”幼なじみ”で行こう! 第三話




 教室には、西日が射し込んでいる。
 ぐったりしながらアスカを待っているシンジ。随分と時間が経ったが、アスカは帰ってこない。それでも、勝手に帰る気にはならない。義理堅いというだけではない。後が恐いのだ。
(ナルミさんが、声優……。しかも、当代一だなんて、ケンスケは言ってた。全然知らなかった)
 シンジは小さく溜め息を付く。
(あの時、僕がナルミさんの仕事を訊ねたとき、寂しそうな顔してた。僕がナルミさんが声優だって知らなかったから、がっかりしてたんだな、きっと。……僕って最低だ)
 そんな彼の机の横に、綾波が立つ。シンジは暗い思考の渦にはまりこんで気づかない。
(”子供に夢を与える仕事”。そういう意味だったんだな)
 二人の他には、人影は失せている。
「碇君……」
 澄んだ声に、シンジは我に返る。
「あ、綾波……。どうかしたの?」
「碇君、帰らないの?」
「アスカを待ってるんだよ……。委員長と話があるんだって」
「そう」
 抑揚のない綾波の口調からでは、「そう」に、”じゃあ、私も待つ”なのか、”じゃあ、私は先に帰る”なのか、言葉にこもった意味が伝わってこない。単に関心がないだけなのかも知れないが。
 じっとシンジを見つめたままの綾波。
「……な、なにかな」
 たじろぎ気味のシンジが、どもりながら聞く。
「碇君は、”声優”が好きなの?」
「え?」
 シンジが思わずまばたきする。声優とは何か、すら判っていないのでは、といった風情の綾波の顔。
 応えられないシンジのせいで、教室には沈黙が訪れた。
「……じゃ」
 気まずいという感情を綾波が抱いたのかどうか。彼女はシンジの返事を待たずに背を見せる。
「綾波……」
「私も、”声優”になりたい……」
 彼女の小さな呟きは、シンジの耳には届かなかった。
 

 
 アスカが、ヒカリと何やら深く話し込んで帰ってきたのは、それから十分ほど経った後だった。
 アスカの機嫌は必ずしも良いとは言えなかったが、触れた途端に爆発しそうなアブなさからは、かろうじて脱している様子だった。
 シンジはそんなアスカと共にコンフォート17に帰り、夕食の支度をしているところでミサトも帰宅した。
 彼女は着替えもそこそこにシンジをリビングに呼んだ。
「なんですか、まだ準備が……」
「それはあとで良いから。ちょっち頼みがあるのよ」
 ミサトが手招きして、シンジをテーブルの向かいに座らせる。
「頼み、ですか? つまみでも作れとか……」
 申し訳なさそうな、それでいてどこか余裕のある顔付きをしていたミサトが、突然、パン、と両手をあわせて頭を下げた。
「お仕事、頼まれて頂戴!」
「な、なんです、ミサトさん」
 いやあな予感がして引くシンジ。日頃あまり役に立たない彼の危険探知センサーが警報を鳴らしまくっている。惜しむらくは、危険が判っていても、回避できないという点だ。
 案の定、ミサトが後ろに隠すようにして置いていた紙袋をテーブルの上にドンと置いた。中からは、白い正方形の厚紙の束。
「色紙……?」
「そ。シンちゃんが”井上ナルミ”と幼なじみだって話したら、サイン貰ってくれ、ってこんなに沢山。というわけでお願いね」
 目の前に積まれた色紙は、色紙の一辺と同じくらいの嵩があった。
「ミサトさぁん……。ダメですよ、そんなこと出来るわけないじゃないですか」
「そんなことないでしょ。他ならぬ”シンくん”の頼みなら、彼女、ちゃっちゃと書いてくれる筈よ」
「イヤですよ、僕は――」
「ぐだぐだ言わない!」
 ふいに横合いから、金切り声が降りかかって、シンジの上半身がしなった。
 勿論、声の主はアスカである。
「アンタ、ほんっとにバカね」
「なんでだよお……。ナルミさんの迷惑になるし」
「じゃあアンタは、これから先、ネルフの職員に白い眼で見られても良いワケ? サイン貰ってこなかったら、酷い事になるわよ」
「そうそう。シンクロテストの最中にLCLの濃度がぎゅ〜って上がったりするかも知れないし」
 思いがけないアスカの援護射撃を受け、声を励ますミサト。調子に乗って、とてもネルフ作戦部長の発言とは思えないようなことを口走っている。
「そんなあ……」
「イヤな目にあいたくなけりゃ、素直にサインを貰ってくる事ね」
「それに」ミサトが文字通り、とってつけたような台詞を付け加える。「これは、シンちゃんにしか出来ない仕事なの。みんながシンちゃんを頼りにしているのよ」
「皆が僕を必要としている……?」
 この言葉に飢えているシンジ。こんな事で頼られても嬉しくないだろうが。シンジは色紙の束を改めて見た。父さんや副司令の分もあったりして、と恐い考えに走る。
(ふん。無理な頼みでナルミに嫌がられちゃえばいいのよ、バカシンジ)
 二人を見下ろすアスカが、琥珀色の髪をかきあげた。赤い髪留めがわずかに位置をずらす。そこに悪魔の角が隠されていたとしても不思議ではない。合掌。
 とはいえ、結局シンジがナルミのマンションに行く口実を与えてしまったのだから、どこかへっぽこであることも間違いなかったのであるが。
 

