桜の国で
<2006年3月朝日新聞より転用>
桜の国で (2)・・・ ダム水没 「木を殺すな」
「桜男」と呼ばれた人がいる。笹部新太郎。一八八七年、大阪の大地主の次男に生まれた。旧制七校(鹿児島)から東大法学部卒。だが父親の一言で、思い切りよくエリートコースを捨てる。
「月給取りにはなるな。この世に生を受けた甲斐があることを残して死ねば、本懐ではないか」
笹部は従う。組織に属さず、好きな桜の保護と育成に没頭して九一歳の生涯を終えた。私財をなげうって兵庫県に演習林を造り、何十万本もの桜を植え、育てた。学者ではなく、桜を知り尽くした園丁として、誇りを持ち続けた。
1960年早春。
老紳士が笹部を訪ねた。岸内閣の通産省を務めた高碕達之助。樹齢400年ほどの桜の写真を見せ、「別の場所に移植したい。可能性は有りますか?」と聞いた。岐阜県に建設中の御母衣ダムに水没する村の桜だという。高碕は、ダムを計画した電源開発の初代総裁でもあった。
桜の種類はアズマヒガン。40トンはあると、笹部は踏む。「自信は持てませんな」。ぶっきらぼうに断る笹部に、高碕は「絶対に、駄目ですか」。旧ソ連や中国を相手に、困難きまわる交渉をまとめてきた手だれである.ものの5分で笹部は寄り切られてしまう。
「私でよろしくば、やってみましょう」
翌六一年の秋。一台の車が御母衣ダムを目指していた。京都の庭師として名高かった佐野藤右衛門(先代)と、息子の輝一(77)。野宿の心配があったので、もちと七輪を積み込んでいた。
高碕が笹部に頼んだ桜の移植は、前の年、葉の落ちるのを待って晩秋に始った。現地を調べると桜の巨木がもう一本見つかり、二本同時の移植になった。
クレーンやブルトーザーなど重機が投入された。40日かけて約600メートル動かし、移植は完了する。だが無事に根付いたかどうかは分からない。持病で動きがとれなくなった笹部は、信頼する佐野に観察を頼んだのだった。
ダムに着いた父子は、入念に桜を検分した。新芽の具合から無事に根付いたことを確信した。
いま二本の桜は「荘川桜」と呼ばれ、ダムのほとりで毎年花を咲かせる。先代は81年に死去し、輝一は16代藤右衛門となる。笹部の衣鉢を継いで、年に一度の御母衣通いを欠かしたことがない。
笹部にとって移植は、樹木の生命を軽んじる人間社会への抵抗でもあった。後年、随筆に書く。
「動物の死には死ぬのと殺されるのとに差別をつけているが、植物の場合この二つをごっちゃにしている・・・・木を殺す意味の漢字を一字だけ作ってほしい」
高碕も動植物を愛した。移植を決意したときの心情を、「この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿がはっきり見えた」と回想した。
二人の思いは相通じていた。
藤右衛門父子にも、苦い思い出があった。戦争中、桜の苗圃をイモ畑に転用するよう命令された。数万本を引き抜き、自らの手で泣く泣く桜を「殺した」
先代藤右衛門は生涯に数十万本の桜を育てたという。65年、その手になる34種類、247本が埼玉県の跡見学園女子大に届いた。いま、キャンパスに咲き誇る。
2006.3.28 朝日新聞夕刊記事より(福島申二)転用
桜の国で (4)・・・ 畏敬 共感 1500年の生命力
1935年に急逝した日本画家速水御舟は死の前年、「春の宵」を描いた。細い月が空にかかり、暮色に浮かぶように桜が咲いて、静かに散っている。
画集で見たとき、日本画家中島千波(60)は目を開かれる思いがした。桜を描いてみたかったが、どう描いたらいいのか分からずにいたのだ。「そうか、花びら1枚ずつ描いちゃえばいいのか」
桜の絵は、「空気」が描けなければ派手なだけのイラストになってしまう。御舟の筆は、花びら一枚一枚を淡々と画紙にのせ、ものうい春の宵を描ききっていた。
そんなとき、アトリエを訪ねてきた岐阜の画商から「淡墨桜って知っています?」と聞かれた.岐阜県の根尾村(現本巣市)にあり、樹齢は実に1500年という。屈指の巨樹だと教えられ、訪ねてみた。83年春のことだ。
一目でとりこになった。花よりも、歳月をへた幹の、あまりの太さに圧倒された。周囲は9メートル以上ある。ねじれ、節くれ立ち、苔むしていた。「古代人がそこにいるような畏敬の念を感じた」。気がつくと、色鉛筆を握りしめてスケッチしていた。
以来、全国の桜の名桜を訪ねた。
群生する桜は好まず、歳月を重ねた一本桜を「所肖像画を描くつもりで描いてきた」。花びらを丹念に描く華やかな画風で、いまや「桜の画家」の呼び名はゆるぎない。
中島が巡り会うまでに、淡墨桜は昭和に入ってから2度、枯れ死の危機を乗り越えた。
昭和の初め、花がまばらになってきた。だが戦争で桜どころではなく、放置された。戦争が終わったころには樹勢葉いよいよ衰え、「3年もつまい」と言われた。地元から頼まれ、岐阜の医師前田利行が回生の「手術」を施す。
前田は樹木好きで、盆栽の名人だった。淡墨桜の根をくさび形に切り、切り口に卵白を塗り込んだ。そこへ別の若木の根を接ぎ、麻縄で固定する。村人らの手もかり、ひと月かけて238本もの根を接いだ。翌春、桜は満開の花を咲かせた。だが59年の伊勢湾台風による痛手で再び衰えてしまう。
68年4月、月刊誌「太陽」に載った随筆が、2度目の死の淵から淡墨桜を救うことになる。
筆者は作家宇野千代。批評家小林秀雄から教えられ、淡墨桜を知った。67年春に訪ね、枯死を待つばかりの老残に心を痛めた。前田の遺徳に共感し、随筆で「もう一度花を咲かせたい」と訴えた。岐阜県知事にも書簡を送った。
宇野の熱意が行政を動かす。手厚い保護が加えられ、淡墨桜は再びよみがえった。
よみがえった淡墨桜は、多くの文人を魅了した.だれよりもまず宇野が引かれた。後に小説「薄墨の桜」(新潮社)を著す。グロテスクな幹と、その木に咲く清楚な花の共生を、あやしい人間模様に置き換えて物語を編んだ。
石川県の日本画家中原信子(64)も魅せられた一人。淡墨桜ばかり100点以上描いてきた。
出会いは偶然だった92年秋に父親を亡くした。葬儀を終えるとむしょうに富士山が描きたくなった。スケッチの旅先で、研修旅行に来ていた岐阜の自治体職員らと知り合い、淡墨桜を知った。翌春、満開の時期に訪ねた。
やはり幹に圧倒された。「よく来たね」。巨樹の声が聞こえた気がした。「私を描きなさい」とも。涙が止まらなかった.・・・後略・・。
昨年、画文集「淡墨桜と風姿花伝」(EH春潮社)を出した.長い命を保ってきた桜に、世阿弥の風姿花伝の教えを重ね、美しく老いる生き弥の風姿花伝の教えを重ね、美しく老いる生きる教えを重ね、美しく老いる生き方を探った。
2006.3.30 朝日新聞夕刊記事より(福島申二)転用
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