「新社会兵庫」 1月20日号
 年末、ソウルに行った折、DMZ(非武装地帯)ツアーに参加した。ソウルからバスで1時間少し、DMZは朝鮮戦争の休戦とともに設定された北緯38度の軍事境界線を挟んで南北2qずつ朝鮮半島を東西に横切る広大な地帯だ▼臨津閣・自由の橋、都羅山駅、都羅展望台を回って第3トンネルを「観光」した。第3トンネルとは、韓国での説明によれば、70年代初めから北朝鮮が南侵のために掘ったトンネルのうち最大規模のもので、78年に坡州市で発見された。ヘルメットを被ってトロッコで地下73mまで降りていく。このトンネルから1時間に3万人の兵士を送り込むことが可能だったという。もちろん、公開しているトンネルは、境界の手前で遮断されそれより先には進めないが、軍事境界線で隔てられた北に通じている▼「苦労して、よくもこんな無駄なものをつくったことだ」と思いながら展望台から見た境界線の北の景色は、当りまえ、南側と何も変わらない。都羅山の駅が自由に南北を行き交う人びとの乗り降りする駅になり、北からもトンネルが公開され「かつてこんなものをつくった時代があった」と観光客に笑い飛ばす日がとりあえずは1日も早く来てほしいと願う。
2009年・年頭に思う
今こそ必要な労組の力
神戸ワーカーズユニオン副委員長 黒崎 隆雄
 「助けてください…お金が無く…ご飯食べてません。田舎から出てきて、身寄りも無く親しい人も無く…給料前借り出来ないので、どうしょうも無く路頭にさまよっています。」―ユニオンに来たメールだ。
 労働者派遣法など労働法制の規制緩和は、労働社会の有様を一変させた。増大する有期契約の非正規職労働者は低賃金と首切りの不安に、他方、減少する正規職労働者は自らの地位を守るためにますます長時間労働にかき立てられている。
 学校を出ても、非正規職にしか就けない若者たちは使い捨て商品≠フように扱われ、「貧困」を社会問題化させた。会社国家と言われてきた日本の企業だが、終身雇用をやめ、アウトソーシングで間接雇用を増やし、雇用責任を放棄してきた。大企業の現場で働く労働者が社会保険に加入できず、労働者でありながら国民健康保険に加入せざるをえない、高い国民健康保険料が払えないと無保険で働く労働者が増えている。そして国保の滞納で無保険の子どもが3万3千人を超えた。
 「家族」、「地域」、「企業」のセイフティーネットが壊され孤立化≠ェ進んでいる。相談する繋がり、助け合う関係が断ち切られている。
 神戸ワーカーズユニオンは20年前、労働組合のない、加入できないパートなど非正規職、中小・零細企業労働者の受け皿として、神戸地区労が結成した開かれた労働組合≠ナある。阪神大震災では、5万人とも言われた震災を理由とした解雇者の救済に、連合など日本を代表する労働組合が取り組まないなか、職安・労働省、そして企業と交渉してライフラインを繋いだ。
不誠実で悪質な企業などに対して抗議行動をとり組んだひょうごユニオンの「1日アクション」=08年11月11日  私たちは、労働組合が本来の社会的機能を発揮すれば、たとえ小さくても、雇用・権利を守る規制力≠ノなることを実感した。「みんなは一人のために、一人はみんなのために」がユニオンのモットーだが、働く誰もが労働組合の力≠いまほど必要としているときはない。働く者にとって最大のセイフティーネットがユニオン(労働組合)なのだと確信する。
 貧困が進む中、若者を中心に小林多喜二の『蟹工船』がブームとなったが、100年前、ユニオン事務所に近い神戸・新川では、賀川豊彦が救貧活動に取り組み、労働運動、生協運動でも先駆的役割を果たした。そしていま「貧困」に挑み、「孤立」から「連帯」へ、助け合い支えあう労働組合の機能・労働組合づくりが再び問われる時代となっている。私たちが描く労働者コミュニティ像が求められているのだと思う。
闘う駆け込み寺として
あかし地域ユニオン委員長 中谷紀子
 昨年末から非正規職員、とりわけ「派遣切り」といわれる解雇の嵐が吹き荒れています。ワーキングプアどころか、働くところもなく、住むところも追い出され、この寒空の中でホームレスになった人も多くいます。
