熱球戦録ヴァルキューレナイン
――プリンセスナイン・プロ野球編
第二話
(1)
朝靄をついて土手の上の歩道を走る人影があった。
白地に青いラインの入ったスポーツウェア姿の涼だった。速いリズムの足音と、跳ねるような呼気が、単なる健康増進のためのジョギングの域を超えていることを伺わせる。
涼が早朝の走り込みの他、筋力トレーニングや投げ込みなどの本格的なトレーニングを始めてから一週間となる。
それは同時に、いずみとの対戦でホームランを打たれてから経った日数でもあった。
土手を下り、家の裏口に通じる路地にまで駆け込んできたところで、涼はようやく駆け足をとめ、呼吸を整えながら歩き始めた。
ランニングを終わる際には急に立ち止まるのではなく、しばらく歩いてから止まる事、と教わったのは誰からだったか。
中学時代から本格的な野球に取り組んでいたユキやヒカルだったのか、それとももっと昔、今は亡き父・英彦の教えだったのかも知れない。その記憶はあいまいだ。
足取りは、必ずしも軽くはない。表情も決して明るいものではない。
無理もなかった。疲労は恐らく今がピークに近いはずだ。
(今が一番のふんばりどころ)
と涼は自らに言い聞かせる。この苦しさを乗り越えれば、負荷を与えられ続けた身体のほうが自然と慣れてくる。涼の身体の中で、眠っていた筋力や持久力が目覚めはじめようとしているのだ。それまでは、精神力で己を支えるしかない。
肩を上下させ、荒い息を吐きながら戻ってきた涼を、志乃が微笑みながら出迎えた。タオルと牛乳を差し出してくる。
「ありがと」
いずみに敗れて家に戻った涼が、もう一度、本気で野球をやりたい、プロ野球に行きたいと言ったときも、志乃は何も言わなかった。
それでいて、翌日にはスポーツウェアの上下とランニングシューズをきちんと揃えてくれていた。そういう母親だった。
だから、涼はつい甘えてしまう。女手一つで自分を育ててくれた恩返しをしなければならないと、いつも思っているのに。英彦の人生を狂わせたプロ野球に、今またたった一人の娘を送り出さねばならない志乃の気持ちを思うと、涼の胸は痛む。
「ごめんね、また苦労かけちゃうけど」
「なに言ってるの。涼はまだ若いんだから、思い切り自分の好きなように生きて構わないのよ」
幾度と無く、そんな会話を繰り返しながら日々が過ぎていく。
タオルで汗を拭き、しばらく柔軟体操をしながら呼吸が収まるのを待ち、景気づけのように牛乳を一気飲みした涼は、家の中に入った。自然と、目が柱にかかったカレンダーに向く。
「あと、二週間か」
二週間後、涼は千葉マートレッツの入団テストを受けることになっていた。ユキの口利きのお陰で、一般応募のように五〇メートル走と遠投から始まるテストではなく、最初からピッチングを見てもらえることになっていた。
手を貸してくれているのはユキだけではない。真央も、大学の柔道部に所属する忙しい身ながら練習相手を務めてくれている。が、涼の胸にはまだ不安が残っている。
本格的に投げたのは二年前の高校三年の夏が最後。今回、いずみとの対戦の前にもトレーニングはして臨んだが、結果は無惨なものだった。
会心の切れ味と思ったイナズマボールを完璧に捉えられたのだ。屈辱は大きい。同時に自分の実力に対する不安を払拭できずにいる。
だがそれでも、テストを受けることに恐れはない。後悔もない。
ここで諦めたのでは、自分自身にだけでなく、プロ野球選手として不本意な最後を迎えざるを得なかった父・英彦に対しても顔向け出来ないような気がするからだ。
「悔いの残らないようにね」
志乃の言葉に、大きく頷く。
「判ってる。負けっ放しじゃあ、終われないもんね」
入団テスト当日に丸が記されたカレンダーを見つめながら、自らに言い聞かせるように呟いた。
(2)
頭上にはどんよりと分厚い雲が覆い、吹き抜ける風は季節相応に寒々しい。
そんな気の晴れない空の下、広大な敷地を有する氷室邸の庭の一角で、いずみは素振りを続けていた。身体からわずかに湯気が立ち上るほどの打ち込みようだ。
そこは、かつていずみがテニスの壁打ちに明け暮れた場所でもある。
しかし今いずみが手にしているのはテニスのラケットではなく、プロ野球で用いるつもりの木製バットだった。
ただの素振りでありながら、周囲から発散する気迫は殺気じみてすらいる。射るような目つきも、空気を切り裂くスイングも、触れれば切れてしまいそうに鋭い。
厭きることなく素振りを続ける彼女の脳裏には、涼が投じたイナズマボールの軌跡がありありと浮かんでいた。
あの勝負、確かにホームランを放った。客観的に見れば間違いなくいずみの勝利だった。
だが、いずみ自身は本当に勝ったとは言えない、と感じていた。
――もし涼が、真央を気遣ってイナズマボールのサインを出すような真似をしなかったら?
