私本・プリンセスナイン――如月女子高野球部戦記

 2・命運――勝った者、負けた者

(1)


 部室。
 練習が終わり、にぎやかに制服に着替えながらも野球部の将来についての話題がつきることはない。
「あと一人、最低でも確保しないと試合にならないね」
「しかも問題は守備もそうやけろど、打力が決め手に欠くことやなぁ。今のところ、長打が期待できそうなのは小春くらいやからね」
 涼とヒカルの会話を聞きながら、加奈子はカツラを外し、コンタクトレンズを眼鏡に変える。嘆息。後ろめたさばかりが心に重くのしかかる。
「そんなに暗い顔しないで、加奈子」
 振り返ると、涼が優しげな、それでいて困惑気味の笑顔で加奈子の表情を伺っていた。
「早川さん……?」
「頼りに、してるから」
「……ありがとう」加奈子は控えめに頭を下げた。
「せやけど、加奈子みたいなごっつええ選手が、これ以上この学校に埋もれてるとも思えへんしなぁ」
「何しろあの監督だからな。頼りになるわけねえぜ」
 手早く着替えを済ませた聖良が、ボリュームのある後ろ髪をかき上げた。
「監督より、理事長のほうじゃない? 9人揃わないチームで甲子園目指せってのも、おかしいわよ」
 化粧を直していた陽湖が、気のない調子で口を挟んだ。聖良の鋭い眼光が陽湖に向けられる。
「オレにとっちゃ、おめえがここにいるってほうがよっぽどどうかしてると思うぜ」
「なによ〜」
 いつもの調子で喧嘩を始める二人。少々辟易した表情の涼が小さく呟いた。
「理事長って言えば……」
 何を言おうとしたのか加奈子が問い直そうとしたとき。
「ユキ、前から気になっとったんやけど。その人形、なんや?」
 ユキの腰にぶら下げられた掌サイズの人形を、ヒカルが指さしながら問うていた。
 この問いかけが一瞬の空白をもたらした。今まで誰もまともにユキと話した経験をもたないからだった。
 が、このときばかりはユキが長いまつげをわずかに伏せ、夢見るような口調で言葉を返した。
「……フィーフィーちゃん」
「フィーフィーちゃん?」
 オウム返しに問い返すヒカルに対し、ユキが小さく首肯する。
「18光年彼方の”ユーカラ星”からやってきた宇宙人。ユキの大事なお友達」
「……」ヒカルがひきつった笑顔を作る。「……へ、へえ。そうなんや」
 世の中にはいろんな人間がいる。この野球部の中ですら、それぞれに事情を抱えているのだ、と加奈子は妙な納得の仕方をした。ふと涼を見ると、彼女も又何かを考え込む顔つきであった。

(2)


 翌日。放課後。
あれこれと会話を交わしつつ部室に部員達が集まってくる。今日も今日とて加奈子は”小中多美”の出で立ちである。
「今日も変装がばっちりと決まってますぅ〜」
 脳天気な寧々の声に、加奈子は一瞬だけ苦笑いを浮かべた。
「これから先もずっと、こうやって……」
 小さくため息が漏れる。今の部はそれどころではない大問題――部員不足――を抱えているのだが。

 と、荒々しく部室のドアが開かれた。一人の女生徒が、険しい表情で立っている。
「いずみさん……!」
 涼が甲高い声を出した。
 加奈子も、相手が氷室いずみ――如月女子高校理事長・氷室桂子の娘にして、天才テニスプレイヤーであることに気づいて、驚きを隠せなかった。
 理事長の娘であるいずみと校長の娘である加奈子は旧知の間柄である。もっとも、接点は余りないので、顔を見知っているという程度のつきあいであるが。
 しばし、不可解な様子でいずみの姿を眺めていた部員達の視線は、涼にのみ発せられる、いずみの殺気にも似た空気を受けて、涼に対して向けられ始める。
「いずみさん?」
 涼の期待に満ちた瞳。だが、いずみの目は冷ややかだった。
「目障りなのよ。貴女の存在は目障りなのよ」
 いずみが言い放った。憤怒の表情に、加奈子や真央はたじろいでしまう。
「なんだおめえ、理事長の娘だかなんだかしらねえが、喧嘩売りに来たのか?」
「いきなり”目障り”とは、ちくと筋違いじゃろう?」
 一方、血の気のたぎる聖良や小春は、気合い負けすることなくにらみ返している。
 一触即発の空気が流れたその時、場違いな雰囲気で木戸監督がいずみの後ろから姿を現した。
「ついにその気になったか? 野球部に入団する気に」
 木戸監督が笑っていずみの肩を叩く。
「莫迦言わないでよ。誰が」
その手をふりほどいたいずみは厳しい表情を崩さず、せせら笑う。涼の存在、そして野球部がこの学校にそぐわないと再び断言する。
「じゃあ勝負というのはどうだ? はっきりケリをつける、良い機会だ。ここでぐちゃぐちゃ言い合ってるより、よっぽどすっきりするぜ」
 木戸監督が動ぜずに長髪気味の台詞を投げかける。
 涼といずみ、共に異論は無かった。
 勝負の内容は簡単だった。涼の投げる球をいずみが金属バットで打つ。無論、部員全員が守備についた状態で。出塁さえ出来れば(四死球でも)いずみの勝ち。ホームラン性の当たりでもアウトに出来れば涼の勝ち。
 いずみが勝てば、涼は退学、野球部は解散。反対に、涼が勝てばいずみは野球部に入部する。
 勝負は明後日と決められた。

