているところである。
大衆増税反対という声を大きく上げ、立ち上がらなければならい時機に来ているのではないだろうか。
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- 今年の夏は南京に加えて東北の瀋陽、長春を訪ねた。瀋陽では1928年の「満州某重大事件」の現場跡や張作霖・張学良の旧居などを、長春では溥儀の仮宮殿や関東軍司令部跡など、かつて日本が建てた建築物(いまも病院や大学などにそのまま使われている)などを見て回った▼これらには、天守閣を接ぎ木したような、何ともいえないちぐはぐな特徴がある。説明には「興亜式」とあるが、当時の中国人に無理矢理「日本」を意識させる建物だ。旧満州国の皇帝は清の廃帝溥儀だが、ほんとうのご主人≠ヘ日本、関東軍だぞと思わせるように仕向けられていたのに違いない▼長春にはこのような建物が軒を並べているところがある。面白かったのは人民中国建国後の建築物の中にも、街の景観を壊さないよう同じような形式の建物があることだ▼夏、兵庫でも各地でさまざまに「戦争」を風化させず平和を祈念する催しが開かれている。「興亜式」建物など打ち毀しても当然かとも思うが、これはやはり中国人が「九・一八」(満州事変の国恥)を忘れず、抗日戦争に勝利したモニュメントなのだ。その歴史の鑑が曇っていないかどうか、お互いに確かめ合うことはとても大事なことだ。
- 苫田ダムに思うこと
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私の生まれ故郷は、岡山県と鳥取県の山間の小さな村です。その故郷への帰り道に「苫田ダム」があります。私が生まれた1957年、ちょうどその頃に苫田ダム建設問題が持ちあがりました。それから50年経ち、今から3年ほど前にダムは完成しました。

最初、ダム反対派が全体を占めていたO町。年月が経つにつれ、だんだんと変化していきました。
私の父が亡くなった時、家まで送ってくれた神戸市職のIさんが、畑のいたるところに立っている「反対」の立て看板を見て、不思議がられたのを思い出します。25年ぐらいも前のことです。その頃は、立て看板は当たり前のように立っており、「苫田ダム絶対反対」という横断幕が掲げられている家も何軒かありました。
私が裁判闘争に入った頃からか、少しずつ変化が見えはじめた気がします。家への帰り道、前の年にはあった家が1軒ずつなくなっていくのです。帰るたびに家がなくなっていきました。家は取り壊されて、残った階段の跡で「ここに家があったんだなあ」と思わされます。
家を取り壊し、その写真を送らないと立ち退き料がもらえないという話を聞きました。立ち退き料をもらい、立派な家を建てたけれどローンが返せず、売り払ったという話も聞きました。どうせダムの底に沈むのだからと道路もきれいにすることなく、ガタガタのままでした。
ダムを造らないと地域の電力が賄いきれないからという建設理由だったと思います。50年間、ダムがなくても地域の電力に何の差しさわりもありませんでした。途中に小さな発電所がありましたが、それで充分だったと思います。
その発電所には注意を促すための黄色の旗がはためいていました。それを見て私は「幸せの黄色いハンカチ」だと思っていました。それは「幸せの黄色いハンカチ」にはなれなかったのです。
満々と水をたたえる苫田ダム。そこに住んでいた人たちの生活の基盤を崩し、人生まで変えてしまってまでも必要なものだったのだろうかとダムを見るたびに思います。
(まめ)
- 北播地域での相談窓口の開設を展望
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最近、北播地域からの労働相談が増えている。
三木にあるパン会社の事務員からは、会社役員からセクハラを受け、毅然とした態度を示したら解雇されたとの相談があった。この相談は、1回目の交渉で社長(社長と役員は親子)が謝罪し解決することとなった。
西脇にある派遣会社のスタッフからは、解雇問題での相談があった。派遣先会社が突然に派遣契約を解除したために、働くことができなくなったのである。派遣先、派遣元両方に交渉を申し入れたところ、派遣元は残りの契約期間分の賃金補償に応じたのだが、派遣先との交渉はうまく進んでおらず、交渉・解決の糸口を模索中である。
社にある農機具会社の社員からは、「社長に懲戒解雇と言われた」と相談があった。最初は、「会長に対するモノの言い方が悪い」と始末書を書かされ、次は「展示会の時の商品がなくなった」と泥棒扱いされ、そして今回は「花壇の花を蹴った」との理由で懲戒解雇を通告されたとのことである。早速、社長と面談したところ、「懲戒解雇はしないが退職して欲しい」との意向であった。しかも、正式な交渉を行う前に、会社は「花壇の花を折られた」と警察に被害届を出したのである。本格的な交渉を始める前に、警察へ被害届を出し、組合員に圧力をかけるこの会社を絶対に許すことができない。
もう1件、現在交渉中の会社がある。西脇にある大規模お好み焼き店の店員2人が解雇になった相談である。昨年10月にオープンしたその店は、朝の開店9時から閉店の24時まで働いても残業代が付かない労働実態。一生懸命頑張ってきたのだが、Aさんは6月に親会社の配送部に異動命令が出され、Bさんは7月に突然の解雇を通告されたのである。不当解雇であることと、未払いの残業代の支給を求めているところである。
新たな地域ユニオンづくり、新たな相談窓口の開設につなげたいと、北播地域に足を運ぶ今日この頃である。
西山和宏(あかし地域ユニオン書記長)
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