熱球戦録ヴァルキューレナイン

――プリンセスナイン・プロ野球編


第一話




(1)


 2002年10月。
 東亜製菓の社長であった父の死が、全ての始まりだった。
 少なくとも、病床に伏してしまった母親に代わって喪主としての務めを果たし終えた東ユキは、そう確信していた。
 父は、日本有数の菓子メーカーである東亜製菓を、ほとんど一代で築き上げたほどのやり手であった。
 それ故に、というべきか、それにもかかわらずと評すべきかはユキも迷うところだが、彼女の父は日本人的な因習を何よりも嫌っていた。
 葬儀に際しても、彼は生前よりキリスト教式を徹底するよう遺言を残しており、その最後の願いは愛娘によって聞き届けられてはいた。
 むろん、その性向云々は別にしても東亜製菓はれっきとした会社組織であり、その死をもって会社の経営が終わりを告げるわけではない。
 同族会社でもなく、ユキに直接の経営権が回ってくる訳でもない。今の彼女は二十歳の女子大生に過ぎない。
 父が興した会社を引き継いだ者達が示し始めた経営方針の転換も、やむを得ないことであった。
 ユキは哀しみと諦めが入り交じった目で、父親が生涯を捧げた会社が、ゆっくりと、着実に変わりゆく様を眺める事しかできなかった。
 しかし、経営改革のプランの一つに、保有するプロ野球チーム・千葉マートレッツの身売りが含まれていると知り、傍観者ではいられなくなった。
 もちろん、今日明日にも、という話ではないが、来シーズンの成績が振るわずにBクラスに甘んじることとなれば、保証の限りではないだろう。水面下での交渉が始まったという話も、父の腹心だった者からも漏れ聞こえてくる。
 確かに今のマートレッツは弱い。従って観客動員数も見込めず、経営面では足かせになっている点は否めない。
 しかしながら、何十年と渡って東亜製菓の名を全国に知らしめてきた事も軽視できないはずだった。そしてなにより、父親が誰よりも愛したチームを、赤字だからという理由だけで簡単に手放すことを、ユキは認める訳にはいかなかった。
 とはいえ、いまや東の名が通用する余地はどこにもない。直接的に身売りを阻止する術を、ユキは持たない。
 無力感に打ちひしがれたユキは、チームを救うために自分になにか出来ることがないか必死に思いめぐらせた。
 いたずらに時が過ぎる中、一つのプランが脳裏に輪郭を描いていた。

(2)


『おでん・志乃』。
 酔客でにぎわう店内に、いかにも場違いな品の良いスーツ姿の女性が入ってきたのに気づいた早川涼は、その顔を見て目を丸くした。
「ユキ! 久しぶりね」
「本当に」
 小さく笑い、頷き返したユキだが、その表情は曇りがちである。
 その意味を、涼はすぐに理解した。いや、理解したつもりになった。
「お父さんのこと……、残念だったね」
 東亜製菓社長死去のニュースは新聞にも掲載されているほどだから、涼も既に知っている。もっとも、涼が最初に知ったのはかつてのチームメイト・三田加奈子からの電話だったのだが。
「うん」
 父親がいないという点では、涼のほうが先輩である。ユキも元々取り乱して泣きじゃくるような性格ではなく、気持ちの整理がついた今は淡々としたものだった。
 カウンター席に着いたユキの前に、涼は自ら見繕ったおでんを山盛りにした器を置き、自分も隣の席に座る。
「これ食べて、元気だして」
 同時にユキには見えないように、片手拝みで母親に謝る。志乃もまた、訪れたのが高校当時の仲間であることは知っており、微笑みを浮かべて頷いていた。
「……実は、涼にお願いがあって来たの」
 箸を手にしたユキが、ささやくような声で言った。
「お願い?」
 首を傾げる涼を前にしたユキは、すぐにはその事に触れず、ちらりと涼の母親・志乃の姿に目をやった。酔った客を相手に優しく応対する様に、目を細め、さらに表情を暗くする。
 その様子に、涼も困惑していた。もともとユキが饒舌でないことは知っている。だが、数年ぶりにやってきてお願いがあると言い出されても、なにを頼まれるのか想像もつかない。
「ユキ……。話しにくいことなのかも知れないけど、なんでも言ってよ。わたしに出来ることなら、協力するよ?」
「ありがとう、涼。貴女、まだ野球はやってるの?」
「野球? うん、まあ、町内の草野球に出てるよ」
「草野球……」
「まあ、甲子園のマウンドに立ったピッチャーが、って言われたらそれまでだけど。この店のこともあったし、別に後悔はしてないよ。草野球も楽しいしね」
「そう……」
「それが、どうかしたの?」
「貴女に、マートレッツに入って欲しいの」
 涼が目をしばたかせた。言葉の意味を理解するのに数拍を要した。
「マートレッツ、って、千葉マートレッツ?」
 こく、とユキがうなずく。
「急にこんな話を持ってきて申し訳ないと思ってる。だけど、チームを救うためにわたしが出来ることと言ったら、それ以外に思い浮かばないの」
 ユキは、チームの置かれている現状を率直に語った。身売りを逃れるためには好成績を残すしかない。投手力・打撃力ともに物足りない現在のマートレッツを立て直すには、涼の力が絶対に必要だと、高校時代三年間ですら見せたことのないほどの熱弁を振るい、涼を説得した。
 涼は黙ってその言葉に聞き入っていたが、
「……ごめん」
 ややあって、深々と頭を下げた。
「そりゃ、お父さんもプロ野球で活躍していたから、わたしもプロになってみたいって気持ちもあった。だけど、やっぱり無理だよ。お店のこともあるし……」
 プロへの憧れはともかくとして、涼は母親に苦労を掛けさせたくはないのだ。
 ましてや、父親は八百長疑惑でプロを逐われたまま、失意のうちにこの世を去っている。心根の優しい志乃は決して表には出さないが、プロを恨んでいたとしても不思議ではない。
「そう……。すぐに良い返事がもらえるとは思っていなかったけど、残念だわ」
 ユキが、おでん美味しかった、と言いながら勘定を置き、席を立つ。
「でも、私は、あきらめないから」
 そう言い残して、ユキは去っていった。
 涼はうつむいたまま、固く閉じた自分の両拳を見つめていた。

