私本・プリンセスナイン――如月女子高野球部戦記
1・変装――小中多美、誕生
(1)
1998年4月。
穏やかな日差しの中、造成されたばかりの野球用グラウンドでは、体育会系クラブ特有の大声が響いている。
結成間もない――未だ、反対意見の根強い――如月女子高校の女子野球部が練習を行っているのだ。
理事長・氷室桂子が記者会見まで行って”女子チームで甲子園制覇を目指す”とぶちあげたにも関わらず、現在のところ部員はたったの7名。試合を行うこともままならない。
しかも見たところ、明らかに素人と思われる選手が最低で3人もいる。泥まみれになってまで何故野球なのか。その問いに彼女達自身、答えられないような気さえする。
だがそこは、練習を三塁側ベンチの後方にある木陰に隠れて見守る三田加奈子にとっては、望んでも手に入れることの出来ないすばらしい世界だった。
縁のない丸眼鏡の奥で、加奈子の目が哀しげに伏せられる。
一度は完全に断ち切った筈の世界だった。如月女子高の校長でもある彼女の父と約束したのだ、野球は中学まで、高校に進学した後は学業に専念し、医者を目指すと。
未練は無いはずだった。その練習風景を見るまでは。
「でも、本当は……」
三田は自分の脳裏に浮かんだ言葉を振り払うように頭を軽く振った。その視線はグランド脇にあるブルペンのマウンドに立つ如月女子のエース、早川涼に向けられている。
涼が大きく振りかぶり、左腕を思い切り引きながら右脚を高く蹴り上げ、腰を低く沈めたまま重心を移動させて右足を踏む込む。腰が回転し、左腕が振り抜かれる。球離れの瞬間、音が聞こえそうなほどのスナップで白球を弾き出す。球には鋭いバックスピンが与えられ、伸びのあるストレートとなって18メートル以上離れたキャッチャーミットに突き刺さる。
速いだけでなく、重い。キャッチャーはしばしばミットに収めきれずにボールをこぼしている。
「中学の軟式野球じゃ、あんな凄いピッチャーはいなかった……」
もう一度グランドに立ってみたいのではない。早川涼と一緒にプレイをしてみたい。その思いは膨らむ一方だった。
こうして毎日のように練習を眺め、意識して野球部の話題を集めているうちに加奈子は部員の名前と履歴をほぼ把握してしまっていた。皮肉なことに、”伝統と校風を汚す”と野球部創設に反対する父・三田校長が事あるごとに、野球部に関する話を漏らしていたからだった。
「いくぞ、ファースト!」
「おっしゃ! いつでもええで!」
木戸監督が髪を二つにまとめた関西弁少女を金属バットで指す。関西弁で叫び返している吉本ヒカルは大阪出身で、全国軟式野球大会の最優秀選手だった。
木戸監督がトスをあげ、バットを振る。ファーストへの打球が飛ぶ。ヒカルは無駄のない動作で捕球し、素早く返球する。
「よし、セカンド!」
木戸の打球はセンター返しに近いコースに飛んだ。
「ちっきしょ〜」
ウエーブがかった赤毛のロングヘアを腰まで垂らすセカンドが横っ飛びに捕球し、悪態をつく。セカンド・森村聖良は中学時代は陸上競技のスプリンターとして名を馳せていた逸材だった。野球経験はないが、さすがに運動神経は優れている。着実に野球の技術を身につけている様子だった。
「次、レフト!」
レフトで小さく頷いているセミロングの少女――東ユキはヒカル同様、如月女子高が全国に派遣したスカウト陣に見いだされて、特待生で入学している。全国軟式野球大会の優秀選手である。
木戸監督が打球をレフトに打ち上げた。ユキは全く守備位置から動かず、グラブをはめた左手だけを掲げて捕球した。まるでグラブのほうにボールが吸い寄せられたかのような動作だった。
「次、センター!」
「おう、こんかい!」
精悍な顔つきでセンター・堀田小春がグラブに拳を叩き込みながら応じた。高知出身。選手が足りずに試合が出来ない野球部の助っ人として性別を隠して参加、チームを地区大会優勝に導いたという。その魅力はやはり女子選手離れした長打力にある。
