「夜に」

作:金物屋忘八  





 ふと肌寒いものを感じて、少女は、顔をあげた。
 わざわざ冷房を切って全開にしている窓から、うるさいくらいに蝉時雨が聞こえてくる。個室としては広すぎるくらいの部屋の中は、夜になってからはいくぶんなりとも過ごしやすくなっていた。とはいえ、何もしなくても汗ばんでくるほどには、中の空気は熱せられている。
 少女は、肩を抱いて軽く身震いすると、もう一度勉強机の上の教科書や参考書に意識を集中させようとした。
 その時であった。
「いずみ、まだ起きているの? 二時を過ぎたわ、もう寝なさい。明日の朝も野球部の練習で早いのでしょう?」
 軽いノックの音と同時に、扉の向こうから母親の声が聞こえてくる。その声に、母親らしい娘の身を気遣った色がにじんでいるのに気がついた少女は、あえて机の上の本を閉じて立ちあがった。そのまま扉のすぐ手前まで近づき、答える。
「もう、寝るところです、お母様」
「そう、あまり根を詰めて無理をしないようにね。お休みなさい、いずみ」
「はい、お休みなさい、お母様」
 今日も仕事で遅くなったのであろう。午前様で返ってきても、いつも必ず一人娘のいずみの様子を見に来る。早くに夫を亡くしてから、母一人娘一人きりの家族であるが故に、娘のことが何よりも気にかかるのであろう。
 本当は少女も、すぐにも扉を開けて母の顔を見たいのだ。母親に、自分の思ったこと、感じていること、そして色々な何かを話したいとも思う。そして、母が外で何を見、何を聞き、何を感じ、どのように生きているのかを、聞きたいとも思ってしまう。
 だが、連日の激務で疲れているであろう母の身を案じればこそ、自分のわがままを押しつけることはできないと思ってしまうのだ。扉を開けて母の顔を見れば、多分自分がどれほど母の事を求めているかが伝わってしまうであろう。どんなに自制しても、それくらいのことはわかってしまうのが母親というものなのだから。
 いずみは、しばらく立ったまま自室の扉を見つめていた。母の足音が遠ざかっていき、聞こえなくなるまでそのままでいる。そして、そっと小さなため息をつくと、明日の学校の支度を終えてから寝巻きに着替えた。頭の後で二つにまとめている、くせのある巻き毛をほどく。
 それから本棚に向かい、しばらく何冊かの本を手にとってはぱらぱらとページをめくった。ゆっくりと時間をかけて考えてから、ミルトンの「失楽園」とエッコの「薔薇の名前」を選び、部屋の明かりを消してベットに入る。そのままサイドテーブルの明かりを灯すと、ゆっくりと最初の一ページ目を開く。
 もう丑三つ時をとっくにすぎているにも関わらず、意識ははっきりとしていて、細かい文字を追っていても目が疲れることもなく、内容を理解できないということもない。
 自分が今日も寝つくまで時間がかかりそうなことに、彼女はもう一度小さなため息をついた。
 実はいずみは、父親と死別して以来、軽度の不眠症に悩まされていたのであった。
 理由はいくらもあろう。母親の不在。家政婦や執事といった他人が常に家に存在すること。周囲の過剰といってもよい評価。そうした諸々の現象が彼女に与える緊張が複雑に絡み合った結果、彼女は、一日にほんの三時間か四時間ほどしか眠ることができないようになってしまっていた。
 大体いつも、一人きりで夕食をとる。それからの夜の時間は、一人で過ごすにはあまりにも長すぎた。そうした時間を過ごす方法は、結局、勉学に励むか、読書や音楽に没入することくらいしかありはしない。いずみには、電話をできる友人もいない。それに、夜の街に遊びに出かけるほど自棄になるには、プライドが高く頭の巡りが早すぎた。
 結局いずみは、自分だけの世界を構築する事でしか、その孤独とつきあっていくすべを見つけることができなかったのだ。
 しばらく、暗鬱なサタンの独白に共感を覚えつつページをめくっていると、ふと一人の少女の面影が脳裏に浮かんでくる。
 早川涼。
 同じ如月女子高等学校の硬式野球部の部員であり、いずみを野球の世界に引き入れた張本人である。
 彗星のように現れて、幼なじみであり、心密やかに憎からぬ思いを抱いていた少年の心を奪っていった少女。男子に優るとも劣らない強打者である彼女が、唯一認めたライバルである天才投手。
 そして、彼女の小さな世界を、根本から変えてしまった人間。
 だが、彼女の面影は、不思議といずみの心をささくれ立たせはしなかった。
 むしろ、温かな何かでひたひたと身体の奥を満たしてゆく。
 読みかけで本を閉じると、いずみは、明かりを消して目を閉じた。そして、明日の野球部の早朝練習で、何の課題をクリアするかをイメージトレーニングし始めた。
 