(3)


 お嬢様学校として名高い三葉短期大学のキャンパスは、れっきとした私立女子大の大学生であるユキが思わずたじろいでしまうほどの、浮き世離れした雰囲気があった。
 キャンパスを貫くレンガ敷きの通りの両側には銀杏の木が等間隔で並び、舞い落ちた黄色い葉が、風が吹き抜ける度に舞い散る。
「それでわたしに? 涼がダメだったから、なんて言われてハイそうですかと言うと思って?」
 通りの脇に置かれたベンチに腰掛けた氷室いずみは、あからさまに不快の表情を浮かべ、小さく鼻を鳴らした。
 尋ねてきたのが高校当時の仲間であるユキでなかったら、お引き取り申し上げていたことは間違いなかった。
「そういうつもりでお願いしにきたのではないんです、いずみさん」
「なら、どういうつもり? さっきの話を聞く限り、私に涼の代わりをしろと言っているようにしか聞こえなかったけど」
「そうじゃないんです。わたしは、いずみさんに涼の投げる球を打って欲しいんです」
「涼の球を?」
 いずみの眉がぴくりと跳ねた。
「はい。如月女子での三年間、二人が真剣勝負をする機会は、入部当時の対戦だけでした。あの時は経験の面であきらかに涼にアドバンテージがありました。互角の条件で勝負したらどちらが勝つのか。いずみさんはそのことを考えたことはありませんか?」
「プライドをくすぐりたいのなら、もうちょっとうまい言葉を選んで煽るべきね」
「ごめんなさい。弁舌の才能はありませんので」
「まあいいわ。で、私が涼に勝ったからって、貴女になんの得があるの?」
「涼のことをあきらめられます。どうしても涼にはマートレッツに入って欲しいけど、ブランクのあるいずみさんにすら打たれるようなら、どのみちプロでも通用しないと諦めることが出来る……」
「随分と勝手なことを言ってくれるじゃないの。不愉快だわ。どうあっても私を当て馬にしたいつもりのようね」
「ダメですか?」
 覚悟はとうの昔に決めているのか、ユキは悪びれることもなくいずみの目をまっすぐに見据えている。いずみが鼻白んだ。
「貴女ねぇ……。まあ、いいわ。確かにわたしはこの二年、金属バットすら握っていないわ。ブランク云々は否定出来ない。で、涼のほうはどうなの?」
「草野球には参加しているって言っていたわ」
「はっ。とんだお笑い草じゃない」
 いずみは短く笑った。
 皮肉といえば皮肉なのかも、と内心で思っている。
 世界に通用するテニスプレイヤーの地位を捨ててまで野球に打ち込んだ自分は高校卒業後は野球から足を洗い、一方、高校進学よりおでん屋を選ぼうとしていたはずの涼は、今でも底辺とはいえ野球を忘れていない。血のなせる技だろうか。
 思えば、この二年の間、自分はいったいなにをしてきたのだろう。
 涼が、大学への進学も就職して社会人野球に参加するという道も選ばず、家のおでん屋を手伝うと決めた時、いずみもまた野球を捨てた。涼と共に戦えない野球に、魅力など感じなかった。
 だが、勉学に打ち込むなど、最初からいずみにとっては考慮の外だった。どのみち役に立つとも思えない勉強で二年を無駄にするぐらいならば、といずみは名ばかりは有名な短大に進学し、来春の卒業を前に既に就職も決めている。
 親のコネと言ってしまえばそれまでだが、教育関係の仕事で、ほぼ志望通りの職場だった。
 穏やかで、何一つ不自由もない日々。この二年間、一度たりとも切ることのなかった後ろ髪に手を触れさせる。高校入学当時には及ばないが、それなりの長さに戻っている。その長さが、二年という歳月を雄弁に物語っている。
 全て自分がそれを望んだ筈なのに、何もかもが急にひどく色あせたような気がした。
「いずみさん……」
「いいわ。付き合ってあげる」
 いずみの言葉。途端にユキの顔が輝いた。
「本当?」
「半端な時期かもしれないけど、そろそろ同窓会をやるのも悪くはないでしょ。ただし、やるからには真剣勝負よ。一ヶ月あれば昔の勘も多少は戻るでしょう。もし涼がしっかりトレーニングしてこないようなら、わたしもこの勝負には乗らないわ」