――そしてもし自分が持っていたのが、木製バットだったら?
果たして私は、ヒット性の打球を飛ばすことが出来ただろうか。
その思いは対戦直後よりもむしろ、日を追うごとに大きくなっている。
だからこそ、いずみは対戦前よりもさらにハードなトレーニングを自らに課している。
口にこそ決して出さないが、いずみは涼の実力を誰よりも評価していた。きっと涼は、次に対戦する時までには実力を高めてくるに違いない。
それにプロとして戦う以上、相手は涼だけではないのだ。並み居る剛腕・好投手が立ちはだかることになる。
いずみの中には、涼の他にも大きな壁とでもいうべき存在があった。
高杉宏樹。
いずみの幼なじみにして、高卒ながらドラフト一位でプロ入りを果たした天才スラッガーだ。
幸か不幸か、いずみが入団する予定の福岡ハーキュリーズとはリーグが異なる。直接対戦が実現するには、日本シリーズに双方のチームが駒を進めるしかない。
不可能な話だとはおもわない。高杉が所属するのはリーグ屈指の強豪である。そしていずみは、自分の手でハーキュリーズに栄冠をもたらすつもりでいた。
涼を倒してリーグを制覇し、その上で高杉をも倒す。素振りを続けるいずみの目には、はっきりとその道筋が見えていた。
母・桂子は、いずみがせっかくの内定を蹴ってプロ野球に挑戦すると聞かされたときはさすがに表情を曇らせたものだが、干渉はしてこなかった。
元々、就職活動において目に見える形でコネを行使したつもりの無いいずみの内心には、なんら迷いはない。気合いのこもったいずみのスイングが音を立てると、吹き散らされたかのように曇がぱかりと割れ、日の光が差し込んできた。
(3)
千葉マートレットスタジアムは、強風が吹き抜けることで有名な球場だ。
この日も晴れてはいたが、風の強さは相変わらずで、時折内野グラウンドでは土埃がつむじ風で舞い上げられている。電光掲示板の風速表示はしばしば二桁の秒速を記録していた。
そんな中、如月女子のユニフォーム姿の涼がマウンド上にあった。風で飛ばされてしまいそうな帽子を気にしながら、ブルペン捕手を相手にウォーミングアップを続けている。
その姿を、千葉マートレッツを率いる山木監督が一塁側ベンチ前で腕組みをして見据えている。
「普通は、こう簡単にテストを受けさせるものじゃないんですがね」
正面を向いたまま、傍らに立つ東ユキに、そう声を掛けた。怒ったような口調だが、目尻には柔和なものを感じさせる。
「申し訳ありません」
ユキは、落ち着いた色合いのスーツの上から、千葉マートレッツのスタジアムジャンパーを羽織っている。ちぐはぐな取り合わせではあるのだが、不思議と彼女がその恰好をすると違和感がない。
傍目には監督に独占取材を敢行する女子アナといった風情ではあるが、語られる内容は決してテレビなどでは表沙汰にならない、かなり突っ込んだものだ。
「先代の東社長にはなにかと世話になったし、恩も感じている。そのご令嬢の頼みということもある。が、それ以上に、テストを受けるのは女子選手とはいえ、あの早川英彦の忘れ形見だ。私としても期待したいのだがね」
「大丈夫です。きっと涼は、マートレッツの貴重な戦力になります」
「さて、二年前ならお嬢さんの言葉を疑いはしないが、果たしてこの二年のブランクはどう響いているかな」
山木が、遠くを見る目で呟いた。
現役時代、山木は世界的なホームランバッター・皇の控えに甘んじていた。トレードでマートレッツに来てそれなりの成績を残してはいたが、皇を超えることなど夢物語でしか無かった。
今、皇は福岡ハーキュリーズの監督となっている。そしてそのハーキュリーズには、早川涼と同窓の氷室いずみが入団するという。
因果はどこまでも巡っていくものなのか。
だがそれもこれも、涼がプロで通用するピッチングが出来てこそ、だ。女性選手だからといって、名前だけで獲得する意味のある時代ではない。
山木は心の中で、つい過度な期待をしてしまいがちな自分を戒めた。
「そろそろ始めるか」
「はいっ、よろしくお願いします!」
ウォーミングアップを終えた涼が山木に声を掛けられ、元気良く返事する。
(絶対にプロ野球選手に、なってみせる……!)