「一体、何があったの?」
 いずみが去った後、加奈子が厳しい表情で立ちつくす涼に尋ねる。我に返った表情で加奈子のほうを向いた涼が、作り笑いを浮かべた。
 涼は入学前、テニスを”教えて”貰ったこと。その後テニスのボールを使って、野球の勝負をしたが、決着らしい決着は付けられなかったこと。そして、二度に渡っ、いずみを野球部に勧誘したが、そっけなく断られたことを簡単に説明する。
 加奈子には、それだけのことで何故いずみが「目障り」と言下に断じるほど涼に敵愾心をむき出しにするのか判らなかった。
 しかし、加奈子にはそれ以上のことを尋ねることが出来なかった。そこまで個人的な内情に踏み込めるほどの連帯感を有していないのだ。
 寂しい思いを噛みしめる加奈子だった。

「さあ、練習しなきゃ」
 涼が自分に言い聞かせるように声を出した。グラブをひっつかみ、部室を飛び出す。
「大変なことになったね」
 真央が不安げに言って、涼の後を追う。
「涼、勝てるやろか」
「相手はテニスの天才じゃ。運動神経は抜群ぜよ」
 ヒカルと小春がささやき合う。加奈子は自らに言い聞かせるように口を開いた。
「結構、条件としては悪くないはずよ。いくらテニスの天才でも、野球は素人なんだから」

 バックネットにたてかけられたマットに、白球が突き刺さる。重い音が響く。
 涼は特別メニューを組み、いずみとの勝負に向けての猛練習を始めていた。
「大した気合いじゃ」
「あの球打てる奴はいねえよ」
 通常メニューの練習を終えた小春と聖良が感嘆の声を漏らす。
「だけど。私達にも出来ることがあるはずよ」
「ウチらにも出来ることゆうたかて。勝負は涼といずみがやるんやで?」
 ヒカルの問いかけに、加奈子は静かに首を横に振った。
「勝負は、早川さんが出塁を許せば負け。つまり、私達のエラーでもダメなのよ」
「それに」小春が得心した表情でうなずく。「ウチらには、サードがおらん」
 その言葉に、何人かが今更のように驚いた表情を見せた。
「監督、判ってるのかな?」真央が不安そうな声を出す。
「とにかく、バックはしっかりと守りましょう」
 加奈子の言葉に、部員達が頷き合った。陽湖だけが不要領な顔つきだったのが、加奈子には気になったが。

(3)