(4)


 数日後。
「はい、『おでん・志乃』でございます。……あ、はい。先日はわざわざ。はい。おります。しばらくお待ち下さいね」
 電話の応対に出た志乃が、涼を呼んだ。
「私? 誰から?」
「東さん。この間来られていた――」
「ユキから? どうしたんだろ」
 言いながらも、おおよその見当はついていた。プロ入りに関する話なのだろう。
 正直、きっぱりと断りきれない思いが胸の内には潜んでいる。うまく説得されたい、という思いもある。ユキがどんな手で交渉してくるのか、半ば楽しみにしながら涼は受話器を受け取った。

 五分後。
「東さんは、なんて?」
 電話を終えて店に戻ってきた涼に、志乃が訊ねた。
「ん……」
 涼は表情が冴えず、歯切れも悪い。
「プロ野球にスカウトしたいって話なんでしょ」
 志乃が決めつけるように言った。気を回して言葉を濁している涼を逆に気遣っての言葉だった。
 前回ユキが尋ねてきた際に、涼は話の内容を志乃に伝えていた。志乃は涼の好きなようにやればいいと言ったのだが、涼のほうがむしろ店のことを気にしていた。
 如月女子高への入学に際しても、涼は無理を聞いて貰ったという負い目に似たものを感じている。同じ事を二度繰り返したくはなかった。
「うん……。でも、無理矢理ってわけじゃないの」
「どういうこと?」
「勝負しろって。で、相手がいずみさんなの」
 涼はユキに聞かされた勝負の内容を説明した。
「まあ。でも、勝敗を決めると言っても、それがプロ野球入りとどう関係するの」
「ユキは保険をかけたんだと思う。どっちが勝っても本当はかまわないんだよ。わたしの闘志に火が着けば、勝敗にかかわらず、プロ入りを目指すだろうって考えてるんじゃないかな」
 涼は、ユキの思惑をほぼ正確に見通していた。
 涼が勝てば野球の面白さを思い起こし、その血が騒ぐ。負けて入団するのでは士気が伴わないが、それでも生来の負けん気が頭をもたげれば心配はない。そんなところだろう。
「涼。わたしからはもう何も言わないわ。自分の人生なんだから、自分でしっかり考えなさい」
 志乃は、涼を半ば無理矢理に仕事からあがらせた。確かに、客の応対に追われながら人生を考えろと言うのも酷な話だった。
「お父さん、どうすればいいと思う……?」
 促されるままに奥の間に戻った涼は、仏壇に向かって手を合わせた。おぼろげな記憶の中にいる父親に向かって心の中で問い掛ける。
 返事が戻ってくる訳ではない。本当に問いかけているのは自分自身の心に対してだ。そして、答えは最初にユキから話を持ちかけられた時点で見えていたのだ。
 逃げるわけにはいかない。その思いが胸の中でしっかりとした形を伴いはじめていた。
 今回が最後だ。
 いずみに勝って、未練を断ち切る。
 そう決意を固めると、にわかに勝負への熱い思いがわき上がってくるのをはっきりと感じた。
 ユキの思惑通りに動かされていることに苦笑いを浮かべる。
 それでも構わなかった。ユキの胸中を思えば、こんな形で決着を付けさせてくれることに、むしろ感謝したい気分だった。
「明日から、特訓ね……」
 小さな独り言。その響きの心地よさに、涼はひそやかな満足を感じた。