「なぁ〜にが、「わぁ〜たくしぃ、きりのいいところまで読んでしまいたいのでぇ〜、ご遠慮させていただきますますわぁ〜」だよ。気取りやがって」
「まあ、でも、いずみさんだから」
「だからって、付き合い悪すぎだぜ」
 もうそろそろ、夕焼けがあたりを真っ赤に染め上げるかという時間であった。早川涼は、ようやく練習が終わって野球部の皆と一緒に帰宅しようとしていた。そして、とりあえず駅前のお好み焼き屋で軽く腹ごしらえしてから家路に就こう、という話となったのだ。
 さすがに育ち盛りの女の子達である。ここでそれなりにお腹を一杯にしても、まだ晩ごはんが入る余裕があるらしい。
「たまには、一緒に飯くらい付き合ったっていいと思わねえか?」
「でもぉ、いずみがお好み焼きとか食べているところ、イメージできるぅ?」
「……う、わちには無理ぜよ」
 そこでぱっと皆がさんざめく。
 早川涼は、なんとはなしに話についていけなくて、皆から少し離れたところを歩いていた。
 前の方では、氷室いずみの話でさらに盛り上がっている。
 もともと彼女らの所属する如月女子高等学校硬式野球部は、学園の理事長である、いずみの母親の肝いりで創設されたものであった。彼女が、何を思ってか女子野球部を甲子園に出場させ、優勝を狙わせるという前代未聞のこころみを思いついたがゆえに、今少女らの大半はこうしてここにいるのである。
 ところが、その彼女の計画の最大の障害となったのが、よりにもよって娘のいずみであった。
 彼女は、元々は、将来はウインヴルドンは確実、とすらいわれていた天才テニスプレイヤーであった。それがなにゆえか、最も強硬に野球部に対して敵対的な態度を示したのだ。しかも、母親の理事長がこれと見込んだ、早川涼への対決姿勢を隠そうともしなかったのである。
 一度は、野球部を廃部直前にまで追い込みすらしたのだ。
 ところが彼女は、何を思ってか、一転して野球部への肯定的な態度をとるようになったのであった。そのうえ、あえてテニスプレイヤーとしての将来を捨て、まったく未知の世界である硬式野球の世界に飛び込んで来たのだ。今では、野球部にとってなくてはならない強打者の地位を確かにしてすらいた。
 だからといって、他の野球部の面子がそれを素直に喜んで認めていたわけではない。
 いずみは、天才と褒めそやされていただけあって、おそろしく誇り高く自らを頼むところがあつかった。さらには、勝利への執念も、並みの人間の比ではなかった。それだけに、自他ともに厳しく、いっさいの甘えを許さないところがあった。
 あくまで彼女は、野球は野球、友達付き合いはまた別、とでもいうように、この年頃の女の子特有の互いの距離の短い付き合いをしようとはしなかった。そしてそれは、そうした普通の女の子たちにとって、あまりにも異質なことであったのだ。
 いずみが、彼女らの中で浮き上がりながらも排除されないでいたのは、彼女が文字通りの天才で、そして他人に対する以上に自分に対して厳しかったからに他ならない。常に彼女の言葉は厳しかったが、必ず本質を捉え、当を得ていた。
 涼は、ふと今いずみが何をしているのかを思った。
「どうしたの、涼?」
 みんなの輪から外れて黙りこくっている涼に気がついた眼鏡の少女が、振り向いて声をかける。それにつられたように、皆がいっせいに立ち止まって振り向いた。
「え? なに?」
「何か、考えごとしているみたいだったから」
「ううん、そんなことないよ」
 涼は、あわてて笑顔を作って首を左右にふる。
「ほな店に急ご。うち、もうお腹ぺこぺこや」
「そうそう。今日もいっぱい練習したし」
 そして、皆は歩き出そうとする。今の彼女らにとって、なんといっても、空腹を満たすことほど重要なことはない。
 と、その時である。涼は、あっと声をあげた。
「みんな、ごめん、忘れものしちゃった」
「え?」
「先行ってて、すぐ戻るから」
 その涼の声に、皆はもう一度振り返った。彼女は、もう回れ右をしていて、肩ごしに振り向いて右手を振っていた。そして、そのまま一目散に今来た道を走って行く。
「忘れ物って、何?」
「さあ?」
 みんな、ぽかんとして、学校へと戻る涼の後ろ姿を見ていた。
 