打球はセンター前に落ちようかという当たり。小春は思い切りよく突っ込み、ダイブしてそれを捕球した。
「よっしゃ、ライト!」
木戸監督がそう声をかけてライトに打球を飛ばす。
ライトの守備についている、いかにも今時の女子高生、といった風体――脱色した髪に、健康的な印象を余り感じさせない色艶に灼いた肌――の渡嘉敷陽湖はグラブを構えたものの、直前で身をよじって避けてしまった。
沖縄出身。全くの野球未経験者で、女子野球選手として目立って、いつかアイドルとしてスカウトされるのが夢だという話だった。
「てめえ、ちょっとは真面目にやれよ!」、
聖良が怒鳴っているが、陽湖は堪える様子もない。
同じ野球経験の無い部員でも、事情はそれぞれに違うんだな、と加奈子は妙な感心をしてから、再び視線をブルペンに向ける。
大きなフォームから涼が投じる。キャッチャー・大道寺真央は手元で伸びてくる球の軌道を見誤った。ミットの上縁をかすめた球は、角度を変えてキャッチャーマスクをかぶった真央の顔面に命中した。
「うっ!」
尻餅をついてへたり込む真央。
「”キャッチャー、アウト”ですぅ〜」
横で練習を見ていたマネージャ・毛利寧々が緊張感に欠けるとぼけた声を出した。
「真央、大丈夫!?」マウンドから降りて真央に駆け寄る涼が叫ぶ。
「大丈夫。……ゴメン」
大柄な体躯に似合わない細い声で真央が頭を下げる。涼の全力投球した球を取れる捕手、という第一条件をクリアして柔道部から転部した選手だったが、まだ安定感に欠けるところがあった。
加奈子の腕に抱えられた分厚い本が、圧力を加えられて歪む。自分もあの中に加われたらどんなに素敵だろう。そう思う度、父との約束が自分の気持ちを縛る。その小胆さが恨めしくなる。
やがて練習が終わり、クールダウンを終えた部員達が三々五々部室に引き上げていく。どの顔も加奈子の目には輝いて見えた。
ふと、最後にグランドから出ようとする涼が、加奈子の視線に気づいたのか顔を上げた。加奈子が息をのむ。
「あの、何か?」
涼が不思議そうに小首を傾げて尋ねてくる。加奈子はいたたまれなくなって小走りにその場を逃げ出してしまった。
(2)
(どうして、逃げちゃったんだろ……)
校舎の中にまで駆け込んで、ようやく加奈子は歩調を緩めた。胸の鼓動がまだ収まらない。
急に目があって驚いてしまい、随分と不躾な事をしてしまったと後悔する。一方では仕方ないと自分を慰める。あまりにも涼の存在感が、今の加奈子にはまぶしかったのだ。
借りていた本を返しに行こうと、気を取り直して図書館へと足を向ける。と、前方から話し声が聞こえてくるのに気づき、加奈子は再び緊張した。
「一時は甲子園などと言い出してどうなることかと思ったが、この調子では潰れるのも時間の問題だな……」
「全くで」
話しているのは三田校長と小貫教頭だった。三田校長が加奈子に気づき、しかめ面だった表情を緩める。
「加奈子、勉強は進んでいるか?」
「……はい」
「生徒が皆、加奈子のように真面目に勉強に励んでくれれば、お父さんも苦労しないですむんだがな」
「……」
加奈子には、なにも応えられなかった。
(3)
翌日。昼休み。
加奈子は図書室から校舎に向かう中庭を歩いていた。名門私立女子高校だけあって、中庭といえど本当に金のかかった本格的な公園になっている。
(私が本当にやりたいことって一体……)
図書室には、今まで読みたくても目にすることの出来なかった本、存在自体知らなかった興味深い本がたくさんあり、入り浸っても当分退屈せずに済みそうだった。
勉強に励み、医者になる。それは彼女の父のみならず、加奈子自身にとっても夢である。だが、手を伸ばせば届くかもしれない所に野球部がある。早川涼という、すばらしい投手を擁している。
