熱球戦録ヴァルキューレナイン

――プリンセスナイン・プロ野球編


第八話




(1)

 神戸ブルースタジアムでブルーウィングスが敗戦した後、記者会見が行われた。今季の成績不振の責任をとり、綿貫監督が辞任を発表したのだ。打撃コーチであるキャリオン=クーガーが後任となることも同時に発表されていた。
 その騒ぎを横目に、聖良は穂と共に球場を後にした。
 綿貫監督の更迭劇に聖良も興味がない訳ではない。現役時代にブルーウィングスと縁の無かった外様監督だけに、なにかと自由に采配を振るえない葛藤があったことは、その手のどろどろとした駆け引きが大嫌いな聖良にもなんとなく伝わっていた。
 しかし、穂に、「見せたいモノがあるから」と言われては断れない。
 球場のすぐ西にあるブルーウィングスの寮に戻ると、穂は聖良を自室に招き入れた。二人はそれぞれ、さほど広くもないが一応は個室を与えられている。
 散らかし放題の聖良の部屋も女性らしさからはかなりかけ離れているが、穂の部屋はそれに輪をかけて殺風景だった。
 いや、正確に言えば生活空間としては極端になにもないのだ。部屋の中に、穂の個性を感じさせる品はちょっと見渡しただけではまったく目に付かない。
 この部屋に入る度に、聖良は言いようのない違和感を感じるのだった。もちろん、面と向かってそのような事は口に出来ないが。
「それですか、見せたかったものって」
 机の引き出しから取り出した封筒をしげしげと眺めている穂に、聖良は思わず声をかけていた。
「そうよ」
 言って、穂は封筒の表を聖良に見せた。『水沢穂様』と墨字でしっかりと宛名が記されている。
「なんですか? ファンレターって感じじゃないですけど」
「結婚式の招待状。ほら」
「あ」
 複雑そうな穂の顔を見て、さすがに聖良にも誰の結婚式であるかはすぐに判った。穂が恩師と慕う菱谷圭一からの招待状なのだ。
 手渡され、中身を見せられても、聖良には穂にかける言葉が思いつかない。
「……六月末ですか。一応ジューンブライドってことになるか」
 日程を見て苦し紛れの聖良の言葉に、穂はくすりと笑った。
 思わず聖良の頬が赤くなる。
「ガラじゃないって言いたいんですか」
「ごめんごめん。けど、先生はたぶん、日程を調整してくれたんだと思う。その日、ウチのチームは移動日だから」
「ですけど、それじゃああんまりひどいんじゃ。水沢さんの気持ち、知らないはずないのに――」 
「いいの。わたしも先生の子供、見てみたいし」
 憤慨する聖良を穂が首を振ってとめる。あべこべだなと感じながらも、聖良は黙らざるを得ない。
「……そうですか。それなら、いいんですけど」
 歯切れ悪く聖良は応じながら、頭の片隅で露悪的に思う。監督の首をすげかえたところで、今年のペナントレース、もう挽回の目は残っていなさそうだぜ、と。

(2)

 七月の声を聞き、パ・リーグのペナントレースは中盤にさしかかろうとしていた。
 首位はレオパルズで変わらず。一ゲーム差でハーキュリーズが追う。三位ボルテックスはハーキュリーズと四ゲーム差、四位マートレッツはかろうじて勝率五割をキープ、打線に精彩を欠くファランクスが五位と沈み、さらに監督交代後も浮上の兆しをみせないブルーウィングスはじりじりと後退を続けている。

 七月最初の節、浪速ドームでの近畿ボルテックス対神戸ブルーウィングスの三連戦は、ボルテックスの二勝一敗に終わった。
 試合後。
 この日、中宗根は五打数一安打だったが、彼を取り巻く取材陣の数はいつもより多く、また少しばかり雰囲気が異なっていた。
 その日の試合出場により、中宗根がFA権を獲得していたからだ。
 メジャーか、それともセ・リーグか。本人は前回のオリンピックにおいてメダルなしに終わった屈辱を人一倍感じており、なんとか次回に借りを返したいとの思いを前々から口にし、その進路が特に注目されていた。
「まあ、身の振り方はシーズンが終わってから考えます。今は、まだ」
 試合後のインタビューでは、中宗根は当然予想された質問に対し、無難にそう応えていた。