(5)


 一ヶ月後。
 勝負の場所は涼のホームグラウンドである河川敷の草野球場だった。
 寒風吹きすさぶ、お世辞にも整った環境とは言い難い場所だったが、むしろ一対一の決闘であることを考えると、不思議と似合っているようにも思われた。
 いずみが『同窓会』と口にした通り、涼、いずみ、ユキの当事者の他にも、三田加奈子、大道寺真央、堀田小春、毛利寧々といった如月女子高野球部の草創期を支えた懐かしい顔ぶれが、立会人という名目で集まっていた。
 今も如月女子高で監督を務めている木戸監督も、審判役として呼び出されていた。
 ちなみに現在の如月女子高野球部は質・量ともに当時を上回るはずのチームとなっているが、個性派集団とは言い難く、小さくまとまっている印象がある。往時を思い出さずにいられないであろう木戸監督の胸中はどのようなものか。
 もっとも、数名欠席者もいた。
「聖良とヒカルはまあ仕方ないにしても、陽湖も来なかったか。ちょっと残念だね」
 加奈子が肩をすくめる。高校三年の夏まで部活動を全うしながらも、彼女は国立大学の医学部に現役合格を果たしていた。医学生として忙しい日々を過ごしており、かつての仲間を再会するのは卒業以来だった。楽しみにしていただけに、全員が顔を会わせられなかったことを悔しがる。
「ああみえて、ちゃんとアイドルをやってるってんだから不思議よね」
 と、真央。今日はかつてのバッテリーを再現すべく、ミット持参での参加である。
「陽湖のことはともかく、こうなってみると興奮で背筋が震えるわ。涼といずみが真剣勝負をやるなんてな。……四年制の大学になんぞ、やっぱり行くんやなかったか。プロに行くにしても、あと二年待たにゃいかん」
 小春が感慨深げに、そして悔しげに呟く。
 彼女は父親の強い勧めにより、大学に進学していた。難関であるセレクションに合格し、今では関東六大学野球の花形選手となっている。
 近況報告と思い出話に花を咲かせているところに、準備を終えた涼が姿を見せた。
「昔のユニフォーム、なんとか着れて良かったよ」
 如月女子高の試合用の桜色のユニフォームに身を包み、涼は照れくさそうに笑った。草野球で使っているユニフォームでも構わなかったのだが、やはりそれなりにこだわっているのだろう。
 が、少し離れた場所で素振りをしているいずみの姿に目を留め、真顔に戻る。
「練習はしてきたでしょうね。ブランクを理由にした言い訳は認めないわよ」
 金属バットを振り抜く手を止めて尋ねるいずみの表情は、削ぎ落としたように鋭い。伸びた髪を首の後ろで束ねている他は、昔の印象を全く裏切らない。
 彼女が着ているのは、涼とは対照的に白い練習用のユニフォーム。しかも、相当に使い込まれているらしく薄汚れている。涼に勝つために練習を積んできたにしても、バッティングの練習だけでこのように汚れるとはちょっと考えにくい。
「判ってる」
 涼が深くうなずき、マウンドに向かう。装具を確認した真央が、キャッチャーズボックスへと走る。
「どっちも頑張って下さい〜」
 寧々の、相変わらず緊張感に欠けた声援が、吹き抜ける風にかき消される。

 真央を相手のウォーミングアップを見つめる小春の口から、感嘆の声が漏れた。
「速いな。高校の時より速くなっとるかもしれん。大した奴じゃ」
「涼はまだ発展途上だったんだね。たしかに凄い」
 加奈子もまた、目を輝かせて涼の球に見ほれる。その傍らでは、この勝負を演出することとなった東ユキが、祈るような視線を向けている。