 製造業に派遣が導入され、2006年には偽装請負問題から請負契約を派遣契約に切り替えて3年契約となり、今年は直雇用を求めて闘いを展開しようとしていました。派遣職員や非正規職員は企業の使い捨ての道具にされてきましたが、正規職員の数が減らされていく中で、企業にとってなくてはならない存在になっていたはずです。職場では正規職員と同様の仕事をし、企業の言うままに必死で働いてきた人たちをいとも簡単に切り捨てる企業を許すことはできません。
 ユニオンの相談にも悲痛なものがあります。公衆電話からかけてきて、解雇されてお金もなく寮から追い出されたとのことでしたが、お金がなくなったのか、途中で電話が切れて連絡が取れなくなりました。その後、どうしているのか案じられます。また、秋田で働いていたが、兵庫で事業を展開するから来てくれといわれ、仕事をやめて家族で来たのに不景気になり、解雇を通告された。寮からも追い出されるが、秋田に帰っても仕事も住むところもなく、引越しするお金もないという相談がありました。ユニオン加入を勧めましたが連絡がありません。ユニオンがまだまだ理解されていないことに力不足を感じます。
 そんな中で、不当な扱いに声をあげて闘う若者も増えてきました。尼崎市の住民票入力業務で働く派遣職員の女性たちが、偽装請負の問題からストライキで闘いぬき、市役所の臨時職員として直雇用となりました。今年の4月からの雇用について、新たな闘いが始まっています。
 地域ユニオンは1人でも誰でも入れる労働組合として、地域の草の根運動の中で「闘う駆け込み寺」としての役割を果たしてきました。物心共に支えてくださる多くの組合員やサポータがあって、ユニオンの活動ができています。県下では、「ひょうごユニオン」として、6つの地域ユニオンが結集し、1千名の組織に発展してきており、丹波、但馬、北播でもユニオン結成の動きが出てきています。
 この最悪の時代だからこそ、「ピンチを若者たちが元気になれるチャンス」と捉えて、あきらめずに大きな声をあげて世の中、変えていきましょう。
「公契約条例」の成立を
尼崎市会議員 つづき徳昭
 深まる金融危機と政治の混迷、2009年は大変な年になりそうだ。
 私にとっても重要な年で、2つの目標達成を何としても成し遂げたい。
 一つは、昨年の12月議会に全国で初めて議会に上程された「公契約条例」の成立である。12月議会では「理解を深めたい」とする意見もあり、2月議会への継続審議となった。
 この条例は、これまで正規職員がやっていた仕事が安価な契約金額で民間企業に委託される場合、そこで働く民間の労働者の処遇の改善に役に立つものだ。民間への業務委託は財政赤字の解消として広がり、官製ワーキングプアといわれる労働者を多く生み出している。このままでは自治体の仕事を請け負う企業は非正規職員が多くいる企業が有利で、自治体がそうした企業を多く生み出すことになる。
 公契約条例についての、市の「違法性の疑いがある」、あるいは「国が行うべきもの」との意見表明は、現下の情勢で果たすべき自治体の役割を理解できていないことを示すものだと言わねばならない。米国発の世界的金融危機は実体経済を収縮させ、今年はますます混迷を深めるだろう。公契約条例が、地域経済の活性化、労働者福祉の向上や社会不安の拡大を防ぐことに果たす役割は大きい。無責任な国の政治の在り方を地方から変える絶好のチャンスである。何としても2月議会での成立を期したい。
 二つ目の目標は6月に予定されている尼崎市議会選挙に勝利することである。私にとっては2期目の挑戦となる。
 一地方自治体の選挙といえども、深まる金融危機の中で行われる選挙は自治体の果たす役割が問われる。「9月以降、店の売り上げがピタッと止まった」「このままでは年を越せない」「労働時間が半分になった」等々、生活と密着している自治体ではその影響が生の声として表れている。生きて行くためのセーフティネットや社会保障を整えていくことが何にも増して必要だ。生きていくための政治のあり方が問われる。2期目の市議会選挙ではそうしたところを訴えていきたい。
 公契約条例の制定と市議会選挙の勝利と2つの目標をぜひとも成し遂げたいと思う。
「世界恐慌」の中で労働運動再生と総選挙の結合を
松枝佳宏(新社会党中央本部書記長)