 翌日。ボルテックスは移動日を挟むことなく、再び浪速ドームでファランクスを迎え撃つ。下位チームを確実に叩くことが、追撃態勢を整えるボルテックスにとっては至上命題だ。
 試合前の練習のため、グラウンドに姿を見せた中宗根の表情は硬かった。
 他の選手の誰もがなんとなく気を遣って、彼に言葉をかけづらそうにしている。そんな空気を苦にする風もなく、中宗根は淡々とウォーミングアップを進めていく。
「ちょっと意外でしたわ。中宗根はんは、一も二もなく残留宣言しはるかと思ったのに。けっきょく、どないしますのん」
 打撃練習を行っているゲージの後ろで軽く素振りをしている中宗根の後ろから、吉本ヒカルは臆面もなく尋ねる。このあたりの生来の図太さは、ヒカルはむしろ自分の武器だと自負している。
 髪の毛を金髪に染め、ガラの悪い土建屋のような面構えの中宗根は、お世辞にもあまり知的さを感じさせない。しかし、見かけほど単純な男でないことをヒカルは知っている。
 ただの一選手ではなく、チームの主将としてかつてボルテックスを優勝に導くだけのリーダーシップと、野球に対する熱い思いを胸に秘めている。
「せっかくもらった権利だからな」
 ぶっきらぼうな返事が戻ってくる。
「ほな、使う気はあるんで?」
「おまえはどう思ってるんだ?」
 言って、中宗根が初めてにやりとする。
「どう、って、中宗根はんの好きなようにしはったらええと思いますけど」
「ポジションをヒカルに譲る訳にもいかんしなあ」
 バットを振る手をとめた中宗根が、肉厚の顔をゆがませる。
「ま、そらそうですけど」
「おい、ちょっと耳貸せ」
 中宗根が手招きする。怪訝な顔つきでヒカルが歩み寄る。
「前から考えていたんだがな」
「はい」
「オレのポジションは譲れんが、主将の仕事はおまえに任す」
「は?」
「アクの強いウチのチームをまとめられるヤツはそうおらん。だが、おまえならなんとかやっていけるとオレは思う」
「ちょっと待ってくださいよ、えらいいきなりな話でんな。ウチは高校の時かて、キャプテンなんかやったことはあらへん。それに、ウチよりベテランの人はなんぼでもおってやないですか」
 後ずさったヒカルはあわててそう答えながら、中宗根が前々からなにか言いたげなそぶりをしていた事を思い出す。
 自分の身で手一杯で、なかなか中宗根の考えていることまで気が回らなかったのだ。だが、判っていたからといってなにが出来た訳でもないが。
「年齢だけの問題じゃない。チームを率いていくリーダーシップが必要なんだ。チームのことに目を配ることが、お前自身の糧になる」
 中宗根の言い方に、ヒカルははっとなった。
「ウチは今まで、自分のことしか考えてへん、と言わはる?」
「まあそこまで極端なことは言わないが。チームの潤滑剤として必要な人材だと思うんだよな。女性主将ってのはプロ野球史上初だろう」
「そら、そうですけど」
「せっかく女子プロ野球選手になったのに、めぼしい女子史上初はあらかた持って行かれてるじゃないか。一つぐらいヒカルにも史上初の称号があってもいい」
「……わかりました。明日からは、中宗根はんの一挙手一投足を勉強させてもらいます」
 明確な返事を保留し、本気とも冗談ともつかぬ口振りで、ヒカルは頭をさげた。そして、気づく。主将を託すということは、結局ボルテックスを去るという意味ではないのか、と。
「中宗根はん……」
 顔を上げ、そのことを言いかけたヒカルの言葉を、中宗根が手を振って遮った。なにを聞かれるか、敏感にヒカルの表情から察したのだろう。
「まあ、いずれにしろシーズンが終わってからの話だ。けどな、オレが今の時点でヒカルに話した理由ぐらい、察してくれよ」
「覚悟決めとけ、ちゅうことでんな」
「そういうことだ」
 吹っ切れたような表情を見せた中宗根がゲージに向かっていくのを、ヒカルは割り切れない思いで見送るばかりだった。

(3)

 同じ頃、いずみは久しぶりに自宅で落ち着いた時間を過ごしていた。日程の関係で、ハーキュリーズはこの日、試合が最初から組まれていない。
 九州に本拠を置くチームに在籍しているだけに、いずみはそうそう家には戻ってこられない。関東で試合がある時も、他の選手達とともにホテルに泊まることが多かった。
 新人はそういうものだ、といずみはむしろ自らの判断で自分を律していた。親が恋しい歳でもない、という強情にして微笑ましい意地もあった。
 里帰りが許されたのは、皇監督の計らいによるものだった。
 いや、計らいというよりは、放置しておけばいつまでも練習をし続けるいずみの疲労を考慮して、無理にでもオフ日にしたと評したほうが正確かもしれない。

