私本・プリンセスナイン――如月女子高野球部戦記

 3・集結――第一歩、甲子園へ

(1)


 いつまでもグラウンドでぐずぐずしていても仕方がない。そう言い出したのは誰だったか。
 部員達はとても静かに着替えを終え、三々五々帰路につく気にはなれずにいた。明日、理事長に直談判しよう。そういう結論になっていた。
 聖良やヒカル、小春あたりは持ち前の強気だったが、加奈子は同調しながらもあまり楽観的になれない。どうしても自分を責めてしまう。
 あの場面、もっと私のフィールディングが良かったら。捕球から送球に至るまでのタイムラグを縮めることが出来ていたら。
 唇を噛み、学校の敷地内をとぼとぼと歩いていた加奈子はふと足を止め、小さなため息をもらした。
 練習不足は否めない。だからといって、言い訳にはならない。
 半ば読み通りの打球を処理しきれなかったことへの後悔のほうが、よほど勝っていた。
 それは個人のミスにとどまらない。チームが無くなってしまうかもしれないのだ。

 沈痛な面もちであてどもなく学校の敷地をうろつくうち、如月高との境目近くにある公園に足が向いていた。
 黒っぽい雲に遮られた力無い夕焼けを浴び、そよ風に揺らぐ池面は加奈子自身の心象風景であるかのようだった。
 涼がいずみに内野安打を許した。ただそれだけのことで女子野球部が消滅する。その現実感のなさが、彼女に困惑を抱かせていた。
 なんとかなるのだろうか。自分の手で、自分の力で何かが為せるのであれば。そう思い、加奈子はうつむいて再び唇をかむ。
 校長の娘でありながら、その立場を利用することはおろか、むしろ足かせにしかなっていないことに、忸怩たる思いを抱く。
 池を巡る歩道に沿って設置されたベンチの一つに、身体を投げ出すようにして座り込む。膝を抱えるようにして、顔を覆った。
 どのくらい、そうしていただろうか。
 ふと、風に乗って聞こえてくる声に気づき、加奈子は我に返った。
 声のする方に顔を向ける。あ、と思わず息をのむ。
 話しているのは、氷室いずみと高杉宏樹。
 高杉は、いずみと涼の勝負に立ち会っていた。それだけではない。グリップの位置が胸に来るほど低く、テイクバックが小さい彼女のフォームはあきらかに高杉のレベルスイングの影響を色濃く受けている。高杉自身による指導があった、と加奈子は感じていた。
 その二人がいったいなんの話を。加奈子は気づかれないように、足音を忍ばせてそっと近づいた。木陰に身を隠す。

