仮想プリンセスナイン

  もし、対明應中学戦直後に早川英彦の八百長疑惑問題が取り沙汰されていたら?

 はじめに

 早川涼に臨大附属戦直後に突如としてふりかかってきた亡き父・英彦の過去の疑惑。実に曖昧な決着しか得られなかった事はともかくとして、その事実がマスコミの目にとまったのは、臨大附属戦においての涼のピッチングに英彦の姿をかいま見た古株の報道陣が居た為である。
 逆に言えば、その事実が発覚する可能性は、臨大附戦に先だって行われた明應中学戦においても存在していたと考えられるであろう。
 いまだ女子チームの甲子園大会参加が許可されていない状況でのスキャンダルは、状況をより深刻なものにしたはずである。本作では、『魔球投手・早川涼』抜きを余儀なくされた如月女子高野球部の戦いを描く。


『機密投手・東』



<主な登場人物>()内は原作における地位。記述がない場合、原作も同様。★印はアニメ版では登場しないキャラクタ。

 東ユキ  如月女子高野球部ピッチャー(同レフト)
 早川涼  如月女子高野球部レフト(同ピッチャー)
 木戸晋作 (同監督)
 氷室桂子 (如月女子高理事長)

日下まこと 大和スポーツ記者



 明應中学野球部との練習試合は、実に絵に描いたような劇的な幕切れとなった。
 代打として氷室いずみが颯爽と登場し、期待に応えて打球を右中間後方にそびえる照明灯に命中させたのである。文句の付けようがない代打逆転サヨナラ満塁ホームランであった。この光景を目の当たりにして、それまで興味本位としか表現しようのない態度で観戦していた記者連中が色めき立った。
「あのお嬢さん、一体どういう風の吹き回しだ?」
 試合を終えたいずみの元に記者が走る。が、マスコミ慣れしたいずみは大したコメントも残さないまま立ち去ってしまった。代わりに、矛先を向ける相手として、いずみの母親にして如月女子高の理事長・氷室桂子が選ばれた。
 親として、理事長として、いずみの取った態度に対するコメントを欲していたのだ。それが肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、なんらかの形でネタになる。彼らはそう踏んでいる。
 が、桂子自身も驚き、困惑していた。彼女のプランに、いずみは存在していなかった。
 だが、先ほどの打撃を見せつけられれば、心は揺らぐ。第一、いずみが自らの判断で行った行為を否定するような真似は出来ない。
 桂子もまた、記者共をあしらう術は心得ていた。いかにも率直な態度で困惑ぶりを露わにし、その上でいずみの判断を尊重するという良き母親の顔もみせて納得させる。
 が、興味の向けられる対象はいずみが全てではなかった。
「良いピッチャーですね」
 取材を終えた記者が早速それを記事にしようと姿を消していく中、女性記者の一人がふいにそう問うた。
「ええ。彼女がいるから、甲子園を目指すと言っても過言ではないわ」
「なるほど。早川英彦の才能を色濃く受け継いでいるようにみえますね」
 早川英彦。その名前が女性記者の口から漏れた瞬間、居合わせた記者の数名が顔色を変えた。桂子もまた眉を寄せている。
「どうして、それを……?」
「特に隠していた訳ではないでしょう? ただ、理事長は余りに人が善すぎる……」女性記者の口調には詰問というより侮蔑の響きが多分に混じっていた。「早川英彦の娘がマウンドに立つ。それは私達マスコミの目にとっては、刺激的な話題に過ぎるのです。その辺り、どうお考えですか?」
 記者達がざわめく。
「……貴女は?」
「大和スポーツの日下です。まだ駆け出しですが、早川英彦の事件に関しては学生の頃から興味を持って調べているんです」
 その落ち着いた口調に、桂子は安易な言い逃れが出来ないことを悟った。元々、隠し立てするつもりもなかったのだ。桂子は記者達を前に、ありのままを語った。
 かくして早川涼が早川英彦の娘である事実は、早々にしてマスコミの知るところとなった。計算高い桂子が見せたこの誤算は、思いがけない展開を招くこととなる。