(一ヶ月で、きちんと野球勘を取り戻したようね)
 真央を座らせて、伸びのある速球を投げ込む涼の姿に、律儀にネクストバッターズサークルで控えるいずみは、静かな満足を抱いた。そうでなくては、この一ヶ月の間、自分がこなしてきた特訓の意味がない。
 これほどまでに胸が高鳴るのは久しぶりだった。
 それだけでも価値はあった。そう思えた。だが、これは単なる同窓会では終わらないのだ。
「絶対に、打つ」
 自らに言い聞かせるように、呟きがこぼれた。

 涼のウォーミングアップが終わったのを見計らい、いずみが右打席に入った。
 スクエアにスタンスを決め、ぴしりとバットを構える。その所作もまた、高校時代からなにも変わっていない。周囲を圧する風格はむしろ増していた。
「勝負は一打席。ヒット性の当たりを打つか、四死球を選んだらいずみの勝ち。打ち取るか三振なら涼の勝ちだ」
 審判をつとめることになった木戸が、難しい表情で宣言する。いつも緊張感に欠けていたこの男も、かつての教え子がプロ野球を目指すか否かの瀬戸際に立つこの場面では、日頃は押し隠している真剣さを表に出さざるを得ない。
 涼もいずみも無言で頷く。
 そして、涼がゆっくりとワインドアップモーションを起こし、右足を蹴り上げ、大きく踏み込んで初球を投じてきた。
 身体が縦回転するような躍動感ある投球フォームから放たれたのは、時速百四十キロ近いストレート。
「ぐっ!」
 うめき声をもらしたのは打席のいずみではなく、真央だった。
 大学進学後は柔道部に籍を置く真央は、勘が取り戻せていないのか、涼の球を肩にあてていた。プロテクターを完全装備していなければかなり危ないところだった。
「大丈夫か」
 地面にはいつくばるような恰好になった真央を、木戸が助け起こす。
「大丈夫です……。涼の球、昔よりホップするみたいですよ、監督」
 痛みに顔をしかめながらも、真央の口調はむしろ楽しげに聞こえた。
「みたいだな。いずみ、今のはストライクだぞ」
「判っています」
 木戸にストライクを宣告されても、いずみは顔色一つ変えずに頷いていた。
 もっとも、内心は表情とは異なる。
 涼の球を、はっきりと目で追うことすら出来なかったのだ。残像のような影が、ホームベースに突き刺さるような角度で飛び込んできた、見えたのはそれだけだった。
(あれが、ストライクになるなんて……)
 打席を外し、軽い素振りを二度、三度と繰り返す。
 この一ヶ月、いずみは特訓に次ぐ特訓を重ねてきた。スイングのスピードは言うに及ばず、身体のキレも高校生当時を凌駕するほどになり、少なからぬ自信を胸にこの場に乗り込んできた。
 それが、たった一球でぐらつき始めている。
 負けたくない。その思いが目もくらむほどの気持ちの高ぶりをいずみに与える。
「負けない」
 口の中でだけ、呟き、打席に戻った。二球目を待つ。
 この球は最初から捨ててかかろう。腹をくくった。まずはストレートの軌道を見極めることだ。下手にバットを振り回して打ち損ねてしまえば、次はないのだ。
 唸りをあげて飛び込んできたボールを目で追う。低めに外れると見えた球筋がど真ん中に突き刺さる。
 平手打ちを顔面に喰らわせたようなすさまじい音が響いた。真央のミットが涼のボールを押さえた音だ。網の部分ではなく、掌の部分で捕ってしまったのだろう。真央は骨が砕けるような思いをしているはずだ。
(今ので、球筋を見切ったことになるのだろうか……)
 足下をならしながら、目に焼き付けた軌道を思い返す。
 ツーストライク、ノーボール。いずみは追い込まれた。
 常道で行けば次は一球外角に外す。そしてその次にフィニッシュを決めてくる。
 だが、今は試合ではない。一対一の決闘である。試合と同じセオリーが適用するかどうか、涼の気持ち一つ。
 と、涼が予想外の行動をみせた。
 右手のグラブを腰にあて、左手で帽子のつば、胸、肩へと素速く触れる動作を繰り返したのだ。
 球種を示すサイン。それも高校三年の夏に用いていた、現役当時最後のサインだ。ほとんど反射的にいずみはそのサインの示すところを読みとっていた。バッテリー間のサインであっても、守備位置に影響を及ぼすため、内野陣はそのサインも徹底して頭に叩き込んだものだ。
 涼が示したのは、『イナズマボール』のサインだった。
 いずみの目が見開かれる。