 涼といずみとの勝負の当日。
 グランドに現れたいずみの姿に、ウォームアップを始めていた部員達は声を失っていた。
「なんや、ボロボロやないけ?」
「こりゃまた、ずいぶん派手に特訓してきたみたいだなあ」
 ファーストとセカンドの守備位置についたヒカルと聖良が軽くボールを投げ合いながら、頷き合ってあきれ声を出す。
 それほどまでに、いずみの格好は凄まじかった。
 テニスウェアはあちこちがすり切れて破れ、肘や頬には、自打球のものと思しき痣まで見える。手にはテーピングが巻かれているが、遠目にも血がにじんでいるのが見て取れる。
 だが、その有様とは対照的に、いずみの眼にははっきりとした自信が宿っている。
(相当、マシン相手に打ち込んできた証拠ね。でも、涼の球はマシンの球とは違う。それに、あんなオーバーワークでは、とても全力なんて出せやしない)
 加奈子は自らに言い聞かせた。そうしないと、特訓に裏打ちされたいずみの自信に気合い負けしそうだったからだ。
「負けはしない。こっちはずっと、野球一筋に練習を積んできたんだから。野球の球をヒットに出来るのは野球選手だけ」
 加奈子は緑のカツラのずれを気にしながら、空席になったままのサードのポジションを見た。ユキとキャッチボールをしながら、頭の中ではめまぐるしい思考が渦巻いている。
「よし、守備練習終わり!」
 木戸監督の声を受け、涼――真央、ヒカル――聖良、加奈子――ユキ、小春――陽湖の間で投げ交わされていたボールが一塁側ベンチ前に集められた。各自が守備位置を確認し直す。
 加奈子は思った。
 サードに穴を空けたままで良いのだろうか?
 だが、八人しか部員がいない事実は変わらない。どこかにしわ寄せが来るのは致し方ない。
 そもそもサードは右バッターが引っ張る強烈な打球が襲いかかる場所だ。素人を配する事は出来ない。
 かといって、いずみの長打力を考えると外野の野球経験者、ユキと小春のどちらかを回してくる訳にもいかないだろう。ゴロになった場合、送球しなければならない以上は、ファーストもやはり経験者――ヒカルを置く以外には考えられない。
 何も考えていないように見えて、右打者の打球が飛ぶ可能性の低いライトに陽湖を置き、鋭い打球が飛ばないセカンドに野球未経験者の聖良を任せているのは合理的な布陣なのだった。サードとショートを自分一人が守らなければならない、という一点を除いては。
 木戸監督は守備位置に関しては何も指示を出さない。いずみを打ち取る事を本気で考えていないのか。それとも、テストされているのは私達のほう?
 加奈子は視線を左右に走らせる。ついで振り返り、外野の陣形を確認する。気に入らない。
 このままでは、悔いを残す結果になりかねない。
 指示を出すべきだろうか。しかしそれは、あまりにスタンドプレイに過ぎるのでは?
(いや、違う)
 加奈子は弱気の虫を頭の中で押し潰す。ここは野球のグランドであり、自分が立っているのは守備の要・ショートのポジションだ。そして今の自分は三田加奈子でなく――小中多美なのだ。三田加奈子の弱気を引きずる必要はない。何のための変装なのか。
 加奈子は三塁側に可能な限り寄り、深い位置で足元を固めた。それから大きく息を吸い、一瞬、腹に気合いを溜めてから、声を絞り出す。
「ヒカル、もっと中に入って!」
「え? ああ……」
 いきなり声を掛けられて虚を衝かれた風情だったヒカルだが、流石に経験者だけあって、加奈子の意図を瞬時に把握した。得心した顔つきで一塁ベースから離れる。
 それを確認してから、今度はセカンド・聖良を呼ぶ。
「聖良は外について!」
「外ってなんだよ!?」声を荒げて聖良が聞き返す。加奈子より先に、ヒカルがそれに答えた。
「セカンドベースに張り付いとけ、ちゅうこっちゃ」
「……判った。経験者の言うことだからな」
 聖良もじりりと守備位置を変更した。
「ユキ! そっち飛ぶわよ、二メートルバック!」
 加奈子がグラブを振って押し下げる合図をすると、ユキはゆっくりとフェンス寄りに動いた。
「小春はもっと前に、レフト寄りに」
「ライトは”ざる”ぜよ? ええがや?」
小春が問い返してくる。陽湖の守備のカバーも考えねばならない立場だから当然だった。
「構わないわ、右に大きな当たりは飛ばない」
「よっしゃ」
 加奈子の自信に満ちた声に、小春も納得して左に寄って構える。
「陽湖は前に詰めて!」
「ふ〜ん」意図を把握出来ていない陽湖がすたすたと前に出る。
「加奈子、どうしたの、急に?」
 涼が驚きを隠せない表情で振り返っている。
「負けたくないでしょ、早川さん? 私もそう。だから、出来ることは全部やっておきたいの」
「……ありがとう」
 その言葉に、加奈子は先日の涼との会話を思い出して胸が熱くなった。
「早川さん、頑張って。絶対守ってみせるから。あと、一塁カバーを遅れずにね。一塁にゴロが飛んでも真央と聖良のカバーは当てに出来ないから」
「判った」涼の瞳には闘志の色が伺われた。きっと勝てる、加奈子はそう信じた。