 翌日。放課後。
「なんでぇ、これは」
 如月女子高野球部部室。森村聖良がふてくされたような声を挙げて、買い込んできた各種新聞を机の上に荒っぽく放り出す。
「載ってないんか? 如月女子高初勝利の記事? 結構な数の記者が来とったと思ったんやがな……」
 吉本ヒカルも又、つまらなさそうな声を出す。
「載ってることは載ってるわよ」そう言葉を挟んできたのは渡嘉敷陽湖だった。だが、その表情はよそよそしく、声には棘がある。「だけど……」
 その時、部室のドアが開いて、早川涼が愛想笑いのようなものを口元に浮かべて入ってきた。
「どないした、涼? 遅かったやないけ」
「えっと、それが――」
「どうせマスコミに捕まってたんでしょ?」
 渡嘉敷の声が涼の言葉を遮る。渡嘉敷は新聞の一誌を手にしていた。記事を指さす。
「”幻の名投手・早川英彦の娘が、父の立った甲子園のマウンドを目指して奮闘”。泣かせるわよねえ」
 声音には皮肉が詰まっている。
「私も全然知らなかったんだ。本当よ。お母さん、全然教えてくれなかったし……」
 涼は心底困り果てた顔になる。感情の起伏がかなり激しい。精神的な不安定さが露呈していた。
「こっちの記事はそんなに好意的じゃないぜ」森村が口をとがらせる。「早川英彦投手は八百長試合に関与して球界を永久追放になったと書いてある。その子供、しかも女が高校野球のマウンドに立つ。えらい非難ぶりだぜ」
「うん、それも初めて聞いて。お父さんが八百長なんて、どう言って良いのか判らなくて……」
 消え入りそうな小さな声。肩を落とした涼がうつむく。
「……わりぃ」
 森村にしても、涼を責めているつもりはなかったのだ。ただ、自分たちの勝利を伝える筈の記事が、こんな形になってしまったことに憤っていただけなのだ。
 誰もが、発するべき言葉を思いつけずに、重い沈黙が室内に満ちた。
 と、その時。木戸晋作監督が部室に顔を覗かせた。しかめ面に近い顔つきだが、迷いは感じられない。
 状況打開を期待する部員達の目が木戸に注がれる。なによりも涼がそれを望んでいた。何もかも信じられなくなりつつある状態で、監督しか頼れる存在が居なかった。
が。
「東、ちょっと来いや」木戸が思いも掛けない名前を挙げ、手招きする。
「……はい」
 声は落ち着いているが、やはりどこかに消しきれない不安・不審の念が響きに混じる。
 それ以上に、他の部員達は鼻白んでいた。やはり木戸監督は頼りにならない。部員達は視線を交わしあうだけで、その事実を確認する事が出来た。