(疲れた顔は見せないようにしてるつもりだけれど、監督にだけは、隠しようもない……。キャンプの時もそうだった)
 七月の強い日差しが降り注ぐ中、いずみは久しぶりに庭を散歩しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 緩やかなカーブを描いて正門から邸に向かってのびる車道の左右には、一面に様々な花が咲き乱れる色とりどりの花壇があり、板石を敷き詰めた歩道がある。意図的に起伏が作られた芝生を縫うように小川が流れ、豪壮と評して差し支えのない邸宅にふさわしい雰囲気を作り出している。
 それらを眺めるいずみは、人目がないこともあってか、少しばかり集中力の欠けた表情をしている。そのせいもあって、ゆったりとした水色のワンピースを来て庭の小道を歩く様からは、並み居るピッチャーをおそれさせる強打者の片鱗はまったく感じさせない。
 この数ヶ月、いずみは押しも押されもしないハーキュリーズのレギュラーとして、フル出場している。
 誰にも、皇監督に対してすら直接口にしていないが、身体の疲労が抜けきらず、だるさがつきまとうようになっている。
 だが、自分から休ませてほしいなどとは絶対に言うつもりはない。
 自分の一打が、優勝を引き寄せているのだという自負がある。個人スポーツではないとはいえ、レオパルズの沢村翔太と張り合っているからこそ、ハーキュリーズはレオパルズに食い下がっていられるのだと信じていた。
 他人にあまり興味はない。しかし、直接何度か声をかけられた事もあり、沢村翔太という選手のことを、いずみも多少は意識するようになっていた。
 すぐれたスラッガーである事を認めるのにやぶさかではない。やはりプロの世界には、彼のような、野球資質の固まりのような男がいて当然だとさえ思う。
 だが、負けられない。チームの優勝も、個人の成績でも、負けるわけにはいかない。日本シリーズで高杉宏樹と対戦するためにも。
 改めてそう決意するいずみの顔からは、いつしか疲れの色が消えていた。

 お茶の時間になって邸内に戻ると、いずみの母・桂子がスポーツ紙を手にしていた。
 上品な調度品が統一感を醸し出す居間の中で、そのスポーツ紙だけが燦然と違和感を放っていた。
「さっき見たんだけど、オールスター戦のファン投票。三塁手の部門で一位だったのね。監督はきっと、この件をあなたから直々に報告させたかったんじゃないかしら」
 彼女の言葉通り、新聞記事には、オールスターのファン投票における出場選手の一覧が掲載されていた。パ・リーグの三塁手として、いずみは堂々一位で選出されていたのだ。
 日頃、桂子はあまり成績についてとやかく口を挟んではこない。それがこうして喜んでくれるのだからよほどうれしかったのだろうか、といずみはいぶかる。
 正直なところ、あまりオールスター戦に興味はないのだ。その間を休ませてくれるほうがありがたい。
「そんなもの、買ってきたの?」
 いずみは多少の照れもあって眉をひそめるが、桂子は笑って首を振った。
「別に今日だけ特別ってわけじゃないのよ。きちんと購読してるんだから」
「どうして?」
「かわいい娘の活躍が気にならないはずないでしょ?」
「もう。中学の頃にはそんなことしてなかったじゃない」
「自分の手を離れると、よけいに気になるものよ。貴女も母親になってみれば判るわ。でもそれは当分先の話になりそうだけど」
「本当は、休みたいぐらいよ」
 手渡された記事をざっとんだいずみが、ぼそりと呟く。他人には決して見せない本音の表情が、その横顔に浮かんでいる。
「大変なのね。プロ野球選手は」
「判っていたこと。弱音を吐く気はないわ」
 いずみはそう強気に言い返すが、内心では不安が膨らんでいる。短大時代の二年間のブランクは予想以上に大きかったのかもしれない。シーズンを通じて試合に出られないのでは、という不安にいずみは駆られていた。

(4)