 
 ぶんっ、という空気を叩く音に、いずみはわずかに眉をひそめた。
 ゆっくりとバットを構え直し、外角低めをつく直球をイメージして、もう一度バットを振る。
 びっ、という風を切る音に、しかめられていた眉がもう一度元の位置に戻る。そして、同じようにバットを構え直すと、こんどは同じコースをつくスライダーをイメージしてバットを振った。
 あたりはもう陽も落ちていて、真っ暗といってもよかった。部室に灯したままの明かりが、かえってあたりの闇の濃さを際だたせている。いずみは、黙々と幻の投手が投げる幻のボールにむかって、バットを振り続けていた。ときおり、空気を叩く音にその眉をしかめもする。だが、その動きの流れが止まることは無かった。
 徐々にその動きが無駄をそぎ落としていき、流れるようなものとして完成し、そして、鋭く風を切り裂く音とともにバットが振り抜かれた。
 ゆっくりとバットが下ろされ、わずかに猫背になったいずみの口から、ため息にも似た声がもれる。ようやく納得がいくバッティングができたのであろう、これまでとはうって変わった柔らかな表情が浮かんでくる。その顔は桜色に上気し、汗でしっとりと濡れている。ときおり、汗がしずくとなって滴り落ちた。
 いずみは、そこで初めて、もうあたりがすっかり闇くなってしまっていることに気がついた。彼女は、仕方がない、とでもいうように二三度左右に首を振った。
 そして、そこで初めて部室の前の人影に気がつき、はっとして顔を上げる。
「誰!?」
 いずみの誰何の声が飛ぶ。
 彼女は、その人影をにらみつけるように目を細めると、右手でしっかりとバットのグリップを握りしめた。
「いずみさん、あれから、ずっと素振りを?」
 そこにいたのは、先に皆と帰ったはずの早川涼であった。彼女は、いずみの鋭い声にちょっと気おされたかのように、両手でかばんを抱えている。
「涼!? どうしたの? あなた、皆と帰ったのではなくって?」
「あ、うん、忘れ物しちゃって」
「……相変わらずね」
 いずみは、そこで初めて肩の力を抜き、もう一度バットを構えようとした。が、何かに気がついたかのように、あらためて涼に向きなおる。
「涼、あなた、皆が帰ってからもう二時間にはなるわよ!?」
「あ、うん、そうだね」
 困ったかのような気弱な笑いを浮かべて、涼はかばんを下に置いた。いずみは、けげんそうにそれを見ていると、ふと何かに気がついたかのように声を上げた。
「あなた、もしかして、ずっと見ていたの?」
「うん」
 涼のことを見ていたいずみは、一瞬ぽかんとした表情をすると、すぐになんとなくばつが悪そうな様子で顔をそむけた。彼女の面には、まるで、見られるはずがないものを見られてしまったかのような羞恥の色が浮かんでいる。涼は、それに気がつきはしたが、あえて何も言いはしなかった。
 間の悪さをごまかすようにまた素振りを始めようとするいずみを、あわてて涼は止めようとした。
「それ以上は、オーバーワークだよ」
 視線だけ涼に向けて、いずみは冷えた声で答えた。
「自分の身体のことは、自分が一番よくわかっているわ」
 いずみのいつも通りの拒絶に、涼ははたと困ってしまう。まっ正面から彼女を止めようとしても、絶対に聞き入れるはずがないのは、普段の彼女から十分にわからされている。
 むう、としばし考えた涼は、ぽんと思いついたものがあった。
「ね、いずみさん」
「何?」
 もはや涼のことは眼中にない、というポーズを取って、改めてバットを構えたいずみに、涼は明るい声で話しかけた。
「ボール、投げようか?」
 