 グラウンドには物見高いマスコミや如月女子高の生徒が集まっていて、野球部の練習を待ちかまえている。その目を避けるようにして、木戸は東を、如月女子高の敷地の片隅にある、未整備の雑木林跡まで連れていった。
「ここまで来れば、人目にも付かないな」
 木戸はそうひとりごちて、半ば朽ち始めている木の切り株の上に腰を下ろした。東は無言で木戸の言葉を待っている。その表情には、一切の感情が現れていない。
「東。お前の強肩に期待したい」
 木戸がそう切り出す。
「期待……。何を」
「今、早川は精神的にも、立場的にも不安定な状態にある。無論、お前達全員で支えてやらねばなるまい。だが、どう転ぶにせよ、しばらくはほとぼりが冷めないかも知れない。そんな状態で、早川をマウンドに立たせるのは酷過ぎる」
 特に、早川英彦と同じ左腕投手となれば、いやでもマスコミは父娘をオーバーラップさせて書きたがる。それは父の潔白を実感を伴って信じる事の出来ない涼にとって、決して心地よい状況ではない。
 東は木戸の言葉を理解し、頷いた。それをみて木戸が言葉を継ぐ。
「無論、戦力としての早川をここ一番の切り札として温存するってな感じで、戦術面でも幅が出る」
「つまり」さすがの東も木戸の言い出した話に驚きを隠せない。
「そうだ、東。ピッチャーをやってくれ。理事長の話によれば、男子の強豪校相手の練習試合を組み、その試合に勝てば地区大会出場の権利が貰えるということだからな。負ける訳にはいかない」
「どうして私が投手を?」
 戸惑いの色を澄んだ目に浮かべて東が尋ねる。当然の疑問だった。地肩の強さだけなら森村も相当なものを持っている。
「お前の過去については、一通りの調査報告書を読ませてもらっている」
 木戸の言葉に、東はわずかに目を伏せて顔色を曇らせる。
 東は中学時代、軟式野球では全国レベルの力量の持ち主だった。彼女が率いるチームは全国大会まで駒を進めていたが、ある意味では彼女だけの一枚看板チームという側面があった。
 東自身は、懸命にチームを率い、自らもその先陣を切って試合に臨んでいるつもりだった。だが、あまりにも技術差がありすぎた為か、選手達は東に対して敬意を払うよりもむしろ妬んだ。
 東も又、己の力量に裏打ちされた自信に満ちた言動で部員達の不満をねじ伏せるには、余りにも心根が優しすぎた。目に見えないほどの小さな反抗的な態度は、いつしか本格的ないじめへと変貌を遂げていた。
 彼女は真面目すぎたが故に逃げ場を失い、自殺未遂を起こすところまで追いつめられていた。
 肌身はなさず持ち歩いている人形”フィーフィーちゃん”にしか心を許さないその姿が、胸の奥に残る痛みの大きさを教えていた。
 木戸は東の表情の変化を横目に見ながら、言葉を続ける。
「何があったのか、当事者でない俺には本当の事は判らん。だが、野球そのものを嫌悪しても仕方のない状況を経験してもなお、東は野球特待生の肩書きで入部してきた。その勇気とガッツを信じたい」
 東が、はっとなって顔を上げる。勇気。ガッツ。全く自分には無縁と思われていた言葉を与えられ、混乱していた。
「早川を、いや、女子野球部全員を救うことになる。やってくれないか」
「……判りました」
 東は、木戸でさえ思いも掛けないほど、はっきりとした口調で即答していた。自分に本当に勇気やガッツといったものが存在しているのか、この場で確かめたいといわんばかりの顔つきになっていた。



 涼の父親の話題が先行してしまった為、如月女子高野球部の高体連加盟問題は桂子の筋書き通りには進まなかった。
 それでも、涼の力量を知りたいマスコミの鼻息の荒さを上手く利用して、臨海大附属高との練習試合に勝利すれば地区大会参加を認める、という言質を取り付ける辺りは生来のしたたかさの発揮であった。

 臨海大学附属校戦。
 噂の女子チーム、なかでもスキャンダラスな話題を振りまいていた早川涼を見ようと、ただの練習試合にもかかわらず、球場には結構な数の観客が足を運んでいた。
 だが彼らは、如月女子高のマウンドに登るのが涼ではなく、彼らにとってなんの予備知識も持たない右腕投手であることに、失望の色を隠さなかった。
 早川涼は九番・レフトという目立たないポジションに存在する一選手でしか無かった。亡き父・英彦の陰を背負って奮闘する少女投手、という構図を期待する観客やマスコミにとっては拍子抜けも良いところであった。
 それは対戦相手の臨大附も同様であるらしく、ベンチ前で指示を飛ばす淀橋監督は表情に余裕さえ垣間見せる。
 しかし、その余裕は一回表、東が臨大附打線に対して真っ向から闘いを挑むと同時に消え失せていた。
 速い。東のモーションは大きな力感あふれるものではなく、腰高な野手投げにも関わらず、速い。しかも唸りを立てて飛び込んできたボールは、ストライクゾーンのコーナーを確実に削り取っている。
 球を受ける大道寺真央は、涼とは球筋も球質も全く違うものであることを知り、少なからず驚いていた。
 涼の球が重く、腹に堪える破壊力を秘めていると評するなら、東の球は鋭く、グラブを突き抜けそうな感触があった。回転の質が異なっているのだ。
 それでいて、東の球はストレートであっても手元で微妙に変化するクセ球だった。ムービング・ファーストボールと呼ばれる球種である。三振の数こそ少ないが、臨大附打線はバットの芯を外され、面白いように凡打の山を築く。
 対して一回裏、如月女子高は木戸監督提唱の”オンナノコ作戦”で首尾良く二点を奪った。そして、その二点を東の好投によって最後まで守りきり、勝利したのである。
「俺の目に狂いは無かった。さすが、俺」
 そう言って胸を張る木戸監督。部員達は呆れながらも、その卓見を多少は認めざるを得なかった。
 そんな中、涼一人が重く沈んだ顔をしていた事に、気づいた者はいなかった。