ショートのポジションにつき、涼の背後を固め、安心して投球に専念出来るようにする。それもまた、加奈子にとっては夢になりつつある。父親の夢に便乗するのではない、自分自身の抱いた夢。
考えながら歩いていると、足下にボールが転がってくるのに気づいた。歩道脇に設置されたベンチに、涼とヒカルが座ってこちらを見ていた。ボールは涼が取り落としたものであるらしかった。
それを拾い上げ、ボールを取り落とした涼の左手に手渡す。加奈子の指が涼の掌に触れた。
「ありがとう。あ、昨日の……」
とまどい気味の涼が何か言いかけた。
「早川さん……」
言いたいことは一杯あった。しかし、いざ涼を目の前にすると思わず言葉に詰まってしまい、何も喋れない。
結局はにかむだけで、またも加奈子はその場を逃げ出してしまった。
「……あの顔。どこかで見たような……」
背後から、ヒカルの声が聞こえてきた。
放課後。
(もう、今日の練習は終わりかな)
しばらくの間図書室で本を読んでいたのだが、どうしても気になって、加奈子は今日も野球部のグランドに足を運んでいた。
グランドには既に涼達の姿はない。加奈子は三塁側ベンチの後方にある部室のほうに周り、窓を覗き込んでみた。
突然、ドアが開かれて、涼が顔を出した。加奈子がぎょっとして後ずさる。
「ようこそ野球部へ! 三田加奈子さん!」
「え、ええっ!?」
部室。
「やっぱりなあ。やっと思い出したで。女子軟式野球の名遊撃手・三田選手や」
ヒカルが一人で頷いている。全国女子軟式野球大会に参加し、最優秀選手に輝いたヒカルは加奈子の顔を覚えていたのだった。
「野球部、入ってくれるよね?」
涼が加奈子の顔を覗き込んで尋ねる。期待に満ちた瞳に見つめられ、加奈子はどぎまぎしてしまう。
「え、その……。ダメなんです」
「入部……出来ない?」
涼が怪訝そうな顔で問い返した。
「はい。本当は私も皆さんと野球がしたいんですけど……。父との、約束ですから」
加奈子はその視線に耐えきれずうつむいた。
「約束?」
「野球は中学まで。高校に進学したら勉強に専念すること。父の夢なんです。私を母と同じ医者にするのが」
「お父さんって、三田校長?」
「はい」
「聞いた話じゃ、校長は野球部に反対してるそうだけど……」
涼が呟くように言った。誰もが苦々しい顔つきで考え込んでいる。
「……そんなの、親の勝手じゃねえか。関係ねえよ」
聖良がロッカーに軽く拳をぶつけて吐き捨てる。どこか声に張りがないのは、親の愛情の大事さを自身もよく知っているからだろう。
手詰まりの状況。それを頓狂な声を出した寧々が救った。
「寧々に良い考えがあります〜。マネージャーにお任せ、ですぅ」
そう言って、寧々は加奈子を連れて部室を飛び出していった。
「どないする気やねんな」ヒカルがあきれ顔で首を振った。
「おまたせ〜」
寧々が弾んだ声を出す。対照的に、寧々と加奈子を出迎えた部員達は声もない。
加奈子は寧々が用意した緑がかった色合いのカツラとコンタクトレンズをつけていた。
「故郷の獅子舞を思い出すのう」
小春がぽつりと呟いた。その言葉通り、寧々が見繕ってきたカツラは、髪の逆立った、かなり奇抜なモノだった。
「変装すればばっちりですぅ、これで校長先生にバレずに試合に出られますね、小中多美さん」
「コナカタミ……?」涼が聞く。
「三田加奈子を逆に読んだんです。寧々、グッドアイデア」
ヒカルや聖良が鼻白んでいるのには目もくれず、寧々は一人ご満悦の表情だった。
(こんなので、大丈夫なんだろうか……?)
釈然としない思いを抱きながらも、加奈子は腹を括った。何より、苦笑しながらも安堵の表情を見せる涼の期待に応えたかった。
加奈子がきっぱりとした声を出す。
「よろしく!」
如月女子高校野球部部員・小中多美こと三田加奈子の誕生だった。
――第二話に続く
ラッキーゾーン(右翼側)に戻る
ラッキーゾーンに戻る
INDEXに戻る