 いずみがパリーグの三塁手としてオールスターに参加が決まった一方、涼はファン投票でも監督推薦でも選ばれず、マートレッツからはリリーフエースの大野英とクリーンアップの一角をしめる橘だけがかろうじて監督推薦での出場が決定した。
 パ・リーグにおけるいずみのほかの女子選手としては、ファランクスの沢村翔子も同じく推薦を受けている。
 聖良もヒカルもまた、出場メンバーの中に名を連ねることは出来なかった。
「そう簡単に出場できるもんやったら苦労はせんわ」
 と、その日の晩、ブルーウィングスの試合結果をそっちのけにして悔しがる聖良から携帯に電話をもらったヒカルは苦笑いだ。
 ヒカルがいるのはボルテックスの独身寮の自室だ。Tシャツにショートパンツという出で立ちで携帯電話を手に、ベッドにだらしなく寝転がって天井を仰いでいる。
『だけどよ……』
「神戸からは滝さんが出たら、あとはお呼びやないんやろ」
『くっ、痛いところをはっきりと突く奴だな。はいはい、確かにオレ達のチームで知名度があるのは今は滝さんぐらいだよ。で、どうする。観に行かねえか?』
 さばさばとした口調で毒づいた聖良が本題を切り出す。
「ウチはチケットもっとらんけど、手に入るアテがあったら、なんとかしたいところやなぁ。せっかくいずみが出るんやし」
 乗り気なヒカルの口振りに、聖良が意気込んだ。
『だろ? どうせなら、同窓会にしようぜ。涼だけじゃなくて、ほかの連中にも声かけてさ』
「あー。ええ考えかもしらんけど、涼は無理やな。フレッシュオールスターに選ばれとる」
 ヒカルは眉間に軽くしわを寄せながら応じた。
 フレッシュオールスターとは、オールスターに先だって前年入団したルーキーを中心とした若手選手を中心に選抜されて行われる試合であり、出場選手メンバーは四月のうちにすでに決定されている。
『あれの試合ってオールスターの前の日だろ。なんとかなるんじゃないか』
「無理言うたるな。だいたい、ウチがこんな話しとる時点で暢気すぎる。涼はそんな気にならんやろ。ウチらの中で、いま一番苦しいんは涼やろうし」
『そう思い詰めたもんでもねぇと思うけどな……。いや、まあ、涼といずみの仲ってのはよくわかんねえところもあるし』
 聖良も納得したわけではないが、それ以上は食い下がることもなかった。

(5)

 涼はひとり、父の墓の前に来ていた。
 線香をあげ、花を手向けた後も、しばらくの間、じっと墓石を見つめたまま立ちつくしている。
 柳葉や黒辺の言葉、そして沢村翔子のアドバイスを脳裏によぎらせながら、自分に新しい魔球を身につけることが出来るのか、考え続けていた。 
 ふいに山の向こうから姿を現したヘリが爆音を立てながら低空を飛び抜け、涼の意識を現実に引き戻した。
 ヘリコプターの上部で高速で回転するローターの残像に目を奪われる。

 ――ボールの回転軸を二つ持つ変化球。
 ――プロペラ機のような回転軸そのものを変化させる球。
 ――回転の向きをプロペラ機じゃなくて、ヘリコプターにしてみたら? ヘリコプターのように浮き上がる変化をみせるだろうか。

 ややあって、涼はため息をつきながら首を左右に振る。
「……それだけじゃダメなんだよなぁ。浮き上がるだけの変化球を投げるぐらいなら、まだ落ちる球を覚えたほうがいいんだし」 
 ぼんやりとわき上がってきたイメージをつかみかね、涼は跳び去っていくヘリコプターの後ろ姿をいつまでも見送り続けていた。 

 涼が家に戻ったのは、陽がずいぶんと西に傾いてからだった。気分を切り替えるように両頬を軽く叩き、店のほうに出る。
 とたんに、わっと声があがった。
 思いがけず、なつかしい面々が顔をそろえていた。如月女子高時代の仲間達のうち、大学に通っている堀田小春、三田加奈子、大道寺真央、毛利寧々だ。
「みんな、どうしたの?」
「昨日はすまんかったな。都合が付けば観にいくつもりじゃったが。今日はせめてもの罪滅ぼしじゃ」
 小春がしかめ面になりながら、歯切れ悪く言った。
「ああ、いいよ別に。どう取り繕ったって二軍選手がメインのオールスターじゃ、自慢にならないよ」
 涼もはにかみながら首を振った。志乃に促され、カウンターから出て小春達の座る席に移動する。
「そんなことないよ。昨日もちゃんと二イニング無失点で抑えてるんだし。涼は充分私たちの自慢よ」
 加奈子がそう言いながら椅子を引いてくれた。涼は「ありがと」と応じて腰を下ろす。
「これからの後半戦で、がんばればいいよ」
 向かいに座る真央が口を添える。うん、うん、と涼は何度もうなずいた。親友達の暖かさがうれしかった。
「今日はオールスター戦をみなさんでテレビ観戦ですぅ」
 寧々の言葉に、涼はちらりと壁のテレビに視線を向けた。
「結局、出られたのはいずみさんだけかぁ。聖良とヒカル、残念だったね」
 真央がため息混じりに首を振る。
「二人とも不動のレギュラーって訳じゃないからね。投票用紙に名前が印刷されてないと、やっぱりちょっと苦しいよ」
「来年こそは、ね」
「うん」
 加奈子からの熱い視線を受け、それに応じてうなずきながらも、涼の頭の中には、新しい魔球の構想がとりとめもなくうずまき続けていた。


――第九話に続く

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