 如月女子高野球部のグラウンドは、校舎の裏手の一段下がった雑木林の中に作られている。敷地内でそれだけの広さをもった場所がそこしかなかったのと、校内に実は野球部に反対する人間が多いのと、そうしたあまりぱっとしない理由からであった。
 だがおかげで、部外者に邪魔されることもなく練習に専念できる環境にある、ともいえた。実際、もうこんな夜遅い時間に照明をこうこうとつけていても、誰にもとがめられることがない。
 いずみは、右足でゆっくりとバッターボックスの中の地面をならすと、こころもち短めに持ったバットを構え、一八.四四メートル先のピッチャーマウンドに立つ涼に向かって叫んだ。
「いいわ、来なさい!」
 その声を待っていたかのように、涼の右足がゆっくりと上がり、全身が左回りねじりこまれていく。そして、巻き上げられたゼンマイが一気に解放されるように全身の力が爆発し、左手に握られたボールにすべての力が込められる。
 彼女の手を離れたボールは、ほとんど時速一四〇キロに近い早さでホームベースに向かって飛ぶ。
 いずみは、その外角低めのストライクゾーンぎりぎりを抜けようとしているボールを、全身をひねりこんでバットを振り、そして、一、二塁間に向かって流そうとする。だが、さすがに男子高校球児を相手に一歩も引くことのなかった豪速球である。打球はわずかに右に切れると、一塁ベースぎりぎりを抜けていく。
「ファーストライナーね。アウトだわ」
 やれやれ、といったふうに軽くため息をつき、いずみは今の打球をそう評価した。
「どんまいどんまい、タイミングはあってる!」
 傍らの硬球が山と盛られたバケツらの一つから新しいボールを取ると、涼はいずみにむかって手を振った。
「じゃあ、また外角低めね。いくよ!」
「ええ。来なさい!」
 もう一度振りかぶった涼は、先ほどと同じような、流れるようなフォームでボールを投げた。
 いずみは、同じようにストライクゾーンぎりぎりをかすめようとするボールを、今度は見事に一二塁間をセカンド寄りに打ち返した。打球は、ほとんど一直線に外野まで飛び去っていった。
「ナイス!」
 マウンドの上で左手の親指を立てた涼に、いずみも同じように親指を立てウインクして返す。そのほおはわずかに上気し、彼女にとっても今のバッティングが会心のものであったことを物語っている。
 涼は、普段のいずみからは思い描くこともできないほど楽しそうにバットを振っている彼女の姿に、自分も愉快な気持ちがわき上がってくるのを感じていた。
 いろんなしがらみのいっさいを無しに、ただ全力でボールを投げ込む。そして、そのボールをいずみが思いっ切り全力で打ち返す。
 たわいもないといえばたわいもなかったが、今二人は、それを心から楽しんでいた。
「こんどは内角低めね!」
「ええ、お願い」
 気合いとともに投げ込まれる涼の速球を、いずみは、また一二塁間へ打ち返した。
 