 政局の混迷の中で、解散は09年へと持ち越された。「死に体」麻生政権のもとで予断は許さないが、この間隙は、私たちに闘う体制の再整備・強化の機会を与えてくれている。しかも、アメリカ発金融危機に端を発する「世界恐慌」は、リストラ攻撃として労働者を襲っており、労働運動の再生・強化とどう結合するのか、解散・総選挙の持つ重み≠熨蛯ォくなった。めまぐるしく動く情勢の中で、次のことが明らかになってきた。
 第1に、小泉構造改革は07年参院選の「国民の反乱」で頓挫した。新自由主義の「破綻」のもとで、「上げ潮」派、「財政タカ(規律)」派、「バラマキ」派に公明も加わり、自公政権に羅針盤はない。しかも、「ブッシュ・アメリカの一極支配」が終焉し、身も心もアメリカに委ねてきた自公政権は舵も舵取りも失っている。麻生内閣は、いつつぶれても不思議ではない最後の断末魔の状況を迎えている。
 第2に、しかし、権力はしぶとい。「水に溺れかかった犬は叩かなければならない」が、民主党をはじめ野党は早期解散を求めるだけで、「内閣打倒」の大衆運動を呼びかけ、組織する動きはない。支配者側は、財界を中心に「大連立」を含む政界再編成によって乗り切りを策すであろう。主権者・国民は「観客席」に放置され、政治不信を広げている。
 第3は、政局の混迷のもとで「9プラス25」が急速に破壊されていっていることである。本紙の読者には詳しい説明の要はあるまい。ただ強調しておきたい点がある。現職空幕長の「クーデター」事件である。米軍と一体となった自衛隊の強化とともに、文民統制を越えた何でもありの体質とそれを許す政治である。危険である。
 第4は、この間、小泉構造改革をはじめ自公政権に対する闘いは無数にあった。だが、一つの潮流として結集できていなかった。2大政党制のもとで、護憲派(左派)の後退とともに、何よりも中心軸である労働運動の停滞が背景にある。しかし、「世界恐慌」は「賃労働と資本」という階級矛盾を激化させざるをえない。資本の攻撃も強まるが、「派遣切り」という、一片の解雇通告と同時に会社のアパートを放り出すという理不尽に、現場では怒りが渦巻き、企業責任の追及の闘いが起っている。兵庫でも尼崎市役所の派遣労働者の闘い、非正規郵政ユニオンの組織化など「新しい労働運動」の台頭がある。連合も非正規センターを立ち上げ、09春闘では「賃上げ」をめざすとしている。私は連合に対して一家言持っているが、「信用できない」と突き放すのではなく、自ら職場で実践しようではないか。
 労働運動の再生を本物にできるか、そこが問われている。
 私は、この事業が容易ではなく、一朝一夕に前進するものではないと思う。しかし、あらゆる資料が「今回の不況は、急であること、あらゆる企業・産業に広がっていること、世界的な規模であること」とし、「長引くだろう」と予測している。そして、1970年代から繰り返される危機は、「企業を助け、生産性をあげ、景気を良くし、雇用を守り、人々の生活向上を図る」という常識ともなっているサイクル(フォーディズム、「日本的経営」)がつぶれていることを証明している。
 それに対抗するには、第1に、非正規をふくむ職場における反合理化闘争という企業責任追及の闘いであるし、地域でユニオン運動を支え、「生活最低保障賃金」「労働安全」などを勝ち取る共同闘争である。
 第2は、現代版ニューディール政策の実行である。医師・看護師、ヘルパー、教員などを増やし、医療・福祉、そして教育を充実すればよい。農林水産業を支えればよい。低家賃の公営住宅や学校の耐震化、そして環境を重視した産業を進めれば、関連従事者も増える。地方自治体(議員)、公務員労働者の出番である。「お金はどうする?」。労働者の人の良さ≠ゥら脱皮しよう。「取れるところから取ればいい」。
 失敗する迎撃ミサイル実験1回に62億円、在日米軍の再編は3兆円、そして思いやり予算は約3千億円、これこそ無駄であるだけでなく、アジアの緊張を強めている。このような資金が、平和外交のもとにとりわけ東アジアの経済協力に使われるならば、国際平和にも役立つであろう。これこそ「9プラス25」、要するに憲法を生かす闘いではないだろうか。
 09年は、私たち労働大衆の出番である。私たちの弱点である、“隣の仲間に呼びかける”勇気をとり戻そうではないか。みんながもう一人の仲間を獲得した時、「原和美勝利」と「世の中変えよう」という次の闘いへの展望が開ける。
