「新社会兵庫」 8月24日号
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- 「言うまいと思えど今日の暑さかな」(作者不詳)。暑中見舞いが残暑見舞いにかわる立秋前後の炎暑には参った▼風の音で秋の訪れを知ると詠んだのは平安歌人の藤原敏行であったが、神戸に住んでいると秋の兆しは六甲の山襞に見出される。朝、目覚めの時にまず山を見てその日の「吉凶を占う」というのは神戸でついた癖である。山がモヤーッとしていれば暑さを予測してうんざりする。山の緑が殊の外に鮮やかであり、艶やかであれば、また、東側の山容が陰となって西の山に投影されていれば、清澄さが思われてスッキリした一日の予感にうれしくなる▼六甲山の夜景は千万ドルとも言われ、観光神戸の売りであるが、40〜50年前は、街の灯がゆったりと山麓を登っていくさまは下から見ても興趣溢れるものであった。ある人が海から神戸の街と山を眺めて「神戸の人たちが羨ましい。ゆったり広げられた女性のスカートの上で暮らしているようだ」と言ったという▼今ではひしめく高層ビル群は、スカートの艶っぽさをズタズタにするトゲのようであろう。それだけではなく、ヒートアイランド放熱の突起のようでもあろう▼奪われた情緒を惜しんで、山容に秋の気配を待つや切である。
- 「新安保懇」報告を改憲論議の促進剤にさせるな
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菅首相の私的諮問機関である「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長=佐藤茂雄・京阪電鉄最高経営責任者)がまとめた報告書案の全容が明らかになったと、7月26日以降、各紙で報道された。この報告書は8月に首相に提出され、今年末に民主党政権として初めて策定することになる新「防衛大綱」のたたき台となるものだ。
その内容は、あとで見るように、国是である非核三原則の見直しにも大きく踏み込んだ、きわめて危険な内容を持つものである。その内容の危うさと同時に、それが明らかになった時期がなんとも象徴的で、大いに警戒感をかきたてられる。
史上空前の大規模な米韓合同軍事演習(米韓合わせて8千人の兵力を投入)が日本海で実施されたのが7月25日からの4日間。この演習には横須賀を母港とする米原子力空母ジョージ・ワシントンが参加し、沖縄・嘉手納基地からも一時配備中の最新鋭ステルス戦闘機F22が初めて韓国での演習に参加した。さらに、海上自衛隊の4人がオブザーバーで米空母に乗り込んだ。まさに日米韓の軍事一体化を示すものである。この米韓合同軍事演習は、今回の演習を皮切りに年末まで毎月実施されるという。
その少し前、7月13日には日本経団連が「武器輸出三原則」の緩和を求める提言を発表。さらに、小泉政権時代にすでにミサイル防衛(MD)の日米共同開発・生産を「三原則」の例外として認めているが、今度はMDの海上配備型迎撃ミサイルを第三国に供与することを容認する方向でアメリカと調整に入った、との報道もなされている(7月25日・神戸新聞)
「新安保懇」の報告書原案の要旨を見てみよう。
第1章(安全保障戦略)では、これまでの「基盤的防衛力」概念がもはや有効でないと明言し、非核三原則の見直しにも言及している。「非核三原則で最も大切なことは核保有国に『核兵器を使わせないこと』であり、一方的に米国の手を縛ることだけを事前に原則として決めておくことは必ずしも賢明ではない」と述べ、「持ち込ませず」の見直しをあからさまに求めている。
第2章(防衛力のあり方)では、離島地域への自衛隊の部隊配備を検討する必要があるなどと述べている。
第3章(防衛力を支える基盤の整備)では、武器輸出三原則の下での武器禁輸政策は見直す必要があり、共同開発・共同生産は日米同盟の深化、友好国との安全保障協力関係の深化につながると述べている。まさに、財界の意向そのままだ。
第4章(安全保障戦略を支える基盤の整備)では、「米国向けの弾道ミサイルの撃墜を実施するかどうか考えるという選択肢さえない」として、「柔軟に解釈や制度を変え、日米同盟に深刻な打撃となる事態が発生しないようにする必要がある」と集団的自衛権の行使容認を迫る内容になっている。
このように、報告書原案では非核三原則の見直しや集団的自衛権の解釈変更など、従来の枠組みを大きく踏み出した言及が目立つ。政権交代後にこれだけのことを打ち出すことに唐突な感じがしないでもないが、懇談会自体は鳩山前政権から引き継がれたものである。さらに言えば、懇談会の構成員には自公政権時代からの右翼的論客もいて、主要な論点は、自公政権時代のものが引き継がれているといわなければならない。鳩山政権時には、鳩山首相(当時)は懇談会の初会合で「タブーのない議論を行なってほしい」と指示している経過がある。「日米同盟の深化」をめざす民主党政権の本質が垣間見えるとも言えよう。