「やっぱり気づいていなかったんだな」
「なんのこと?」
「彼女の投げた四球目。それまでの三球とは、球威もコースも全然違っていた」
「どういう意味よ、それ」
「俺もよく判らないけどね。俺が言えるのは、いずみが打ったのは決して最高の球じゃなかった。そして、いずみはそのことに気づかなかった。その事実だけだ」
「そんな……」
 それまで勝ち誇っていたであろういずみの表情が、見る間に曇った。人一倍プライドの高いいずみにとって、敵に手加減された、否、勝ちを譲ってもらったなど、納得できるはずもない。
「それじゃ、俺はここで。いずみ、これからどうするのか、良く考えた方がいいぜ」
 言い残し、高杉はいずみを残して池に沿った歩道を歩き出した。加奈子の隠れている木陰のほうに近づいてくる。そちらが如月高の野球グランドに向かう方向であることに加奈子は気づいた。が、いまさら逃げ出すわけにもいかず、身体を強ばらせて高杉が通り過ぎてくれるのを待つ。
 高杉は気づかずに歩き去るかに思われた。が、
「あんな変装しなくても試合に出られるようになるといいね」
 と、池のほうを向いたまま言った。
「え、あ……」
 言葉を返しかねて意味のない声をあげる加奈子。
「大丈夫。いずみは野球部を潰させたりしないよ」
 高杉は自信満々に言い切る。
「どうして、そんな」
 加奈子の声は高杉の耳に届かなかったのか、高杉は再び身体を翻してきびきびとした調子で歩み去っていった。
「ふう……」
 胸の鼓動が、まだ収まらない。呼吸を整えるように、息をつく。
 だが、高杉の言葉に勇気を与えられたのも事実だった。自分の力で野球部を存続させる。決意を新たに、加奈子は池の際で立ちつくしていたいずみの前に進み出た。
「いずみさん」
「下手な変装だったわね」
 冷ややかな一言。加奈子は声も出ない。
「……」
 やっぱりバレていたんだ。苦笑いをする余裕もなく、うつむいた。あの状況で、守備に散った選手の様子まで観察しているいずみの冷静さに、改めて内心で舌を巻く。涼に対する感情的なしこりを爆発させているように見えても、その心の中には氷のような冷静さを保ち続けていたのだ。
「そこまでしてやらなきゃいけないほど、野球って楽しいものなの?」
 黙り込んでしまった加奈子に、いずみが言葉を重ねてきた。校長の娘と会長の娘。親の立場の違いそのままに、同級生であるはずの二人の間に存在する地位の格差が浮き彫りになる。
 しかし。加奈子は息を小さく吸い込んでから顔を上げて、言い切った。
「ええ。もちろんよ。私は野球が好き。野球部のみんなも、その気持ちはおなじよ」
 いずみは加奈子の問いに、鼻白んだように顔を背けた。
「私はなれ合いは嫌い。だから団体競技も嫌いなの」
「野球はなれ合いなんかじゃない!」
 立ち止まることなく去っていくいずみの背中に向けられた加奈子の声が、虚しく響いた。

 翌朝。
 部室には、前日話したとおり、理事長への直談判の為に部員達が集まっていた。ただひとり、涼を除いて。
「遅いなあ。なにやってるんや、涼は」
「寝坊だな、こりゃ」
 決意の程を示すため、ユニフォームに着替えながら、ヒカルと聖良が言い合っている。それを横目でみながら、加奈子は涼のショックの大きさを思った。
 ここで野球部が解散になれば、涼の心を救うことは永久に出来なくなるのかも知れない。聖良が前日言ったように、どんな卑怯な手を使ってでも野球部を存続させよう。
 唐突にドアが開かれ、加奈子は我にかえった。一瞬、涼が遅れてやってきたのかと思ったのだ。だが、そこにいたのは、木戸監督だった。
「なんや、監督さんかいな」
 ヒカルも加奈子と同じ思いだったらしく、鼻白む表情で呟く。
「お前ら、理事長の所に直談判にいくつもりか?」
 木戸監督は、そう問うた。
「止めようったって無駄だぜ」
「そうじゃ。ここまできて、簡単には引きさがれん」
 聖良と小春が身を乗り出して木戸監督に鋭い視線を向ける。
「そう慌てるな。俺は、その必要が無くなったと伝えに来ただけだ」
「え?」部員達が一様に呆気にとられた表情になる。
「どうして……」
 木戸監督は、俺もよくわからんが、と前置きした上で、いずみが自ら、野球部解散の約束を取り下げたのだ、と告げた。
「じゃあ、野球部、続けられるんですね!」
 加奈子が目を輝かせ、上擦った声で叫んだ。木戸監督がうなずく。
 途端、黄色い歓声があがり、継いで、急いで涼に知らせないと、という声にとって代わられた。
 そのけたたましい声に包まれながら、加奈子は今度こそ涼を自分達の力で守ってあげないと、と決意をあらたにした。小さく呟く。
「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」

(2)