 涼の初球。正々堂々、ド真ん中に球速130キロ超のストレートが叩き込まれる。いずみが金属バットを振り抜く。詰まった。芯を捕らえきれないやや鈍い音。
 打球は力無く、一塁線ぎりぎりに上がる。
(やった! やっぱり右には強い当たりは飛ばない……)
 加奈子が内心で快哉を叫ぶ。が、次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにして絶句する。
 ライト・陽湖が全く捕球の体勢に入っていない。
「莫迦、なにやってるんだ!」
 聖良が青筋を立てて怒鳴るが、陽湖はポカンと棒立ちになっているだけだ。
 幸い打球はファウルゾーンに落ちてむなしく跳ねた。ラインの内側に落ちていたら一巻の終わりだった。
(素人とは思っていたけれど、まさかここまで……)
 加奈子は明後日の方向を向いて、奥歯を強くかみしめた。一方、いずみが初球からバットに当ててきた事に舌を巻かざるを得ない。
 そしてその打法。小さなテイクバック、スクエアスタンスからオープン気味に踏み込む足捌き。今回はややアッパー気味にぶれているが、本来であれば理想的なレベルスイングを生み出すであろうグリップの高さと、バットの傾斜具合。
(あれは、如月高校・高杉宏樹の打法……)
 加奈子はテレビで見た高杉のバッティングを思い起こし、納得していた。なんのことはない。今、高杉当人が一塁側ベンチの前で涼といずみの対決をユニフォーム姿で観戦しているのだ。二人が幼なじみ――許嫁という噂もある――であることは、加奈子も以前から耳にしている。
 如月高校入学当時から既に超高校級と評される屈指のスラッガーの指導を受けたことは容易に想像が付いた。だけど、と加奈子は思う。名選手が名指導者とは限らない。たとえ形を部分部分では真似出来ても、一個の流れとして完成されていなければ意味がない。たった二日。出来るわけがない。

