─ レッキー氏講演 ─

 今日はお集まりくださって、ありがとうございます。お互いに有効な集会にしたいと思います。皆さんからもどんどん質問を出して下さい。


-1- 基本的人権としての居住の権利と日本政府の義務

 人間として、日本市民として、すべての人は、生まれ落ちたその日から墓場に行くまで、「適切な居住の権利(right to adequate housing)」(注1 )を持っています。これが基本的人権の一つ、「居住の権利」です。日本政府はこの権利を尊び、守る、法的義務を負っています。さらに、単に人々の適切な住居を得る権利を守るだけではなく、この阪神淡路大震災で家を失い、経済的に家を得ることができない人々が住居を得られるように手助けする義務があります。

注1 )adequate の訳語には、外務省の訳文では「相当な」が当てられているが、本文中では「適切な」を当てた。

-2- 人権実現の達成は人々にかかっている

 私たちは人権、居住の権利について考えるとき、人権を守る政府の責任や義務ということを考えがちです。しかし、居住権も他の人権もそうですが、市民による影響や行動の重要性を覚えておかなければなりません。市民や市民グループ、非政府組織や独立した活動家の強い行動がなければ、人権の確立が達成されることは決してあり得ないのです。

 自分たちを組織しようという人が少なくなれば、自分たちの要求を明確に持つ人が少なくなれば、自分の権利について気付いている人が少なくなれば、権利を実現するために苦情を訴えたり要求したりする人が少なくなれば、日本のように豊かで洗練された国においてさえ、人権は空約束になってしまいます。私たちはこのことを、世界の各地、4、50カ国で、またこの数日間はここ日 本で、メッセージとして伝えているのです。

 居住の権利や人権、適切な住居について話をするとき、すべては人々にかかっているのです。民間部門にすべてを達成することを期待はできませんし、国にも、他の住居関係部門にも期待はできません。居住の権利の実現は、市民の力にかかっているのです。すべての市民が居住の権利を享受するために、満足のいく注意を払ってくれるような政府は、世界のどこにもありません。この状況は日本にも非常によく当てはまります。


-3- 「居住の権利」の広がり

 地震の起きた4年前、「居住の権利」は、その言葉の存在さえほとんど知られていませんでした。その後、急速に知られるようになりましたが、もちろんまだ充分とは言えません。

 良い展開は見えていると思います。震災以後の復興活動の成果として、人々の居住の権利に対する理解が、地震の被災者だけの孤立した意味でではなく、もっと大きな意味合いに広がったことです。他の国々でも、適切な住居を得る居住権のための闘いが続けられているということを、人々が知り始めたのです。

 ご存じの方もあるかも知れませんが、今年1998年は、国際連合が世界人権宣言を採択した1948年から、50周年に当たります。この宣言には国際人権として始めて、適切な住居のための居住権が含まれました。それからの50年間、居住の権利の状況は大きく進歩しました。多くの条約や約40カ国の憲法に居住の権利が含まれ、地域的、国際的また各国々で、人々が申し立てをするための手続きや仕組みが整ってきました。

 居住権の拠り所となる国際人権法の良い面は、国際人権システムの目的です。世界のすべての国々は、何らかの形で国際人権規約に関わりを持っていますから、最終的にはどの国でも、他国とほぼ同等の理解、国家的、法的、政治的な状況を作ることが可能です。そうなれば、人々はどこにいても、ほぼ同等のレベルの人権を、同じような形で享受することができるようになるでしょう。

 もし人権宣言が謳うように、人権が本当に普遍的で、万人が本当に公平であるならば、それがほぼ同水準の人権が各国で達成されるための人権制度を作り上げる、理論的な基礎となりえます。


-4- 日本での人権に対する認識は低い

 もちろん、それぞれの国には独自の文化や歴史、宗教があります。そしてその国の経験してきたことは、その国の人権の考え方に反映されるでしょう。しかし一方で、国際人権規約に一致しないような法律や条項、慣習が行われている国々もあるのです。

 日本での状況は、人権法に一致しない、人権に敬意を払わない国があるという一例を示しています。国際的水準に照らし合わせると、住宅に関する法律や政策決定のレベルは、非常に低いのです。

 まず第一に挙げられるのは、市民参加が非常に少ないということです。他国と比べても、例えば開発や住宅政策への市民の直接参加が実に少ない。この国ならもっとたくさんのことが可能なはずなのです。特に震災後の住宅問題を考えると、諸問題を基盤にもっとたくさんの組織が育つべきだったし、もっと多くの市民の声が市や県や国の施策決定に反映されるべきでした。

 また住宅に関する限り、この国には伝統的に非常に小さく限られた考え方があるように見受けられます。公営住宅については震災以降、少し事情が変わって、神戸でもいくつか建てられているようですが、一般的には、日本では住居が著しく個人的なこととして捉えられているのです。適切な住居を得る力のない人が、家族や友人に助けを求めることはあっても、政府や行政から居住権の保障のための援助を受けることはほとんどありません。

 人々が声を上げなければ、状況が変わる可能性はまずありません。貧富に関わらずすべての国の歴史の中で証明されてきたことですが、居住政策を人々の要求に合う形に変えていくことができるとすれば、それは人々が声を上げ、声をまとめていくことでのみ可能なのです。

 こうした動きが、住宅に関する法律や政策を変えていくために、また居住の権利そのものがきちんと承認されるために、日本でも求められていることなのです。


-5- 「住居は人権」は革新的な考え方ではない

 例えば、地方自治体がホームレスの人々に住居を提供するということの可能性を考えてみましょう。イギリスでは、過去20年間実施されてきた法により、家をなくした家族が地方自治体に出向くと、ちゃんとした家がその場で提供されることになっています。これは、こうした制度を創ることは目新しいことではなく、他国では既に実行されている例があるということを示しています。

 日本に来る前に私が訪れた韓国では、住居の権利を国の法律として制定しようとしています。この法律が定まれば、すべての人が住居の保証を得ることになります。韓国大統領は、個人的にとても強力な、制定に向けての支持者なのです。

 フィンランドでも子供のある家族は、ホームレスにならないようにちゃんとした家が与えられます。
 このように、日本と同等の発展度を示すこれらの国々で、国が責任を持って人々を、家を失うことから守るという制度が見られます。他にも人々や組織による、充分な居住権の尊重を目指した、包括的で適切な状況促進のための行動例は、たくさん挙げられます。

 ですから、こうした考え方は特に革新的なことではないのです。

 しかし日本では、こうした保護制度の考え方は、異端視されているようです。


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