 明應中学との試合を前日に控え、野球部のグラウンドでは最終調整が行われていた。
「シャクにさわるやんけ。なぁ」
 一塁側のファールグラウンド。ヒカルがユキに向けてぼやきながら、白球を投げる。ユキは無言でそれを捕る。その表情はやはり冴えない……ようには見える。
「なんでアイツらはぶうたれてるんだ?」
 右打席に構えていた聖良が、トスバッティングの球を投げている加奈子――小中多美の変装をしているが――に問うた。
「これのせいよ」
 加奈子が手にしたボールをぽんぽんと手の上で跳ねさせる。
「ボールがどうかしたのか?」
「これ、軟球なの。中学生相手の練習試合だから。軟式でやることになってるの」
「オレはどっちでもかまわねえけどな」
 高校に入ってから野球を始めることになった聖良には、加奈子の言っている意味を理解しながらも、その心情にシンパシーを感じることは無かった。元々、野球に対する情熱など、たいして持ち合わせていない。
 熱心な練習ぶりは、見かけに寄らないまじめさと、生来の負けず嫌い、そして、アスリートとしての能力を持ち合わせた身体が、その発露の場所を求めてうずくから。
「でもせっかく高校生になって硬式にさわれるようになったんだから。相手にあわせてレベル落とすのは、ヒカル達には面白くないんじゃない?」
「つったってよお、オレ達だってこの間高校生になったばっかりだぜ」
「まあ、それはそうなんだけどね」
「それよりもだ」
 聖良は構えていた金属バットを杖がわりに地面に突き立て、グリップエンドの上に右掌を乗せて体重を預けると、あごをしゃくった。
「あいつら、なんとかならねえか?」
 聖良が言う「あいつら」とは、ライトを守る渡嘉敷陽湖と、急遽サードとして試合に参加するマネージャ・毛利寧々のことを指していた。
「陽湖のほうは、小春にカバーしてもらうしか、仕方ないわ。ライトに飛ぶ確率が低いことを頼みにするしか……。サードの寧々は……」
「私に任せろ、か? ご苦労なこった」
 聖良がすこし皮肉っぽく言う。
「私は……」
「良いって。二遊間はオレに任せろ」
 スカウトされた素人の中では、もっとも素質のありそうなのがこの聖良である。純粋な身体能力という点ではチーム随一かも知れない。加奈子は素直に聖良に期待することにした。

(3)