「如月女子高・東投手、強豪臨大附打線を零封」
 そのインパクトは、ある意味で早川英彦のスキャンダル絡みで如月女子高野球部や氷室桂子、あるいは涼自身に対しての批判的な声を掻き消すほどのものがあった。
 東ユキとは一体何者か。マスコミの目が一斉にそちらに向き、スキャンダル禍は自然消滅していった。
 だが、東に対する注目度の高まりは、木戸監督にとって想像の範囲内の出来事でしか無かった。今度は涼の時のような無防備さは許されなかった。
 彼はあらかじめ桂子と打ち合わせ、東に関する一切の情報提供を拒否する構えを貫くことにしていた。いまここで、東を取材攻勢に晒すのは余りに危険すぎた。それに、桂子も涼の一件でマスコミに懲りていた節があった。
 一度方針が決まってしまえば、桂子による情報封鎖は徹底的であった。
 取材が思うに任せないマスコミの一部は、東の過去をさかのぼって調査しようと、東の出身地へと足を向けていた。
 だが、東の中学当時のチームメイトは一様に東の活躍ぶりを聞くと顔色を変え、逃げるように去ってしまう。彼女たちが、いじめの事実を知られる事に怯えていたなどとは、スポーツ記者には想像の埒外にあった。
 結局、なんら成果を挙げられなかった記者の一人が悔しげに呟く。
「なんでこんな分厚い秘密のベールに覆われているんだ? まるで秘密・機密の塊、機密投手じゃないか」
 それ以来、東には”機密投手”という風変わりな二つ名が与えられることになる。



 涼は、己の存在が軽くなっていくのを感じていた。
 それはわずらわしいマスコミに追われなくなったからではない。
 東の存在が急激にクローズアップされた結果、本来自分の所へ向かっていた筈の取材が東に向けられている。それを単純に喜んでよいかどうか難しいところではあったが、同時に野球部の中での評価も微妙に変化しつつあることを涼は悟っている。
 もはや、如月女子高にピッチャーは一人だけではなくなったのである。それだけ涼の価値は相対的に低下している。涼自身はそう思いこむようになっていた。
 その裏には、果たして自分が投げていたら、臨大附を押さえ込むことが出来ていたのか、答えの出しようのない疑問が潜んでいた。
 臨大附戦勝利を決定づけたのは、東がピンチに立たされても全く動じない投球ぶりをみせた事と、球数が多くなっても、その外見からは想像付かないほどのタフさを発揮して球威を衰えさせなかった事だったからである。どちらも涼にはやや欠けている要素だった。
 涼は自分でも知らず知らずの内に、手ひどい疎外感を抱いて孤立するようになっていた。チームメイトがその事に気づかず、真のエースは涼一人、という態度を崩さずに接してくれるのが一層彼女を傷つけていた。
 懸命に投球練習に打ち込むが、一度まばゆく輝いた東の陰に隠れるような形になってしまう。
「お父さん……。私、これからどうしたらいいんだろう……」
 やりきれず、涼はある日の早朝に私鉄電車に飛び乗り、あてもなく揺られていった。
 たどり着いたのは、早川英彦が若き頃、よくトレーニングに訪れていたという街だった。
 そこで、涼は英彦が定期的に顔を出していた孤児院の存在を知る。父親の匂いを感じたくて結局その日のうちに帰りそびれた涼は、孤児院で一晩泊めて貰うことにする。
 ところが、宵のうちから次第に天候が崩れだし、局地的な豪雨を降らせ始めていた。
 子供が行方不明だという知らせを受け、孤児院の先生である桜井が、雨合羽にヘルメット、懐中電灯という完全装備で斜めに雨の降り注ぐ戸外に飛び出す。
 残され、留守番役を仰せつかっていた涼の元に、半泣きになった子供が二人駆け寄ってくる。聞けば、川の中州に行方不明とされている子供が取り残されているという。
 涼は思いも寄らない一大事に身体に緊張が走るのを感じたが、同時に不謹慎だと感じながらも、失地回復の機会が来た、と思う。
 とにかく、自分にも何か出来ることがあると感じるのは悪いことではない。そう考えた涼は取るものもとりあえず、子供達に連れられて川沿いの歩道を走って取り残された子供達を捜す。
 視界が効かないために手間取ったが、やがて中州と、その中央で抱き合って震えている子供二人を視野に収める。雨脚は依然変化が無いが、川の水位は刻々と増している。一刻の猶予もなかった。
 なんとしても助けねば。その一念で涼は川に飛び込む。自分が役に立つ人間であることを証明したくて焦っているとは、自分ではまるで気づいていない。
 河岸と中州とを泳いで二往復して、子供二人を河岸に無事連れ帰る。だが想像以上に冷たい川の水が、涼の体力を奪っていた。子供二人の無事を確かめると、涼は半ば川に浸かったまま、ゆっくりと意識を喪っていった。