 
 夕食を終え、シンジは色紙の入った紙袋を下げて、ナルミのマンションに向かった。足どりは当然の事ながらきわめて重い。
「どんな顔して頼めば良いんだよ……」
 昨日再会したばかりの幼なじみが有名声優だというので、早速サインをねだりに行く。図々しいにもほどがある。誰でもブルーが入る状況。しかも、その当事者がシンジと来た日には、もう、負のオーラが視認出来そうな程である。
「ナルミさん、絶対に怒っちゃうだろうな。どうしよう……」
 ぶつぶつ言いながら、マンションの前に到着する。
 マンションの管理人に声を掛け、ナルミの部屋を聞く。セキュリティシステムが完備されているので、管理人と、住人のクロスチェックを通過しなければ中に入れない。
 幸いに、というべきか、ナルミは在室だった。シンジはエレベータに乗り込んでナルミの部屋に向かう。
 部屋のドアの前に立つ。と、ベルを鳴らすまでもなく、監視カメラの映像を見ていたのか、かちゃりと音がしてナルミが顔を出した。
「どうぞ、上がって」
 ナルミの微笑みに、どこか陰があるように感じられたのは、シンジの錯覚だろうか。
「お邪魔します」
 綺麗に片付けられ、女性の部屋らしく可愛らしい調度品で統一された部屋の空気に、シンジは気恥ずかしくなる。淡い色調でまとめられた壁紙とカーテン。塵一つ見えないカーペット。柔らかな光を室内に満たす照明。アスカやミサトの部屋には、こんな空気は全くない。綾波のそれとは、比べるだけで失礼というものだ。
「早速来てくれて、嬉しいな。今、お茶いれるね」
 ナルミは丸いクッションをテーブルの前に置き、そこにシンジを座らせるとダイニングキッチンのほうに向かった。
「あ、気を遣わないで下さい。いきなり押しかけてきたんですから」
「気なんか遣ってないって。来て頂戴って言ったの、私のほうだもの」
 ナルミの優しげな言葉遣いに、一層サインの件を持ち出しにくくなるシンジ。クッションの上で落ち着かない様子で腰を揺らす。
 そこに、盆にティーポットとカップ二つを乗せたナルミが戻ってくる。
「最近、ハーブティに凝ってるの。美味しく出来るときばっかりじゃないんだけど。今回は上手くいったかな……?」
 そう言いながら、ナルミはシンジの前に置いたティーカップに、なれた手つきでハーブティを注ぐ。少し癖のある香りがシンジの鼻をつく。
 自分のカップにもハーブティを入れ、ナルミはシンジと向かい合わせに座った。
「ナルミさん……。実は」
 ハーブティで口を湿らせたシンジが押し潰したような声を出す。と。
「サインでしょ。その紙袋見たら判るわ」
 シンジを気遣ってか、ナルミが先回りして言った。
「ごめんなさい」
 ほとんど反射的に、シンジはおきまりの台詞がこぼれていた。
「謝ることはないわ。むしろ、私のほうこそ、謝らなくちゃね。シンくん、迷惑だったでしょ? 私のせいで……」
 伏し目がちになるナルミを見て、シンジは慌てた。
「そんな! ナルミさんは全然悪くないんです」
 狼狽えたシンジの態度に、ナルミはくすくすと笑った。
 それを見て、シンジも苦笑いする。
「さて。サインはいつまでに書いたらいいのかしら?」
「なるべく早いほうが……。忙しくなかったら、でいいですけど」
「じゃあ、明日にでもシンくんのマンションに持って行くわ。今直ぐ書くってのも、味気ないものね」
「わざわざ持ってきて貰わなくても……」
「いいのいいの。これで私もシンくんのマンションに行く口実が出来たんだから」
 悪戯っぽく笑ってみせるナルミ。
「有り難うございます。すみませんでした」
 肩の荷はおりたものの、やはり浮かない顔のシンジ。どうしても謝ってしまう。
「もういいって。でも、そんなに気になるなら、私のほうの頼みも聞いて貰えるかな。それで貸し借り無し。それでいいでしょ」
「はい、何でも言って下さい」
 ぱっと顔を輝かせるシンジ。アスカやミサトが相手だと、こんな危ない言葉を口走って厄介な言質を取られると後が恐い。だが、ナルミなら問題は少ない、筈であった。
「……シンくん」
 いつしか、ナルミが真顔になっていた。
「なんですか?」
 引き込まれるように訊ねかえすシンジに、思いがけない問いが投げかけられる。
「シンくんには、好きな人っているのかな?」
「え?」
 言葉を失うシンジ。脳裏では、複数の女性の面影がフラッシュしている。
「どうなの?」
「……多分、いる、と、思います」
 曖昧に言葉を濁す。ナルミは質問の矛先を変えた。
「じゃあ、告白って、したことある?」
 ナルミは真顔で聞いていた。適当にごまかすことは出来そうにない雰囲気があった。
「いえ。そんなこと、したことないです」
 沈黙。
 ナルミの瞳に、シンジの顔が映っている。時間が止まったようかのように二人は動かない。
「……ナルミさん?」
 ナルミは一瞬、思い詰めたような顔をした。そして、意を決したかのように口を開く。
「シンくん。私の恋人になってほしいの」

第四話に続く

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