 明應中学戦。
 ヒカルがジャンケンに勝ち、如月女子が後攻をとった。如月女子が守備位置に散る。
「守備には穴があるわ」
 マウンドに向かう涼に、加奈子は言った。特にサードとライトが、とまでは口にしない。
「だから、なるべく三振を多く、よね。判ってる。心配しないで」
 涼は加奈子の言いたいことを理解していた。すこしだけ屈託のある表情で頷く。
 ボール回しで加奈子は寧々とボールをやりとりする。寧々の動きは到底誉められる出来ではない。
 初回。
 加奈子の言葉通り、涼は三者三振を奪う上々の立ち上がり。
 さすが、と思いつつも、加奈子は一抹の不安を覚える。
 明らかに三振を奪いに行く全力投球であった。九回まで体力が保つのか、どうか。
 涼を助けるためにも、回が早い間に得点を挙げねばならない。
 一回裏、如月女子高の攻撃。
「ええ風が吹いとるな」
 ヒカルは、ポールでなびいている如月女子高の校旗に視線を向けてから、小春のほうをみて意味ありげにうなずいた。
 本塁からレフト方向に向けて、時折風速10メートルほどの強風が吹いていた。右打者には有利な風である。
 風に乗せることが出来れば、非力な女性打者でも長打が期待できる。加えて如月女子は涼を除けば右打者が揃う。
「相手は右やが、こりゃ右打ちのほうがええかも知れん」
 ヒカルは言って、ネクストバッターズサークルではバットを右で構えてスイングをはじめた。
 一番打者は、聖良。
 明應中の投手の初球。聖良は強引にバットを振り回した。軟式ボールは金属バットの根本に当たり、どんづまりのゴロとなって三遊間に力無く転がった。
 マウンドを駆け下りたピッチャーが難なく拾い上げ、確実に一塁に送球しようとして、目をむいた。森村の俊足は予想外だった。体勢を崩したまま慌てて投げた球は却って山なりになり、ファーストミットに収まるより先に聖良は一塁ベースを踏んでいた。記録は内野安打。
 続く二番打者はヒカル。スイッチヒッターではあるが、風を計算に入れて右打席に入る。風を気にしながら、ことさらに大振りな素振りをする。
 初球。ストライクを取りに来た球。ヒカルは素早くバットを寝かせた。同時に足は一塁ベース目がけて動き出している。ホームベース上に飛び込むような格好でのセーフティバント。ヒカルの打ち気を警戒していた明應中内野陣は完全に虚をつかれた。
 一塁線側に転がったボールの勢いは絶妙に死んでいた。バットを放り投げてヒカルが走る。
 球を拾い上げたピッチャーは、どこにも投げられず天を仰いだ。
 ノーアウト、一・二塁。理想的な形でチャンスが生まれた。
 小春は動揺した相手投手の棒球を見逃さない。豪快なスイングが炸裂し、打球はあっという間に外野まで駆け抜けていた。俊足を飛ばして聖良がホームベースを踏む。
幸先良く如月女子は先取点を挙げた。しかし、ここでとんでもないブレーキがかかる。
 欠けている三塁手として登録されている寧々が、四番打者としてバッターボックスに入ったのだ。
「なんで寧々が四番なんだ」
 ベンチに戻ってきた聖良が、打ち気満々の寧々を横目に悪態をつく。
 案の定、寧々は初球、スローボールを泳いだスイングでひっかけ、サード前にボールを転がした。サードが自ら三塁ベースを踏み、セカンドに転送。ダブルプレーが完成する。はったりにも何にもならなかった。
 これで明應中の投手が息を吹き返す。ユキは共に凡打に倒れて追加点ならず。
 その後も、寧々と真央、陽湖の打席でつながり欠けた打線がぶつ切りになり、如月女子高は一点止まりで追加点を奪えない。ピッチャーは要所を締めていた。
 対して、涼の球は走っていたが、オーバーペースの感は否めない。立て続けに三振を奪われていた明應中打線だが、次第にボールを捉え始める。とはいえ、まだホップする球の下腹を叩いては凡フライに倒れている。
「いい感じだね」
 ベンチに戻ってきた真央がほっとしたような声を漏らす。
 加奈子は曖昧に頷いた。内心では正反対の事を考えている。
 涼の速球をミットに収めるのが精一杯の真央は気づいていない。涼の球に、明應中打線がバットをあわせ始めていることを。追加点を奪わないと厳しい、そう考える。
 六回表。打球が三塁に飛ぶ。勢いの死んだゴロ。同時に深く守っていた加奈子――小中多美が全力で寧々のバックアップにまわる。
 案の定、腰高に構える寧々は見事なトンネルをしてのけた。が、その球に追いついた加奈子が逆シングルで捕球。間髪入れずに一塁に送球。
 しかし、加奈子の肩では矢のような送球とは言えず、惜しくもランナーのほうが先に一塁ベースを踏んでいた。
 打球は力無くライト方向へ飛んだ。
 ライトが難なくさばける当たりである。ただし、ライトがまともな選手であれば。陽湖は他人事のように打球を見上げているだけ。一歩も動こうとはしない。
 聖良が頭から湯気をたてて怒鳴る。それを聞きながら、センターの小春が行動を起こした。
 ライト寄りに守っていた彼女は脱兎のごとく駆け出していた。だが、いかに小春が健脚を飛ばそうとも、ファールゾーンへと切れていく球に追いつけるものではない。
 幸いにもボールはファウルゾーンで跳ねていた。
「……!」
 声にならないうめき声を漏らしながら、小春はその場に立ちつくしている陽湖に一瞥をくれ、無念そうにセンターの守備位置に戻っていく。
 続く球も外野に飛んだ。陽湖が狙い打ちされることを察して小春がライト寄りに守っていたため、大きく開いた左中間にぽとりと打球が落ちる。小春がかろうじて回り込んでボールを押さえた時には、ランナーは二、三塁となっていた。
「ねらい球を絞ってきたみたいやな」ヒカルが言った。
 自然とマウンドに内野陣が集まっていた。
 加奈子はその顔ぶれを知らず知らずの内に見回していた。
 六人のうち、中学時代に試合の経験があるのはヒカルと自分だけ。
 キャッチャーの真央が「壁」である以上、守備の要である自分が司令塔にならねばならない。加奈子は自らにそう言い聞かせる。元々、押し出しの強いタイプではないことは判っている。しかし、野球に関してまで、引っ込み思案でいて良いはずがない。
「涼……」
 加奈子はここではじめて、「早川さん」ではなく、「涼」と名前を呼んでいた。意識しての事ではなかった。自然と、その名前が口をついていた。
「判ってる。三振を狙って行くから」
 涼は自分に言い聞かせるように二度三度と頷く。
 三振ねらいのピッチングは球数が多くなり、涼の負担は増える。しかも、真央はどうにか涼の速球を捕れるようになったものの、変化球を取り混ぜた配球には到底対応できない。ワンパターンと化したピッチングでどこまで保つか。
 悲痛ささえ感じさせる涼の言葉。加奈子は策を授けることも出来ない己の未熟さを呪った。
 内野手が散った。試合再開。
 続くバッターは、涼がストライクを取りに行ったコースに投げると同時にバットを寝かせた。スクイズ。ヒカルが猛然と突っ込む。
 しかしバットがボールに振れる寸前、右打者はさっとバットを引いた。
 一瞬、目の焦点を狂わされた真央はボールを後逸していた。ボールを見失って慌てている間に、ランナー二人が相次いでホームインする。スコア一−二。如月女子は逆転を許していた。