ワインドアップモーションを起こしながら、涼は心の中でそう叫んだ。
指先から放たれたボールは一筋の白い軌跡を引きながら、キャッチャーの構えるミットへと飛び込んでいった。
(4)
ドラフト当日。
昼食時をそろそろ迎えようとする『おでん・志乃』には、常連客に加えて涼の如月女子高時代の仲間が集まっていた。
若い女性が大挙してにぎやかにしているだけで、店の雰囲気さえ変わってしまう。
「どうせならいずみさんも来れば良かったのに」
カウンターの奥にあるテレビを見ながら、毛利寧々が残念そうに言った。
他にも東ユキと三田加奈子、大道寺真央が顔を揃えている。出席が必須の大学の授業があるせいで都合がつかなかった堀田小春が揃っていれば、涼といずみの対決を見届けたかつての仲間が全員集まっていたところだ。
「そんな無茶なことを。いまだけはちょっと、いずみさんと顔を会わすのが怖いよ」
涼が肩をすくめる。
今日ばかりは店の仕事が手につかないことは自分でも判っているので、申し訳ないとは思いつつ、かつての級友とテーブル席に陣取ってテレビを一緒になってみている。
「でも不思議ですよね。ヒカルさんと聖良さんに続いて、涼さんといずみさんも、皆さんパ・リーグになっちゃいましたね」
と、寧々。真央もうなずく。
「でも凄いよね、私達の中から四人もプロに行けるなんて」
「まだ、決まった訳じゃないよ」
先走って会話を弾ませる寧々達を制するように、涼が口を挟んだ。
確かにテストでは全力を尽くしたつもりだ。イナズマボールや他の変化球も惜しげもなく披露した。ストレートは時速百四十キロ台に乗せていた筈だ。
だが、山木監督から指名の確約をもらってはいない。
選手の獲得にさいしては、監督に全権が任されている訳ではないのだ。涼は好感触を掴みながらも、不安を隠しきれずにこの日を迎えていた。
ドラフトは毎年のように細かな規定が変更されている。
主として有力選手の逆指名を巡る問題をすっきりと整理出来ないためだ。
逆指名制度によってめぼしい有力選手の動向が実際の会議よりも前にほとんど明らかとなるせいで、イベントとしての魅力はうすれ、中継すらされない年もあった。今年、生放送があるのは幸いだった。
が、千葉マートレッツと福岡ハーキュリーズの上位指名の中には、涼の名もいずみの名も聞かれることはなかった。
結局、二人の名が出る前に中継は終わった。
「ダメだったのかなぁ」
期待と不安をない交ぜにしながらテレビを見続けていた涼が、中継終了と同時におおきなため息をついた。
上位での指名はそもそも可能性が低いとは思っていた。それでも、不安はつのる。
映像の中の山木監督の表情からは、何も読みとれるはずもなかった。
涼はがっくりと肩を落とした。その肩に、ユキが手をのせる。顔を上げた涼に向かい、優しげな表情を浮かべて大きく首を振る。
「大丈夫。心配しないで」
ユキがそう言い終わると同時に、カウンター奥にある電話が鳴った。涼の六位指名を伝える、千葉マートレッツからの電話だった。
その後、契約交渉は順調に進み、二人の女子プロ野球選手が新たに誕生した。
千葉マートレッツ投手・早川涼 背番号01。
福岡ハーキュリーズ三塁手・氷室いずみ 背番号05。
この二人がペナントレースの行方すら左右するほどの存在となっていくことを、この時点では誰も知らない。
――第三話に続く
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