 桜井以下、子供を捜して回っていた人々によって涼は発見され、ただちに病院へと担ぎ込まれていた。
 知らせを聞いて駆けつけてきた如月女子高野球部部員達の祈りの甲斐あってか、涼は一命を取り留めたが、「何故こんなところに居たのか」という問いには最後まで沈黙を貫き通していた。いつしか目に見えない壁が、涼と部員達の間に出来ていた。



 涼は危篤状態に陥った後の体力回復に不安があるとして、大事をとって夏合宿には参加しないことになった。木戸監督の判断だったが、涼もまたそれをあっさりと了承していた。
 が、納得しなかったものもいる。木戸監督は桂子の詰問を受ける羽目になっていた。
 理事長室。
 執務机の上に両肘をつき、両手を口元を隠すような位置で組んでいる桂子の表情はいつになく険しい。
「どうして彼女を合宿に連れていかないのか、説明して貰えないかしら」
「純粋に体力的な問題。病み上がりの身体にはハードな夏合宿は苦しい」
 上質なソファに身体を投げ出している木戸は、投げ遣りな口調で応じた。
「だけど、夏合宿に参加しないということは、地区予選大会にも出場しないという意味じゃなくて?」
「そうとも言うかな」木戸が上半身を起こした。「いずれにせよ、早川をマウンドに送れば、またぞろマスコミが騒ぐ。英彦の件にカタを付けられないうちは、少なくとも投手として使うのはどうかと思いますがね」
「つまり、そちらの件は私のほうでなんとかしろってことね」桂子が眉を寄せた。可能な限りの再調査を行うつもりだ、と言葉をつけ加える。彼女の脳裏には、日下と名乗った女性記者の姿があった。うまく利用できるかも知れない、との思いがある。
「で? 他にもまだあるんでしょう?」桂子は英彦の問題を一旦棚上げして、木戸の話の先を続けさせた。
「ええ。有り体に言って、早川が抜ければ部員が足りなくなる。補充メンバーが欲しいもんです」
「その件はいずみからも聞いているわ。臨大附戦の快勝を見て、ウチの生徒の中にも入部希望者が居るみたいだし、候補者をリストアップしておくわ」
「ありがたい。これで戦える」木戸が正直に相好を崩す。
「東ユキを中核として?」
「まあ、そうなりますかね」
 木戸の言葉に、桂子は小さく吐息を漏らした。元はといえば、甲子園で投げる涼の姿を見たいという欲求が、如月女子高に野球部を作る原動力となっていたのだ。それがいつの間に、涼抜きで野球部を動かす事になってしまったのか。
「諦めるのはまだ早いな、理事長」木戸が桂子の内心を見透かしたような声音で言った。
「どういう意味かしら?」
「あんたの夢は、早川涼が甲子園で投げること、だ。予選で投げる姿を見るつもりは端っから無いんだろう? 今の戦力で甲子園行きの切符を手に入れて、甲子園では早川が投げる。それならば約束違反にはなるまい」
 木戸は、不思議なまでに自信ありげに言い切った。