 続く七回にも二点を奪われ、如月女子は次第に窮地に追い込まれていた。唯一といって良い長打力を誇る三番・小春は、四番・寧々が全く打てないことを初回に読まれて以来、まともに勝負してもらえなくなった。
 加奈子が危惧したとおり、球数の増えた涼は、終盤を迎えてスタミナ切れで球威・制球が目に見えて落ちてきた。
 八回はどうにか凌いだが、九回表はノーアウト満塁のピンチを迎える。
 右打者の内角を衝いたボールは、難なくレフトへと運ばれた。犠牲フライで軽く一点を追加、という力の無い当たりだった。ここで四点差にされれば、逆転の可能性はほぼ絶望になる。
 定位置よりやや深め、ほぼ落下点の位置に守っていたユキが構えた。ボールが吸い込まれるように彼女のグラブに落ちる。タッチアップで各ランナーがスタートする。
 次の瞬間。
 捕球から返球に至るまでのプロセスをはっきりと視認出来た者は皆無だった。捕ったと思った瞬間には返球されていたのだ。しかもその球は低い弾道を描いて正確に真央のミットに飛び込んでいた。
 スライディングの態勢に入る前にボールが戻ってきたため、明應中の三塁ランナーは中途半端にホームに飛び込む格好になった。真央の代わりにホームベースのカバーに入ったヒカルにタッチされてアウト。
「二つ!」
 二塁ランナーが飛び出していることに気づいたヒカルが叫ぶ。だが「二つ」がセカンドを示すテクニカルタームであることを知らない聖良の反応が鈍い。代わって加奈子がセカンドに入る。弾かれたように一旦セカンドに戻りかけていたランナーがサードに向かって走り出す。
(のんびりランダウンプレーなんてやっていられない!)
 咄嗟に加奈子はそう判断した。涼をカバーに走らせるのも忍びなかったし、第一、寧々と聖良ではボロが出かねない。
「寧々、そのままベースについて、グラブを構えて!」
 ボールを持ったまま二塁ランナーを追いつつ、加奈子が寧々に指示を下す。
「はい?」
 訳が判らぬまま、寧々はグラブを差し上げた。グラブの中心を目がけ、加奈子はこれ以上はないという勢いでボールを投じた。
 一目散にサードに突っ込む二塁ランナーを追い抜いたボールが、寧々のグラブに収まる。
 明應中のランナーには、サードが全くの素人だという思いがあったのだろう。それは事実ではあったが、ボールを捕った寧々を前にブレーキが利かず、前のめりになって突っ込んでしまう。
 そこに、寧々がグラブでタッチする。塁審がゆっくりと右手を掲げた。アウト。如月女子は辛くも危機を脱した。