 二球目。涼が振りかぶった。さきほどの痛恨の打球にもめげず、すばらしい伸びのストレートが投げ込まれる。
 いずみのバットが旋回する。が、綺麗に空を切る。いずみが金属バットの先端を睨んでよろめく。
「これでツーナッシング……。あと一球」
 涼は依然として緊張した表情だが、いずみのほうはより切羽詰まっている。
 加奈子は内心で安堵する。
 やはり、練習過多が響いているのだ。おそらく掌の皮がマメにならないうちに、皮がずる剥けになって、相当酷い事になっているのだろう。テニスのラケットと金属バットではグリップ一つとっても全く別物だ。おそらくバットを持つだけで痛みが走るくらいの状況になっている。
 涼は油断することなく、三球目を投じた。コーナーを衝かず、ど真ん中に投げ込むのは単に真っ向勝負を望んでいるからだけではないのだろう。万一真央が逸らし、振り逃げで出塁などされて負けたのでは悔やんでも悔やみきれない。
 だが、己の身を切り刻むいずみの執念が、涼の重い速球に勝った。やや詰まり気味ながらも打球はピッチャー返しになって涼の足元を襲った。
「!」腹の冷えるような緊張が加奈子の全身に走る。セカンド・聖良のバックアップにまわるべく二塁側に駆け寄る。
 涼が反射的にグラブを差しだす。その眼前でボールが跳ねる。
 センター前に抜ければ一巻の終わり、と思われた瞬間、奇妙な方向に打球がイレギュラーバウンドした。大きく跳ねた打球は三塁線に転がる。しまった、と加奈子が体の重心を三塁側に傾けるが、その時には球がそのままラインを割っていた。ファウルである。
「どうなったの!?」
 マスクを脱ぎ捨てた真央が涼に尋ねている。
「打球がここに当たって跳ねたのよ」
 涼が足元の、打球が当たった辺りを軽く足でなぞった。投球時、右足を踏み込む辺りだった。マウンドが足の形にえぐれている部分だった。
「惜しかったな。このままこっちに飛んできてりゃあ、捕ってやったのによ」
 セカンドのほとんど塁上で構えていた聖良が、血相変えてバックアップに回りかけていた加奈子を不思議そうに見ていた。
「ええ。でもファウルになったのは助かったわ。サードの守備位置のフェアグランド辺りに転がって止まっていたら、誰も捕れなかった」
「まあな。でもよお、加奈子の言ったとおりに守っていたら、ちゃんと打球が飛んで来るところだったな」
 聖良が感心したように言ったが、加奈子は胸の鼓動が容易に収まってくれないことに憤慨していた。同時に、喩えようもない恐怖を感じる。
「頑張って、早川さん!」
 涼の球にタイミングがあい始めている。まぐれや出会い頭で、あの速球をセンター返しには出来ない。やはりいずみは嘗めてかかってはいけない相手なのだった。
 涼がうなずく。その表情にはどこか迷いが感じられた。
「ツーストライク、ツーストライク!」
 加奈子がなおも大声を出して、守備に散る仲間達を励ます。それに呼応する声を聞きながら、加奈子はどうも自分の所に打球が飛んできそうな予感を感じていた。
 真央がマウンドに駆け寄って涼と何事か話し合い、再びキャッチャーズボックスに戻る。
 四球目。二度に渡ってバットに当てられている事に脅威を感じたのか、涼はなかなかモーションを起こさない。真央はサインを出すほど配球を考えることが出来ない。まだ涼の球を捕ることで精一杯。コース・球種の組み立ては全て涼一人が行っている。
(ここは変化球で……)
 加奈子は祈るような面もちで、涼の背番号1を見つめる。
 本当ならクロスファイヤ気味に内角高めいっぱいに放り込んでいずみの身体を起こさせ、次いで外角低めに逃げるシュートでバットに空を切らせる、あるいはバットの先端に引っかけさせるのがセオリーだが、ここで下手に内角を狙った球が甘く入ると危険な面があった。いずみの全身で向かってくる気迫を考えると、死球になる可能性もあるからだった。
 いずれにせよ、いずみは打ち気に逸りすぎている。少々のボール球でも手を出して来るだろう。その点を考えると、外角高めの釣り球という手もある。が、逆にテニスの広いコートを走り回って球に飛びついていた経験のあるいずみにとっては、その程度のボール球では食いついて来られる可能性もある。
 今までの経過を考えると、守備に期待出来ないとも言える。確実に三振で切って取るには、変化球でタイミングを狂わせるのがこの場合最良だった。
 涼がプレートを踏み、ゆっくりと振りかぶった。投げる。
(えっ!)
 加奈子は再び目を疑う羽目になった。すっぽ抜けたか、打ち頃の緩い球がストライクゾーンに吸い込まれるように向かっていく。
 いずみが強振した。ほんのわずか、速球に合わせていた分だけミートのタイミングがずれ、バットの出が速い。打球は三塁線に。
「来た! ……野球部は、無くさせない!」
 加奈子が左足をクロスステップして踏み込む。横っ飛びに飛んで、あわや抜けようかという打球を掴み取る。だが、サードとショートの両方を一人でカバーしていたのだ。守備位置は極端なまでに深い。
(届くかしら……!?)
「ヒカルッ!」
 起きあがりざま、腕も折れよとばかりに全身の力を込めて一塁に投じる。しかし哀しいかな、加奈子の肩では地面と平行に飛ぶ矢のような送球とはいかない。緩やかな曲率のやまなりの送球になっていた。視界の隅に、全てのプライドをかなぐり捨てて一塁ベースに向かって走るいずみの姿が入った。
「よっしゃーっ!」
 ヒカルが左腕をめいっぱいに伸ばして送球を受ける。いずみが頭から一塁ベースに飛び込んだのと、タイミング的には全く同時だった。
「……セ、セーフ!」
 一塁線審の役を買って出ていた涼の幼なじみ・夏目誠四郎が無情にも両腕を水平に広げた
(そんな……)
 加奈子は両膝をその場について、へたりこんでしまった。だが、涼が自分以上にショックを受けていることに即座に気づき、己を叱咤して立ち上がる。
「早川さん……」
 涼もまた、マウンドの上にうずくまっていた。
「ごめん……」
 涼の消え入りそうな声を聞き、加奈子は気が遠くなりそうだった。全て終わってしまった。変装してまでやりたかった野球。いや、自分は本来の高校生活に戻るだけのことだ。だが涼は違う。彼女の敗北はすなわち退学を意味しているのだ。
 九人目の部員を獲得し、チームとしての体裁を整えるはずだった野球部に、予想もしなかった最大の危機が迫りつつあった。

 ――第三話に続く

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