(08年12月26日記)
明治生まれのかっこいい女性たち
 昨年はドラマが人気の「篤姫」は明治16年没だというからそれから30年も経たないうちに彼女たちは生まれ、約1世紀、この平成の世まで生き抜いてこられた。
 「空襲の時は子どもを背負うて、一人は手を引いて、六甲山まで走ったんやで。怖かったよ。もうあんな戦争はこりごり」とカヨさん(仮名)は語る。疎開先の瀬戸内の島でピカドンから降る黒い雨も見た。少女時代は紡績工場で働き、「女工哀史」の実体験もある。70歳まで賄いやいろいろな仕事で働き続け、「やっぱり働くもんは社会党やないとアカン」と言う。
 命を守った子たちにも近年、先立たれてしまい、今は車イスだが自宅でひとりで逞しく暮らされている。
 ヘルパーと一緒に商店街に買い物に行き、自分で食材を選び、献立を考え、卓上に電熱器を置いて自分で工夫して煮炊きされている。ストーブの上でミートソースをコトコト炊いたりする。
 「デイサービスでアホ言うて笑うんが一番」と痛い足をさすりさすり、毎日、自分で洋服を選び、ヒカリモンもつける。「今日は遠足やから若い人に食べさせたい」とお得意のてんぷらを自分で揚げて持っていったりする。デイから帰ると「まず一服」と煙草をふかす。かっこいい。
 もうお一人、やはりひとり暮らしの同じ明治生まれ、ハナさん(仮名)はCDのジャズを聴きながら、本を読み、鼻メガネの向こうからこう語る。
 「飛行機に向かって竹槍刺して、アホらしいから婦人会の訓練なんか出んかったわ。『非国民』とか言われたけど……淡谷のり子さんは戦争中もブルース歌い続けた。すばらしい人や思う」。
 今も新聞は隅から隅まで読んで、タクシーで図書館に本も借りに行く。「今のサブプライムの問題は昔の世界恐慌と一緒や」と言ったりする。かっこいい。けど、「孫の嫁に贈ってあげる」と車イスで行った店であれこれ選んだ洋服が気に入って結局、自分で着たりするお茶目さんだ。宝くじも大好き。
 ゴーイングマイウェイで周りの人が困ることもたまにはあるけれど、ようよう彼女の半分しか生きていないひよっ子の私たちが敵うはずもなく、「おっしゃる通りにいたします」と退散するしかない。
 お二人とも「早くお迎えが来んかな」と言いながら、生きるのに大事な食をはじめ、いろんな意欲を持ち、自分らしく一日一日を大事に暮らしておられる。そして、今も何か人にしてあげたい、役に立ちたいと考えておられる。長生きの秘訣はこういうことだと思う。あやかりたい。 
(K)
新春特別編
地域特有の歴史、文化、風致を踏みにじる乱開発
西宮開発審査会で審理
前川協子(西宮市甲陽園東山町在住)
 年の瀬も押し迫った26日に、西宮市の開発審査会が開かれた。これは西宮市が昨年の4月に中核市に移行したことで開発審査会が置かれ、7月の施行以来、初めてのケースとなった。
 私達はかねて東山町の元料理旅館だった「播半」跡地の開発が、敷地内の渓流を埋めて外の市道に人工水路としてつけ替え、斜面を切り盛りして横一列3棟(232戸)のマンションにするのは余りにも危険、無謀だとして、06年から地域ぐるみで取り組んできた。しかし、利益最優先の業者に屈し、経済原理主義に陥った行政は、昨春以降、次々に同意や許認可をおろし、遂には開発許可も出たので、事態を憂慮した原告83人が開発審査会に対して許可処分の取り消しを求めて審査請求を行い、口頭審理の運びとなったものである。
 当日の出席者は審査委員7人中4人。行政側担当部局と原告団代表がそれぞれ約10人ずつ。それにも増して傍聴者は市庁舎最大の会議室を埋め尽くす程の関心と熱意を寄せて下さったのが有難い。
 意見陳述は住民側の代表として私と、開発直下や下流に住んで今までも度々土砂や浸水被害に直面した2人。それに代理人として弁護団代表と、地質や斜面災害の専門家2人が、実地検証やデータによる危険度や防災対策の不備を論理的に見事に述べて下さった。
見事だった和風建築のすべてが跡形もなく「虚しい宴のあと」。更地の次は緑の伐採と川の埋め立てが予定されている=1月6日撮影  私は甲陽園に移り住んで約30年になるが、高度成長期とバブルによる乱開発、そして阪神・淡路大震災後の規制緩和が、公共・公益施設不備の当地に、如何に弊害と災害をもたらしてきたか、自治会活動やまちづくり運動の中でつぶさに見てきた。また、本件開発については、地域特有の歴史や文化、風致が踏みにじられる行為であるにかかわらず、市と県が地方分権や住民自治に背く責任転嫁と齟齬の関係が目につく。