(4)


 九回裏。
 如月女子の攻撃八番・真央からの打順。
負ければ立場がきわめて悪くなり、解散を余儀なくされることすら予想される絶体絶命の状況。ここで如月女子は粘りを見せた。真央、涼が倒れてツーアウト。しかし森村がフォアボールを選ぶとヒカル、小春が連打を浴びせて満塁となした。打順は四番に。
 ネクストバッターズサークルに向かうユキはまったくの無表情。しかし塁上の小春等は苦い顔を隠さない。
 何故ならば、次に打席はいる四番打者は、寧々なのだ。ここまで四打数四三振。
「監督〜」
 寧々が情けない声をあげる。
「どうした、いまさらジタバタしても始まらんだろうが」
「ですけど……」
 寧々が涙目になって左手を掲げる。加奈子が小さく息をのんだ。
「突き指してるんじゃないの!? さっき、私が投げたボール捕ったときに……」
「痛くて痛くて、バットが握れないんですー」
「……万事休す、か」
 木戸監督の言葉に、ベンチの空気が凍り付く。
「――崖っぷちね」
 ぞっとするような冷ややかな声が、涼達に浴びせられた。選手達が一斉にその声のした方向を向く。
 いずみが不機嫌そうな顔で立っていた。それも、如月女子のユニフォーム姿で。
「遅かったな」
 ベンチの部員達が唖然とする中、ひとり木戸監督がにやりとする。いずみは鼻を小さくならしただけで視線を寧々のほうに向ける。
 寧々がその意味を察し、おずおずと差し出したバットをいずみが受け取る。
 加奈子はベンチ裏に寧々を招き寄せ、涼の左肩の為に用意していたクーラーボックスの氷水をビニール袋に収め、寧々の左手を冷やす。
 医者を目指す身だ。この程度の応急治療が出来なくてどうする、と自分に言い聞かせながら、突き指の対処法を頭の中で反芻する。
「あのー」寧々がおずおずと加奈子に尋ねた。「いずみさん、打てるでしょうか」
「普通なら、まず無理」
「そんなあ」
 寧々が泣き顔になる。
「だけど、いずみさんだから」
 常識で推し量れないものを持っている人だから。と、加奈子はそれだけ言って、いずみの挙動に視線を向けた。

 いずみが右打席に入ってバットを構え、一度だけ素振りし、静止する。
 胸元に近いグリップエンドの高さとバットの傾斜。適度に開いた右脇。スクエアなスタンス。その様は、先日よりいっそう高杉のフォームに近くなっていた。しかも、格好を真似ただけでなく、そのフォームによってもたらされる合理的な利点も同時に身につけている。
 行けるかも知れない。加奈子は淡い期待を抱く。誰もが同じ気持ちであることを確信する。
 スタンドに詰めかけた報道陣のざわめきが伝わったか、マウンド上の投手も強敵出現の予感を感じて表情を引き締めている。
 ランナーに形ばかりの警戒の視線を向けてから、セットポジションからボールを投じた。
 いずみがテイクバックし、バットを振り抜いた。
 心地よい金属音。打球は右中間へと飛んだ。如月女子のベンチは総立ちになっていた。
打球は加速するように伸び、風に乗り、フェンスを高々と越えて照明灯を直撃した。
いずみは表情一つ変えず、黙々とダイヤモンドを一周し、戸惑いながらも歓喜の表情を浮かべるナインに出迎えられてホームベースを踏んだ。
「これでよく判ったわ。このチームは、私がいないとこれからも勝てないってことがね」
 涼達の前で、きっぱりとそう言い放つ。
 如月女子高野球部の四番打者・氷室いずみ誕生の瞬間だった。

 ――第四話に続く

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