(ここで使う気なの、涼……!)
 もちろん、いずみがこのサインを読めることは涼も充分判っているはずである。
 その上でサインを出しているのだ。
 これがフェイクであるはずがない。いずみはそう確信している。もし涼がそんな姑息な手を使う投手なら、いずみは人として涼を軽蔑するだけだ。
 金属バットのグリップを握るいずみの手に力がこもった。
 涼のイナズマボールは、特に右打者に対して威力を発揮する。
 内角高めへ右打者にぶつかって来るかのように向かってくる球が、直前で鋭く軌道を変え、外角低めへと滑りながら落ちていくのである。ボールそのものではなく、その未来位置を見据えてバットを振らなければ絶対に打てない。
 その軌道や原理、そしてその攻略法も、広く知られている訳ではない。だがいずみは間近でそのボールを見続けてきた。天性の勝負勘と動体視力が、他のあらゆる打者よりもこのボールに対する深い造詣を彼女に与えていた。
 如月女子高での三年間、サインのことも含め、涼の持つ全てを理解しようと躍起になっていた日々を思い出す。
 イナズマボールは、ボールに対してかかる強烈なスピンの軸が横転することによって生み出される。具体的には、地面に対して水平に有していたバックスピンの回転軸そのものが、バッテリー間を進むに連れて一塁側に沈み込み、打者の直前で垂直に立ち上がって来るのだ。その時点で回転力によるホップはそのまま一塁側へと流れていく力になる。
(打つ、絶対に……!)
 いずみの瞳に闘志が燃え上がった。
 涼が自信に満ちたモーションを起こす。蹴り上げた右足の踏み込みと同時に、テイクバックした左腕が振り出される。その角度はこれまでの二球と異なり、サイドハンド気味に寝かされている。イナズマボールのフォームだ。
 閃光を引くような鋭い球が、いずみ目がけて飛翔する。
 いずみはその恐怖に耐え、左足のステップのタイミングを推し量った。眼前のある一点で、見えない壁に当たったかのようにボールがその軌道を変化させる。
 いずみのバットが旋回した。外角低めへと逃げていくボールを、腰を引くことなく正確にミートしていた。
 甲高い金属音が響いた。打球は涼の正面へと飛んだ。反射的に涼がグラブを差し出す。だがボールは加速したかのようにさらに上昇軌道を描き、涼のグラブの上を飛び越え、長大な放物線を描いて飛び去っていった。
「……百四十メートルは飛んだかな」
 センター方向の向こうには川がある。その川の向こう岸手前でボールが水柱を立てたのを見届けた木戸が呟いた。
「わたしの勝ちね」
 いずみが金属バットを肩に担いだ。余裕のある口振りだったが、その口元はかすかに震えていた。
 それを聞き、呆然と打球の行方を見送っていた涼が、マウンド上でがっくりと両膝をついた。
 いずみがマウンド上の涼の元に歩み寄る。二人の対決を息を呑んで見守っていたかつての仲間達も一斉にマウンドに集まる。
「悔しいよ……。こんなんじゃ、終われない。終わりたくないよ……」
 涙声で涼が呟く。
「だったら、プロに来なさい」
 涼を見下ろすいずみが、冷ややかに言い放った。
「え……?」
「わたしは貴女に勝つために、この一ヶ月間、練習を重ねてきたわ。その時に、打撃指導をしてくれたコーチを通じて、福岡ハーキュリーズのスカウトに紹介されたの。まだ正式じゃないけど、さっきの一打で心が決まったわ。わたしはハーキュリーズに入団するつもり」
「いずみさんが、プロに……」
「私を倒したいなら、次の舞台はこんな草野球場じゃなく、大観衆が詰めかけるプロ野球のスタジアムよ」
「……判った」
 涼はよろよろと立ち上がった。涙をぬぐい、表情を引き締める。
「プロ野球で、会いましょう。今度は、負けないから」
「楽しみにしているわ。せいぜい、腕を磨いておくことね」
 涼がグラブを脱ぎ、右手を差し出す。いずみは不敵に微笑んで、がっちりと握手を交わした。
 その光景を、ユキは安堵とも呆然ともつかぬ表情で見つめていた。
「涼はマートレッツをきっと救ってくれる。だけど、いずみさんは、ハーキュリーズの救世主になるのかも……。私は、眠れる獅子を起こしてしまったのかもしれない……」

 ――第二話に続く

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