 当局は「手続きに瑕疵が無く、業者案に行政指導をして改めてきたのだから問題はない。故に棄却を」と言うが、手続きの形式論ではない。公共の福祉を担う行政方針と、企業に対しての社会的責任の追及こそあらまほしい役割なのだ。一人の委員は「住民側の言い分は法律的にまとめて書面で出すように」と言われるのだが、そもそも法律にこそ不備があるのだ。ここ1〜2年の間に行政は、都市計画の用途地域見通しや都市景観形成地区、道路、水道、森林、マスタープラン、参画と協働条例等、パブリックコメントを公募し続け、私達はいずれにも応募し続けたが、結果は虚しく、単なるガス抜きにしか過ぎない。
 私は無用の争いと地域の疲弊を避け、まちづくり百年の大計から「播半」跡地開発については、産・官・学・民の4者協議を提唱し続けたが、報われることはなかった。その挙句が法不備の中で、一方的な行政判断による32条同意が成され、総ての許認可になだれ打ったのだ。
 今日もガ、ガ、ガ、ウイーンと鳴り響く解体工事の次の手に、開発審査会はどんな大岡裁きを見せてくれるのか。私達は期待を込めると共に、次なる建築審査会への審査請求を出してきたところだ。
終わりの始まり
今村 稔(労働大学副学長)
20世紀の末尾9の年には……
 2009年。21世紀に入って最初の末尾9の年である。年の初めには「今年はどうなる?」という話が定番であるが、占いではないので、いままでのどんな流れが、そしていままでのどんな蓄積が、どんな事象を現出させるか、を考えるしかない。
 定点観測ではないが、20世紀に10回訪れた末尾9の年に現われたことを拾ってみよう。
 朝鮮の人々の国を奪い、植民地支配の軛を強いた日韓併合、社会的進歩を目指す運動を扼殺する出発点となった大逆事件は、いずれも1910年であるが、1909年はそれらがととのえられた年であった。20世紀を象徴する生産品となった自動車はようやくこの頃、姿が見られるようになった。
 19年は、国際的にはロシア革命の影響が西欧に波及したものの、その多くは敗北に帰し、ドイツでは年明け早々にローザ・ルクセンブルグなどの惨殺ということが起こった。わが国では前年に米騒動が全国的に広がった年であった。
 29年はあまりにも有名な大恐慌の年であった。大恐慌は克服策としてファシズムとニューディールを生み出したが、情勢の進展は10年後の39年、第2次世界大戦勃発へと雪崩れこんでいった。
 49年、中国革命の結果、中華人民共和国が成立した。この国の動向はなにかにつけ20世紀後半の世界、とくにアジアの政治情勢を動かすことになる。国内では下山、三鷹、松川という事件がつづく中、社会党は分裂を繰り返しながらも、階級政党論、講和三原則(のちの平和四原則)をうちだしていく。
 59年、60年安保・三池闘争といわれた空前の大衆闘争はこの年から始まっていた。年末に三池労働者に対して三井資本は指名解雇攻撃を加えてくる。三池闘争は1年にわたる凄絶な闘いののち敗北するが、もはや労働者の生首は切れない時代になったというのが、日本独占資本の共通認識になった。
 69年、ベトナム反戦闘争、全共闘、学園紛争などで騒然とする中、年明けは東大安田講堂をめぐる攻防であった。年末の佐藤・ニクソン会談は今日までつづく日米核密約の出発点となる。 79年、「鉄の女」といわれたサッチャーが首相に就任。つづくレーガン、中曽根とタッグを組むようにして新自由主義をひた進む。
 89年。消費税導入、そして参院選で自民党大敗。しかし秋には総評解散、連合発足。
 99年、小渕内閣のもとで弱体化した自民党と自由党が連立し、のち公明も連立参加。自由党が自民党に吸収され、自自公が自公となり、自公政権が始まる。「地域振興券」のばらまき。自民党と公明党の連携の道具に、即物的なばらまきが登場するのは10年後の今も同じ。
 このように見てくると20世紀の末尾9の年には、驚くほど大変なことが起こっている。
「100年に一度の危機」に私たちは?