この報告書案の踏み込んだ提言内容について、先の臨時国会では社民党・福島党首からの質問に答えて、菅首相は「非核三原則は堅持する」と一応は述べた。菅政権がこの報告書をどう受け止め、どう新「防衛大綱」に反映させるかは不明である。
しかし、菅政権の意図はどうであれ、選挙後の国会は、護憲派が圧倒的少数であり、改憲派が増大した、たいへん保守的な政治傾向を持っている。この報告書が、改憲論議の、実質改憲の論議を促進させるものになりかねない。そうならないように私たちはしっかり監視をしなければならない。
上野恵司(平和運動研究会)
安保・三池から50年 三池闘争に想う
- 日本労働者運動史上最大の闘争
資本家が恐れた人間の誇りに目覚めた労働者
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三池闘争今昔
集まった人達が「がんばろう!」の掛声とともに右の拳を天に向かって突き上げる―このパフォーマンスは1960年の三池闘争が生みだしたものである。今ではこのルーツとは無関係に、百貨店の大売出しの際に店員が「がんばろう」と声をはりあげ、選挙では日の丸鉢巻の保守陣営の運動員すらもが、拳を突き上げる。
闘争の現地の大牟田、荒尾さえも争議の跡を見出すのは難しいと言われるほどに歳月を経たにもかかわらず、三池闘争は私たちの周囲にさまざまな名残りをとどめている。当時、ピケの最前線に立った青年行動隊員はみな、70歳を超えているにもかかわらず胸に高鳴るものをとどめている人は少なくないであろう。
50年という物理的な時間は多くのものを流し去り、三池闘争についてはほとんど知らないという人たちを多くつくりだしている。しかし、三池闘争が100年を超える日本労働者運動史上の最大のたたかいであったことには異論の余地はない。それゆえに多くのものが流れ去ったと思われる今も、豊かな金鉱から流れ出た砂金のように、川底に輝くものを沈めている。
闘争の経過
1960年の三池闘争(「三池闘争」というのは労働者側の呼び方であり、資本側やマスコミは「三池争議」といった)は、三井資本(三井鉱山株式会社)が三池労組(三井鉱山三池鉱業所の労働組合)に対して強行してきた1297名の指名解雇を認めず、全面撤回を求めてたたかった闘争である。資本側のロックアウト、労組側の無期限全面ストライキで火蓋が切られた1月25日から、争議終結・就労となった12月1日まで、313日のたたかいであった。
その間の経過をピックアップすると以下のようである。
第二組合結成(3月15日)。三井鉱山の三池を除く五山の労組、闘争より脱落(3月18日)、炭労、総評は三池支援に全力。三池労組員・久保清、ピケで暴力団により刺殺(3月29日)、第二組合の就労により会社は生産再開。しかし、ホッパー(貯炭槽)を組合に抑えられ石炭の搬出できず、ホッパーをめぐって組合と会社・警察の緊張高まる。またこの間、安保闘争の高揚と共鳴し、安保・三池といわれ全国的なたたかいの焦点となる(5月〜6月)。三池を守る10万人大集会(7月17日)。安保闘争の終息後、発足した池田内閣は三池の「解決」を当面する最大の課題とする。中労委、斡旋を申し入れ、労資双方に白紙委任を求める。双方了承(7月19日)。ホッパーをめぐる激突回避される。中労委、斡旋案(会社は解雇指名を撤回、指名解雇者は自発退職)提示(8月10日)。炭労大会、斡旋案を条件つき受諾(9月6日)。三池労組、炭労大会決定にもとづき、「三池の決意と態度」を決定(9月8日)。内部討議を深め、第2ラウンドのたたかいの決意を固め、就労(12月1日)。坑内帽(ヘルメット)に「団結・抵抗・統一」を示す三本線を書き入れる。
三池のたたかいが示したもの
三池闘争をめぐって、背景に石炭から石油へのエネルギー革命があり、産業転換上、やむをえない整理解雇であったという説が有力である。しかし、ことは炭鉱産業一般の縮小ではなく、1200名の三池の職場闘争の担い手の排除だったのである。当時、総評は「幹部闘争から大衆闘争へ」というスローガンの下に、職場闘争の強化と活動家の輩出をキーポイント(総評組織綱領草案)に労働運動の抜本的強化を図ろうとしていた。まさに三池はその先導役を果たしていたのである。三池炭鉱は当時、群を抜き優良炭鉱であり、縮小すべき炭鉱とは別の範ちゅうに入っていた。現に三池は争議後、出炭は大幅に増やしている。三池につきつけられた資本の刃は、炭鉱の整理よりも、職場闘争の圧殺に向けられていた。
闘争後、三池の敗北を喧伝して、労働運動から階級性の牙を抜きとろうとする動きが強められた。しかし、当の三池労組は三本線のシンボルのもとに長期抵抗統一路線という新たな職場闘争の構築に挑戦した。その試みは70年代前半の労働運動高揚に大きな刺激を与えた。
三池争議に勝ったはずの日経連の幹部は直後に「もう生首は切れなくなった(指名解雇は不可能になった)とつぶやいたという。50年経って、労働者がいとも簡単に首を切られている現在では考えにくいことであるかもしれないが、資本家を本当に恐れさせるものは、人間の誇りに目覚めた労働者であり、力の限りたたかうことを当然と考える労働者であったことを三池のたたかいは示したといえるであろう。