 結局、涼が投げたのは三〇球程であった。
 いずみはそれを、ひたすら一二塁間にむかって打ち返し続けた。涼は、内角外角、高め低めを、信じられないほどの正確さで投げわけた。
 言ったとおりにボールを投げ込む涼のコントロールの正確さに、いずみは、あらためて舌を巻く思いであった。宣言通りのコースをつくことの難しさは、彼女自身ボールとつきあってきた時間が長いだけに、十分にわかっているつもりである。
 それを涼は、やすやすと何でもないように投げてくるのである。
 いずみがあえて一二塁間に打球を集中し続けたのは、そんな彼女に負けん気をあおられたからであった。どこに来るかわかっているボールに、バットを当てることはできる。ただ、それを狙ったところに打ち返せるかどうかは、また別の話である。そして彼女は、自分もライバルに負けない技術があると証明しようとしたのだ。
 だが、そうした気持ちも長くは続かなかった。
 それこそ心から楽しそうにボールを投げてくる涼に、いつしかいずみも、これが練習であることを忘れてしまっていた。自分が狙ったところに打球を返した時に、それをまるで自分がヒットを飛ばしたかのように喜ぶ彼女に、そうそう敵愾心を持ち続けられるはずもない。
 いずみは、自分がマウンドの上の相手と一緒になって打球の行方に一喜一憂していることに気がつき、そしてそれが不快ではないことに、はたと困惑を感じた。自分がこれまで、こうやって楽しむためにボールとつきあうということをしたことがなかった、ということに初めて気がついたのだ。
 バケツが空っぽになり涼がマウンドを降りて近づいてくるまで、いずみはぼうっと最後の打球の飛んでいった先を見続けていた。
「いずみさん?」
「!?」
 涼が心配そうに自分の顔をのぞきこんでいるに気がつき、いずみは、はっとして我に返った。
「何? もう終わり?」
「うん」
「そう。ではあがりましょう」
 いずみは、視線をずらしてマウンドへむかって歩き出そうとした。バケツをとり、これから自分が打ったボールを拾い集めなければならない。
「あ、いずみさん、待って」
「なに?」
 後から声をかけられて、いずみは足を止めた。
「左打席で素振りをしておいた方がいいと思うよ」
「? 何故?」
 怪訝そうに振り返ったいずみに、涼は少しだけ心配そうな表情で言葉を続ける。
「逆の打席でもバットを振っておいた方が、故障する事が少なくなるんだって。やっぱり身体のバランスが取れるんじゃないかな」
「監督は、そんなことは言っていなかったわ」
「知ってると思ってたんじゃないかな。じゃなければ、……忘れてるか」
 二人の間を天使が通り抜け、それから少女らは、同時にお腹を抱えて笑い出した。それこそ馬鹿みたいに笑い転げ、目尻に涙すら浮かべている。
「やだもう、本当にありそうじゃない」
「だって、その方が監督らしいし……」
 指先で目尻をぬぐうと、いずみは左のバッターボックスに戻り、バットのグリップを握った。
 涼は、マウンドに駆け上ると、バケツを両手に下げて外野に向かって歩き出す。
「涼?」
「あ、素振り続けてて。ボールはあたしが拾っておくから」
「待ちなさい、私も拾うわ」
「いいからいいから。いずみさんは素振りしてて。すぐに拾い終わるから」
「涼……」
 昼間の練習でずいぶんと疲れているはずなのに、彼女の足どりはいきいきとして軽い。いずみは、わずかに目を閉じてゆっくりと息を吸うと、バットを構えた。
 

 
 もう真っ暗になってしまった道を、いずみと涼は、二人ならんで歩いていた。
 あたりは晩ご飯らしく、一家団らんの喧噪や料理のおいしそうな匂いが、二人のところまで届いてくる。そんなまわりの様子に、涼はそっといずみに視線を送った。いずみは、いつも通りの無表情なまま、まっすぐ前を見ながら歩いている。
「いずみさん、お腹すかない?」
「いいえ」
 そっけないほど短い答が戻ってきて、さすがに彼女もそれではよろしくないと気がついたのだろう、一瞬間を置いて言葉が続いた。
「あなたこそ大丈夫なの?」
「うん、もう晩ご飯時なんだね。いい匂いがしてくるから、お腹すいちゃった」
 しばらく間を置いてから、いずみは会話を続ける。
「あなたの家からは、遠回りになったわね」
「仕方ないよ、もう真っ暗だもの」
 涼の登校の道のりは、普段は街の真ん中を流れる川沿いを進み、市民公園をつっきって住宅街をぬけるルートをたどっている。だが、いくら治安がよいことでは世界に冠たるこの日本であっても、年ごろの女の子が周囲に人気のない夜道を延々歩いて帰れるはずもなかった。二人は、かなり遠回りにはなっても、住宅街の真ん中を通って帰る道を選んでいた。
「みんな、もう帰っちゃったろうな」
「そうね。あれから三時間は経っているもの」
「お母さん、さすがに心配してたな。やっぱり、途中でどっかよるわけにはいかないよねぇ」
 軽く左手でお腹のあたりをさすりながら、涼はいずみの方に顔を向けた。
「いずみさん、うちで晩ごはん食べていかない?」
「……遠慮しておくわ」
 少しだけ考え込んでから、いずみはそっとそう答えた。
「でも、お腹すかない?」
「平気よ。それに、これ以上甘えるわけにはいかないもの」
 少しだけ視線をずらして、いずみはつぶやいた。
 彼女の表に浮かんだ、わずかに寂しげな表情に、涼はちょっとだけ困ってしまった。
 なんとはなくばつの悪い雰囲気になってしまい、二人は黙って道を歩いていた。と、しばらくして、二人の耳に空腹であることを告げる肉体の抗議が聞こえてくる。
 ひょ、と涼は、まず自分のお腹を押さえた。が、まだ自分の身体がそれを告げたのではないことがわかる。はっと視線を向けた先で、いずみが真っ赤になってうつむいている。彼女は、両手でかばんを抱え込み、視線を涼にあわせようとはしない。
 涼は、思わず笑い出したくなるのをこらえて、いずみの腕を取った。そのまま彼女を引っ張るようにして走り出す。
「涼!?」
「一緒に、晩ごはん食べよう!」
 いずみは、あらがわなかった。
 