 21世紀に入っても9のつく年は大変な年になることは間違いないと思いきや、その実態は生半可な予想をはるかに超えるものとなった。
 正月早々のテレビニュースは、大規模かつ急激に職と住居を奪われた派遣労働者に関するものであった。テレビのニュース報道50余年の歴史で例を見なかったことであろう。わずか前の「一億総中流」狂騒曲は、「100年に一度の経済危機」エレジーに変わった。今日では貧富、老若、男女の区別なくこの曲を耳にし、口ずさむようになっている。
 この「100年に一度の危機」をまるで自然の災害であるようにみなし(みなしたがっている)、台風の過ぎ去るのを待つかのように回復の時期を語っている。
 言うまでもなく、危機は自然災害ではない。冒頭に見たように20世紀の資本主義の流れの中で危険の域に達するまで貯まった膿である。貪欲なまでに脂肪性利潤を喰い尽くした結果の悪性メタボである。しかし、恐慌を自然災害のように見なしたがっていた人たちは、ここでは一転して、人の健康との類推をかたくなに拒否して、資本主義の不摂生の結果ではない、悪性メタボではないと叫ぶのである。
東京・日比谷公園の「年越し派遣村」の元旦の光景(写真は『週刊新社会』提供)  ひるがえってわが身を省みよう。資本主義に対して批判の眼を持っている以上、一般的、抽象的には危機の現出は予測してはいたが、それが実際に具現した際の鋭さ、厳しさには、たじろぎを感じざるをえない。わが眼のレンズや鏡に生じていたカビやサビは否定しえない。長くつづいた後退や敗勢の中で生じていた惰性や消極性の虜になっていたことを認めざるをえない。まず、これらの一掃にとりかからなければならない。
 人々の生命や生活、社会の健全な活力を資本主義は保障し維持することができなくなっているということが明らかになっている以上、対置するべきものも明らかである。
 千里の道も一歩からというが、千里の先を見つめ、見定めることができる者こそが、間違いのない力強い一歩を踏み出すことができるし、歩みつづけることができる。
 20世紀は、解決し乗り越えなければならないものがそうならなかったために多くの負の遺産を残した。負の遺産のとりかたづけにかかり、新しい道を定める、そういう契機が、つまり終わりの始まりの契機が私たちの前に用意されているのではないか。
自らの非を全く認めない会社
 西脇市にある「王様のてっぱん」。北播地域では少しは名の知れた、大型のお好み焼き店である。
 昨年7月、元従業員の2人から、解雇と残業代未払い問題で相談を受けた。「王様のてっぱん」を経営するのは叶フーズという会社であるが、Aさんは別会社である東播水産の配送部への異動を命じられたのである。転籍出向であるにもかかわらず、会社は本人の同意を得ようとせず、しかも「即時に行う」との辞令であった。厨房での仕事ということで勤め始めたAさんにとって、別会社で配送の仕事を命じられることは、クビを意味するものであった。
 また、この会社では、正社員は朝9時に出勤し仕事が終わるのは深夜という毎日で、休日も店舗の定休日である週1日だけであった。そのため、2人の組合員は1カ月に100時間を超える残業を毎月行っており、Aさんの残業時間は9カ月で約1100時間、Bさんは10カ月で約1200時間であった。この残業時間は、いわゆる「過労死」の労災認定基準を十分に満たす数字である。
 昨夏から団体交渉を続けてきたが、一向に話し合いが進まない。というよりも、会社が全く非を認めようとしないのである。解雇問題については「自ら辞めた」、残業問題については「勤務時間中に6時間の休憩を取っていた」と言い張り続けているのである。
 労基法違反の申告を行ったところ、監督署から是正勧告が出されたのだが、それでも会社は全く懲りない様子である。
 そこで、年末には2回目となる抗議行動を取り組んだのであるが、会社が警察に通報したため、パトカー5台と警察官15人が出動する始末。おかげで店の前は大盛況であった。なんでも「やくざが大勢で、店の前で騒いでいる」との通報があったとのこと。またここでも嘘である。
 今年も年明けから忙しくなりそうである。ご支援を。
西山和宏(あかし地域ユニオン書記長)