 涼を欠いたものの、夏合宿は滞りなく終了した。
 いずみがやや精彩を欠いている他は、それぞれが自信を深めている様子で、地区大会一回戦・対堀高義塾戦を迎えていた。
 女子チームの公式戦初試合とあって観客は満員。だが、彼らは早川涼を観に来ているのではない。新聞誌上で名前と写真だけがかろうじて情報として漏れ聞こえてくる謎に包まれた投手・東の正体を見極めたいと考え、足を運んでいるのだ。
 東に代わり、レフトの守備位置に入るのは涼ではなく、合宿の際に合流した補充のメンバー。背番号10を付けている。いずみが桂子に頼み込み、特待生扱いの特典を条件に、体育会系クラブの中から選りすぐった選手だった。
 涼の代役、という形ではあったが、幸いにして新部員は人当たりも良く、懸念したようなチームワークの乱れにはつながっていない。東ほどの強肩では無かったが、少なくとも体育会系クラブ出身で身体はある程度出来ており、練習も熱心ですぐにチームにとけ込んでいた。
 それに伴い、打順も変更が加えられている。元々クリーンアップの一角を占めていた東は、ピッチングだけでなく、攻撃力としても期待されていた。しかし、負担を軽減する目的で六番に下がり、五番に三田が繰り上がっていた。涼に代わる補充部員は打力がそこそこであった為に七番を任され、バッティングに期待の持てない渡嘉敷、大道寺の二人がそれぞれ八番、九番に下がっていた。
「どっちつかずな形になってしまうが、どうしても打線に不安が残る以上、打撃のほうでも頑張って貰うより無い」
 木戸の言葉。だが、もとより東に異論など無かった。

 一回表。先攻の堀高義塾打線と相対した東は、簡単に三者凡退に切って取った。涼のように剛球でねじ伏せるピッチングではない。内角で身体を起こさせてから、外角いっぱいに針の穴を通すコントロールで投げ込む変化球を引っかけさせるような、頭脳的な配球を見せていた。
「大したことねえな」
 森村が堀高義塾の打線と、マウンド上でウォーミングアップを始めている堀高義塾の背番号1・矢野の球威を同時に一言で評する。
「油断したらあかんで」吉本が言った。「相手はラフプレイをお家芸にしてるんやさかいにな」
「喧嘩する気なら、受けて立ってやるさ」
 森村は不敵な言葉を残して右打席に入った。
 矢野が神妙な顔つきから、初球を投じる。
「!」
 悲鳴が上がった。声を挙げたのは如月女子ベンチの誰かか、それとも森村自身か。余りに確信的な軌道を描いて自分めがけて飛来するボールに、森村は咄嗟に避けきれないと判断し、それを背中――左肩胛骨の上で受けていた。腹や頭部に当たるよりはダメージが深くないが、それでも森村はのけぞるようにして倒れ込んだ。
 緊張が走る。次打者の吉本が、ウェイティングバッターズサークルから飛び出して森村に駆け寄る。
「大丈夫かいな!?」
「ちっきしょ〜、わざとやりやがった」
 森村が肉食獣の目つきでマウンドの矢野を睨む。矢野は大げさでわざとらしい身振りで帽子を取って頭を下げていた。
「熱くなるなや、聖良。相手の思うつぼやで」
 吉本が懸命になだめて森村を一塁ベースに送り出し、自らは続いて右打席に入る。
「なめたらあかんで」
 ここで死球を恐れて腰を引いてホームベースから離れて立ったのでは策にはまる。吉本は強気でベース寄りに踏み出していた。
「投げられるもんやったら投げてみい、ちゅうねん」
 が、矢野は吉本の捨て身の覚悟をあざ笑うかのように、またも内角高めに大きくはずれるボール球を投げ込む。吉本は危うく身をよじってかわした。
が、既に相手のペースになっていた。外角に逃げるか、内角を衝いてくるか。狙いが絞りきれずに迷いが出る。結果、難しい内角球を無理に裁こうとして凡ゴロを放ち、ダブルプレーになってしまう。
 後続の堀田といずみに対しては敬遠気味の四球。繰り上がりで五番に入っている三田に対しても悪意に満ちた内角攻め。吉本ほど向こうっ気の強くない三田は死球を恐れて腰がひけ、外角球を引っかけて凡退した。