「ああ、もう、お腹一杯で、気持ちいいや」
 涼は、自分の部屋に戻るなり、そうつぶやいて思いっ切り伸びをした。
 それから、部屋の前でとまどったように立ちすくんでいるいずみを、手を取るようにして中に入れる。お邪魔します、と、律義に挨拶して入ってくる彼女に、涼は座布団を勧めて座らせた。階下の涼の母親が切り盛りしているおでん屋の喧噪が、二階のこの部屋まで伝わってくる。
「どうしたの? いずみさん」
 なんとなく居心地悪そうに座布団の上で正座しているいずみの姿に、涼はその目の前にあぐらをかいて座ると、彼女の顔をのぞきこんだ。
「いえ、なんでもないわ」
「ん、でも、なんか変だもの。いずみさんらしくないというか……」
「私らしくない、とは?」
「ううんと、なんて言うのかな? ……今のいずみさんって、まるで借りてきた猫の子みたいだから」
「それって、普段の私が、傍若無人であたりはばからずわがままを押し通している、としか聞こえなくてよ、涼」
 さすがにじと目になって、正座したままいずみは涼を見すえる。
「そ、そういうんじゃなくって、その、なんて言うのかな、いずみさんって、いつも自信満々でいるし」
「そういうもの?」
「うん」
 二の句をつげず、いずみは文字どおり絶句した。少しむくれてそっぽを向くと、彼女は何かを口ごもった。
「え? なに?」
 気になった涼が、ずいっと身を乗り出す。それこそ鼻と鼻が触れ合わんばかりに近づいてきた彼女に、いずみはわずかにのけぞった。そのままじっと見つめられて、視線を合わせることもできず真っ赤になって呟く。
「……友人の家にあがるのって、初めてなのよ」
 涼は、まじまじといずみを見つめ、そしてぱっと輝くような笑顔をひろげた。
「何?」
 そんな涼に、いずみは身構えるように声を低めた。
「うん、じゃあ、あたしは、いずみさんの友達なんだね」
 あっ、と、声にならない声がいずみの口から漏れる。
 うつむいた彼女は、左右に視線を流し、ひざの上で両手の指を組んだりほどいたりしている。しばらくそうやって所在ない様子でもじもじしてから、意を決したように制服のスカートのすそを握り、うつむいたまま、けれどもはっきりとした声で答えた。
「そうよ。あなたは、私の友達よ」
 
