解説
ファンフィクションの意義とは一体何か。
単なる充足願望の発露と捉えることも可能ではあるが、私としては「原作を自分なりの視点、自分なりの切り口で再構成する」点に最も価値があると考えたい。
ファンフィクションには荒っぽく分けて二通りの切り口がある。ストーリーや物語世界をベースにしたものと、登場人物をメインに据えたものである。結局の所、登場人物達が物語を作っていく事を思えば、最終的にたどり着く地点は似たようなものになるのかもしれないが、とにかく入り口は一通りではない。
『プリンセスナイン』は野球という明快なファクターが存在しているため、そのファンフィクションがどちらをメインに据えているかが、非常に判りやすい。当ページに置いては、「右翼側」「左翼側」と分類しているのも、その点に拠っている。
金物屋忘八氏が本作において手がけたのは、キャラクタメインの「左翼側」と言って差し支えないだろう。無論、金物屋氏のことであるから、一筋縄ではいかないのではあるが。
私が「一筋縄ではいかない」と感じる金物屋忘八氏の真価は、『新世紀エヴァンゲリオン』のファンフィクション『EVANGERION1999』でかいま見ることが出来る。
エヴァのファンフィクションでありながらエヴァ”以外”ので豊富な知識を横溢させるスタイル、そして並のエヴァ小説書きが登場人物を類型化して作品を粗造のとは対極にある、独自の視点に立って生き生きと動くキャラクタ。金物屋氏作品の特徴であるこの二点は、本作においても十分に発揮されていると言えよう。
ところで、オリジナル作品も書けるアマチュア物書きにとって、ファンフィクションとは愛憎半ばする存在でもある。どう言い繕おうとも他人の褌でしかないパロディ作品は、ともすれば作者本来の才能を矯める結果につながりかねない。
だが、金物屋氏は本作において、そんなジレンマを軽く飛び越えるような斬新な切り口をみせてくれた。恐らく、プリンセスナインのファンの中で、この様な視点で登場人物――とくに氷室いずみ――の性格を分析している者は絶無であろう。原作者ですら思い至っていない境地ではないかとすら感じる。逆に言えば、そこまで突き詰めてこそ、ファンフィクション固有の価値を有することが出来る、と考えることもできる。それほど、金物屋氏の氷室いずみ観は斬新である。
キャラクタの特徴を捉え、その雰囲気を再現する事も、ファンフィクションの出来を評価する要素と考えるなら、本作には否定的な意見も少なくないだろう。「こんなのは氷室いずみじゃない」と苦言を呈したくなる人も居るかも知れない。
同時に、そういう懸念を伺わせるキャラクタ描写でありながら、必ずしもその言動に不自然さを感じさせないのはさすがである。これは、じっくりと吟味されて十分な文章量をそそぎ込んで、その揺れ動く心理を丁寧に追っている結果である。
さらに思い返してみると、”高飛車な姿勢を崩さない生粋のお嬢様”という表面的な氷室いずみのイメージに囚われてしまっていると、高杉宏樹や母親に対する態度に違和感を覚えることに気づく。彼女の、最終話における涼に対しての言動もしかりである。本作において、一見トリッキーな解釈に感じられるにもかかわらず、結果として原作の違和感すら整合させてしまっている、と考えるのは穿ち過ぎだろうか。
反面、野球描写に関しては手堅くまとまっていて、あっと驚く点は少なく、やや不満に感じる向きもあるかも知れない。
もっとも、本作のメインテーマが氷室いずみの早川涼に対する思いである以上、どうしても重心がそちらに傾くの致し方ないことである。また、金物屋氏が『プリンセスナイン』に出会うまで(正確には、私に延々とプリンセスナイン及び野球話を聞かされるまで)、ほとんど野球戦術に関して知識をもっていなかったことを差し引いて考慮しなければならないだろう。
とはいえ、知識欲旺盛な金物屋氏は、現在も野球の神髄を見極めるべく、鋭意知識の吸収につとめている様子である。今後の作品においては、あっと驚く画期的作戦なども見せてくれるかも知れない。期待大である。
余談ながら。『プリンセスナイン』のコミック版三巻のあとがきにおいて、原作者の伊達憲星氏は、「プリンセスナインは当初、”あるアイドルグループを中心とした実写映画化”を念頭に置いていた」と興味深い発言をしている。
この発言一つとってみても、渡嘉敷陽湖が沖縄出身でアイドル志望であった点を深読みすることもできる。『プリンセスナイン』世界の切り口はまだまだ無数に存在している。
固定観念を吹き飛ばす本作に刺激を受けた、新たなる有為のファンフィクションが登場することを願ってやまない。
(編集・文責:島津)
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