 二回表。
 東が掘高義塾の四番打者を迎える。
 矢野の内角攻めに対して、東がどんな配球を見せるのか。固唾を呑む観客の前に、東は当然のように内角高めに速球を投げ込んでいた。四番打者が慌てて打席を飛び退いて尻餅をつく。
 唖然とした表情でマウンド上を見上げる四番打者。その顔が恐怖に強ばる。
 目深に帽子をかぶっている為に観客からは見えないが、東ははっきりと笑みを浮かべていたのだった。
 やられたら、やりかえす。中学時代にそれが出来ずに一人苦悶していた東の姿はそこには無かった。仲間を守るため、チームの勝利のため、そして、自分自身に決着を付けるため、東は笑顔でブラッシュボールを投げられるまでに覚悟を固めていたのだった。”フィーフィーちゃん”の力は、もはや必要ではなかった。

 その後――

 球場には、準々決勝、如月女子高対如月高の激闘の余韻が残っていた。
 スコアボードに記された得点経過が、両チームの善戦と健闘を如実に物語っていた。スコア二対一。延長一二回の末に東から決勝のサヨナラホームランを放ったのは、如月高の四番・高杉宏樹であった。
「惜しかったですね」
 女性記者・日下が桂子にそう言葉を掛ける。他に記者の姿は無い。高杉や如月高監督、あるいは東やいずみの元に取材に走っている事もあるが、桂子が特別に彼女だけは自らの側に近づくことを許可しているからだ。今後、彼女には高杉英彦の八百長問題に関して、徹底的な調査を行って貰うつもりである。
「早川投手を投入できていたら――」
「それは言っても仕方ないわ」桂子が日下の言葉を遮った。「むしろ、急造の東投手がここまで頑張ってくれたことを評価したいわね」

 ベンチ裏通路。善戦空しく敗れた如月女子高の選手達が、疲れ切った、それでいてどこかさばさばした表情で帰りのバスに向けて歩く。その中には取材陣相手に適当な言葉を並べ立てて追い払った木戸監督の姿も共にある。
「残念な結果だったけど、私達、頑張りましたよね……」
 大道寺の救いを求めるような言葉。木戸監督は難しい顔つきのまま、「ああ」と頷いた。
「秋からは、涼も戻って来れますよね?」と三田。
「せや。涼が戻ってきたら、投手陣は二枚看板や。左の涼に右のユキ。エースが二人もおったら如月高相手にも負けん」
 吉本は敗戦のショックから速くも立ち直り、鼻息も荒い。戦力的にベストでない状態でありながら準々決勝まで勝ち上がったという自信に裏打ちされた強気の発言だった。
「……」
 だが、木戸監督の表情は冴えない。
 果たして、涼は本当に戻ってくるのか。それ以前に、東がすんなりマウンドを涼に譲るのか、確信が持てないでいたのだ。
 広いグラウンドの中で、たった一カ所だけ盛り上がり、周囲を睥睨するマウンド。投手はそのマウンドの支配者であり、同時にゲームの進行を自らの意思で支配出来る存在なのだ。
 東はその快感を知ってしまった。それなりの実績も上げている。少なくとも、今の如月女子高は涼のワンマンチームでは無くなっている。
(さっさと戻ってこい、早川。でないと、本当にお前の居場所が無くなっちまうぞ)
 木戸の目には、如月女子高の歩む先に荒れ狂う波の姿が見えていた。

(おわり)


 あとがき

 前作とネタがかぶってしまってるので、少々目新しさに欠けるかも知れません……m(_ _)m。
 ただ、私の中には前作で示唆した「急造投手としてマウンドに立つ東」というのをもう一度描写して見たかった事もあり、こういうお話になりました。
 タイトルはまたも仮想戦記のパロディ(当初案は『機密打者早川』で、語呂の関係から変更になり、それに伴ってプロットも大幅に変わりました(笑))ですが、ストーリー的共通項は皆無に近いです(笑)。
 野手(打者)が投手となって戦う、というのはいかにも劇画的で現実性が薄いのですが、球史をひもといてみると、打撃が得意な投手というのは意外と多いわけで、その逆に投球が得意な打者がいてもおかしくはないんじゃないかな、などと勝手に思っています。

 ラッキーゾーン(右翼側)に戻る

 ラッキーゾーンに戻る

 INDEXに戻る