 下町の商店街の喧噪が潮が引くように去っていき、わずかに家族の団らんの声が、開け放たれた窓から聞こえてくる。
 いずみは窓枠に身をもたれさせ、そこから見える街のともし火をなんとはなしに眺めていた。街灯の光や各々の家の明かりが、なぜか彼女を感傷的にしていた。
 あの明かりの中には、父親がいて母親がいて、そして子供たちがいる家庭があるのだろう。中に入ってみれば、決してあこがれるだけのものではない各々の悩みやもめ事もあるのであろう。だが、物心ついてからほとんどそうした家庭の団らんというものがなかったいずみにとって、それはやはりあこがれの対象であったのだ。
 ふといずみは、自分がそうした家族の団らんの中で微笑んでいる姿を思い描いた。
 父親がいて、母親がいて、そして自分がいる。その日の教室や部活であったこと、友人のことや大人たちのこと、そうした諸々を喜々として話している自分。両親の仕事のこと、考えていること、そして自分がいまだ知らない未知の世界のこと、そうした色々を語ってくれる両親と、それに耳を傾けている自分。
 その中でのもう一人の氷室いずみは、一瞬として同じ表情をしてはいなかった。驚き、喜び、そして、考え込んだり困ったり、ころころと表情が変わっていく。
 いずみは、もう一人の自分が幸せそうに明かりの中にいるのを、じっとそこから眺めていた。しんしんと心の中を寂しさが満たしていくのが、ほのかな悲しみとともに感じられる。
 ふと、自分のほほが、温かなもので濡れていることに気がつく。
 妙に覚めた目でそれを見ているもう一人のいずみが告げる。それは、自分の中のやるせなさが、涙となって流れ出ているのだ、と。
「いずみさん?」
 誰かに肩を揺り動かされ、はっとして彼女は顔を上げた。
 そこは涼の部屋で、いずみの目の前には部屋の主が心配そうな顔をしてしゃがんでいる。彼女の手が自分の肩にのせられているのが、厚く柔らかな布越しにわかった。
「涼?」
「いずみさん、もう遅いよ。家に帰らないと」
「……私、寝ていたの?」
「いずみさん?」
「そう、寝ていたのね」
 ぼんやりと、気怠い感触の中、いずみはゆっくりと身体を起こした。その拍子に肩にかけられていたタオルケットが落ちる。
「これは、あなたが?」
 ぼうっと視線を落としたまま、いずみは淡々とした声で涼にたずねた。
「あ、うん。いずみさん、気持ちよさそうに寝てたから。風邪引いちゃいけないと思って」
「そう」
 そこで初めて時計に目をやる。すでに時計の針は十時を回っていた。とてもではないが、年頃の女の子が一人で歩いて帰れる時間ではない。
 ふ、と小さくため息をついて、いずみは立ち上がろうとした。
「もうこんな時間なのね。車を呼ぶわ」
「車を呼ぶって、駅まで出ないとタクシー拾えないよ」
 いずみは、黙って涼の顔を見つめる。
 そして、まるで足がそこに張りついてしまったかのように動かず、自分がここから動きたくないのに気がつかされる。いずみは、たった今見た夢がこんなにも自分を感傷的にしてしまっていることが、なぜかとても悲しかった。
「電話を借りるわ。車を出してもらうから」
「へ?」
「もう母が帰ってきているなら、母の車を回してもらうわ。帰っていなければ、タクシーを拾うわ」
 きょとんとしている涼に、いずみは静かな声で説明する。わかっているのかいないのか、おうむ返しにうなずくだけの彼女に、いずみは部屋の片隅の電話機をとろうとして、伸ばしかけた手を止めた。
「涼」
「なに、いずみさん」
「私、泣いていた?」
 唐突な質問に、涼は二三度目をぱちくりさせて、うなずいた。
「うん、涙、流してたけど、なんで?」
 わずかに間を置いてから、いずみはゆっくりと答えた。
「久しぶりに、夢を見たの」
「悲しい夢だったの?」
「……覚えていないわ。でも、多分、そうなのね。いえ、逆なのかもしれない」
 いずみは、自分が涼に背中を向けていることに安堵を覚えていた。電話を取る手が震えているのを見られないで済んでいる。
 
いずみが電話をしたとき、ちょうど母親が家に帰ってきたところであった。そのまま運転手に車を回させることになる。
 いずみと涼は、それから車が迎えに来るまでのしばらくの間、色々なことを話した。野球のこと、テニスのこと、学校のこと、野球部のこと。二人の住む世界はまったく違っていた。が、少しづつその深い溝を埋めるように、言葉を交わしあった。
 そして、いずみを母親が自ら迎えに現れたとき、いずみは、しばらく黙ったまま涼によりそっていた。
 涼は、彼女がどれほど母親を慕っているか、初めてわかったような気がした。そして、かつてなぜ彼女が、自分を、野球部を、あれほどまでに敵対視したのか、ようやく理解できたような気がしたのだ。
 じっと自分を見つめている涼の視線に気がついたのだろう。車に乗り込む寸前、いずみは振り返った。そして、じっと彼女の視線を受け止める。
「ありがとう、涼」
 去り際の言葉は、そう涼には聞こえた。
 
「いずみ」
 後部座席に並んで座っている母親の声は、優しかった。
「何、お母様?」
「良かったわね。友達ができて」
 彼女は、言葉で答える代わりに、そっと母親に寄り添った。そして、目を閉じて車の振動に身を任せる。
 