今村 稔(労働大学副学長)
- ターミナルケア
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猛暑のせいか、このところ彼の岸行きの大型船が出帆しているらしく、私たちがお世話をしてきた高齢者が何人か乗り込み旅立たれてしまった。ある方は大好きだったデイサービスに行く時の外出着に色鉛筆を携えて。年若く途半ばにして逝かなければならなかった方の無念さは計れぬが、人生を全うされた方々のお顔はやせ細ってはいるが、生ききった、未練のない清々しいものだった。
死期を告げられた人々の最期の日々に寄り添う仕事をターミナル(終着駅)ケアという。医師やナースなどの医療関係者が主力だが、私たちホームヘルパー等の介護職もチームとして関わる。もちろん、そのケアはご本人とご家族の意向に沿って行われ、痛みなどの苦痛の緩和が中心となる。それは「最期まで我が家で」、また「信頼している病院で」、或いは「ホスピスで」と。私たちヘルパーのできることは限られていて、ご本人が少しでも楽な姿勢をとってもらうお手伝いをしたり、吸い飲みで少しずつ喉を潤していただいたり、浮腫んだ手足をさすったり。少しでも不安を和らげるように、時にはお好きな歌を歌って差し上げたりする。
先日お見送りした方は最期までご自宅で、ご家族もほぼ日常の生活を営む中で、ある日曜日にご家族に見守られ静かに逝かれた。主介護者であったお嫁さんのご苦労はたいへんだったと思う。苦痛を訴えるご本人に付き添い、眠れぬ辛い夜を多々過ごされたが、とても明るく振舞われ、歌声の絶えない温かい家庭で私たちも大好きだった。
が、一般にどうもこういう時、男性は逃げ腰で困る(私の数少ない経験上なので該当しない方はご容赦頂きたい)。
100歳以上の高齢者の行方不明が取り沙汰される昨今だが、死に逝く父母に向き合えなかったり、健康管理のできない自分を「野たれ死にするからええんや」と自暴自棄になったりする男性を時々見受ける。“野たれ死に”などできるはずもなく、最期はどうしても人の手を借りなければならないのに。娘さん達はみんな父親の下の世話をされるけど、息子さん達はなかなか母親のオムツを替えられない。
吉永小百合さんを姉とし、鶴瓶師匠を弟とする映画「おとうと」に最期の日々を過ごすホスピスの場が描かれている。モデルは東京・山谷の身寄りや行き場のない方のための在宅ホスピスケア施設『きぼうのいえ』。そこでは人の温かさの中で、人々との関係を結び直し、自らの人生と和解し、死に逝く自分を見つめる、という。
日本人はとかく死をタブー視するが、ある程度の年齢になったら、残された家族が困らないよう身の回りの整理の一つもしておかなければなあ、と思う。体力・気力のあるうちに。とりあえずは押し入れを占拠している本をなんとかしなくては。ね、我が夫よ!
(MK)
- 介護保険制度の見直しは不可欠
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今は高齢社会。15年後には高齢化率が7割に、つまり10人のうち7人が65歳以上になる。老老介護、介護難民、限界集落などの課題が噴出する。果たして高齢者は安心して老後を暮らせるのだろうか。その老後を誰が支え得るのだろうか。
ある日、両ハンドルにスーパーの袋を提げた自転車が私の横をフラフラと通り過ぎた。後ろ姿に見覚えがあったので思わず声をかけてしまった。少しして自転車が止まり、振り返ったのはやはりAさんだった。大きな声で「毎日、老老介護や。ほんまにしんどいわぁ」。何と応えたら良いのか…。Aさんの妻がデイサービスに通っている合間に、買い物を済ませ帰る途中だったようだ。「自分が世話をする」と日々頑張っておられる。共倒れにならないか心配だ。
介護は、される人よりする人の負担が大きい。社会的介護サービスが十分に保障されていてこそ家族の介護の営みは成り立つものだと私は思っている。社会的介護サービスの保障が不十分なままの家族介護は、家族に課せられる負担が大きく、それは、介護心中や高齢者虐待などの悲劇をもたらす要因ともなっている。
2000年に、「介護の社会化」を謳い文句に介護が市場化された。10年を経た今、介護ヘルパーの低賃金や人手不足が深刻な問題となっており、このままでは消滅しかねない。国も介護報酬引き上げや処遇改善交付金などの対策を講じてきたが、いっこうに改善しない。
2010年度の経済白書で、介護は「需要の急拡大が確実視される」と太鼓判が押されているにもかかわらず、介護保険の制度そのものの見直しは提案されておらず、核心には触れられていない。私はいま、介護保険は、制度的にも財政的にも“公”がもっと積極的にイニシアチブをとる必要があると、あらためて思うようになっている。“民”にお任せのままでは、やがて制度の維持すら困難になると、思わざるをえない。
小林るみ子(ヘルパーユニオン)
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