 いずみは、今日の夜は、早くに眠れそうな気がしていた。
 
Fin  



 解説

 ファンフィクションの意義とは一体何か。
 単なる充足願望の発露と捉えることも可能ではあるが、私としては「原作を自分なりの視点、自分なりの切り口で再構成する」点に最も価値があると考えたい。
 ファンフィクションには荒っぽく分けて二通りの切り口がある。ストーリーや物語世界をベースにしたものと、登場人物をメインに据えたものである。結局の所、登場人物達が物語を作っていく事を思えば、最終的にたどり着く地点は似たようなものになるのかもしれないが、とにかく入り口は一通りではない。
 『プリンセスナイン』は野球という明快なファクターが存在しているため、そのファンフィクションがどちらをメインに据えているかが、非常に判りやすい。当ページに置いては、「右翼側」「左翼側」と分類しているのも、その点に拠っている。
 金物屋忘八氏が本作において手がけたのは、キャラクタメインの「左翼側」と言って差し支えないだろう。無論、金物屋氏のことであるから、一筋縄ではいかないのではあるが。
 私が「一筋縄ではいかない」と感じる金物屋忘八氏の真価は、『新世紀エヴァンゲリオン』のファンフィクション『EVANGERION1999』でかいま見ることが出来る。
 エヴァのファンフィクションでありながらエヴァ”以外”ので豊富な知識を横溢させるスタイル、そして並のエヴァ小説書きが登場人物を類型化して作品を粗造のとは対極にある、独自の視点に立って生き生きと動くキャラクタ。金物屋氏作品の特徴であるこの二点は、本作においても十分に発揮されていると言えよう。
 ところで、オリジナル作品も書けるアマチュア物書きにとって、ファンフィクションとは愛憎半ばする存在でもある。どう言い繕おうとも他人の褌でしかないパロディ作品は、ともすれば作者本来の才能を矯める結果につながりかねない。
 だが、金物屋氏は本作において、そんなジレンマを軽く飛び越えるような斬新な切り口をみせてくれた。恐らく、プリンセスナインのファンの中で、この様な視点で登場人物――とくに氷室いずみ――の性格を分析している者は絶無であろう。原作者ですら思い至っていない境地ではないかとすら感じる。逆に言えば、そこまで突き詰めてこそ、ファンフィクション固有の価値を有することが出来る、と考えることもできる。それほど、金物屋氏の氷室いずみ観は斬新である。
 キャラクタの特徴を捉え、その雰囲気を再現する事も、ファンフィクションの出来を評価する要素と考えるなら、本作には否定的な意見も少なくないだろう。「こんなのは氷室いずみじゃない」と苦言を呈したくなる人も居るかも知れない。
 同時に、そういう懸念を伺わせるキャラクタ描写でありながら、必ずしもその言動に不自然さを感じさせないのはさすがである。これは、じっくりと吟味されて十分な文章量をそそぎ込んで、その揺れ動く心理を丁寧に追っている結果である。
 さらに思い返してみると、”高飛車な姿勢を崩さない生粋のお嬢様”という表面的な氷室いずみのイメージに囚われてしまっていると、高杉宏樹や母親に対する態度に違和感を覚えることに気づく。彼女の、最終話における涼に対しての言動もしかりである。本作において、一見トリッキーな解釈に感じられるにもかかわらず、結果として原作の違和感すら整合させてしまっている、と考えるのは穿ち過ぎだろうか。
 反面、野球描写に関しては手堅くまとまっていて、あっと驚く点は少なく、やや不満に感じる向きもあるかも知れない。
 もっとも、本作のメインテーマが氷室いずみの早川涼に対する思いである以上、どうしても重心がそちらに傾くの致し方ないことである。また、金物屋氏が『プリンセスナイン』に出会うまで(正確には、私に延々とプリンセスナイン及び野球話を聞かされるまで)、ほとんど野球戦術に関して知識をもっていなかったことを差し引いて考慮しなければならないだろう。
 とはいえ、知識欲旺盛な金物屋氏は、現在も野球の神髄を見極めるべく、鋭意知識の吸収につとめている様子である。今後の作品においては、あっと驚く画期的作戦なども見せてくれるかも知れない。期待大である。
 余談ながら。『プリンセスナイン』のコミック版三巻のあとがきにおいて、原作者の伊達憲星氏は、「プリンセスナインは当初、”あるアイドルグループを中心とした実写映画化”を念頭に置いていた」と興味深い発言をしている。
 この発言一つとってみても、渡嘉敷陽湖が沖縄出身でアイドル志望であった点を深読みすることもできる。『プリンセスナイン』世界の切り口はまだまだ無数に存在している。
 固定観念を吹き飛ばす本作に刺激を受けた、新たなる有為のファンフィクションが登場することを願ってやまない。

(編集・文責:島津)



 この作品のご意見、ご感想は、金物屋忘八氏までお願いします。

 氏のHP、楽描工廠


 ラッキーゾーン(左翼側)に戻る

 ラッキーゾーンに戻る

 INDEXに戻る