熱球戦録ヴァルキューレナイン
――プリンセスナイン・プロ野球編
第三話
(1)
二月。サイパン。
近畿ボルテックスがキャンプを張る球場では、盛んにスタンド越えを狙った打球を飛ばすシート打撃中の選手達を後目に、吉本ヒカルは打撃投手相手に左打席からのバント練習に明け暮れている。
「今年ハーキュリーズに入ったヒカルの同級生は、随分と派手に飛ばすそうじゃないか」
「ウチとはタイプが違いますわ」
ヒカルはチームメイトが投げかける挑発めいた言葉にも、笑って取り合わない。いずみや、ボルテックスの重量打線と張り合って生き残れるはずがない。もともと長距離ヒッターではないのだ。
(涼は苦労するやろな。この二年、ろくに硬球を握ってないって話やし。ま、いずみかて、このまますんなり行くとは思えんけどな)
伊達に涼やいずみより二年早くプロに入った訳ではない。器用な選手に徹することで重宝される立場を確保してきた。
再びの金属的な打球音。ヒカルが顔をあげると、隣のゲージでボルテックス不動の四番打者、中宗根が放った打球が、センターバックスクリーンを越えていくところだった。
(あかん、どうやってもこの人には、かなわへん)
ヒカルはつい苦笑してしまう。
もっとも、かなわない、と投げ出してばかりもいられない。
これまで、一軍定着を自身の目標とし、それを達成してきた事をささやかな誇りとしていた。しかし今年は、それより上を目指さねばなるまい。いざというときに便利に使われるバント屋や代走ではなく、レギュラーとして確固たる地位を占めるのだ。
そのためには、ファーストのポジションを捨て、コンバートもやむを得ない。悔しいが、ファーストの吉勝はいい選手だとヒカルも認めざるを得ない。
ヒカルは覚悟を決めた。今年はそうせざるをえない状況だった。涼やいずみとおなじ場で戦う以上、半端な気持ちで新しいシーズンを迎えることなど、できるはずがない。
(あの二人は、一軍定着なんて小さな目標で済ますつもりは、ハナから無いやろうしな)
打撃投手がボールを投げた。真ん中高め。ヒカルは反射的に寝かしていたバットを引き、コンパクトなフォームでフルスイングした。
高々と舞い上がった打球は、唖然とする打撃投手の遙か頭上を越え、蒼穹の向こうに吸い込まれていった。
(2)
宮古島。
温暖な気候のこの島で、神戸ブルーウイングスが春期キャンプを行うようになって久しい。
メジャーリーグで活躍する日本史上最強のバッター・剣六朗を擁し、Aクラス入りが当たり前だったかつての強豪チームも、ここ数年は優勝から遠ざかっている。
もっとも、高卒で入団した森村聖良が、今年で三度目となる春季キャンプを一軍で迎えることが出来た理由をチーム力の低下に求めるのは酷というものだろう。
聖良には、他の如月女子高出身者に比べて有利な点が一つあった。入団時点で、チームに先輩の女子選手がいたのである。
その選手は、既に今シーズンで七年目を迎える中堅どころだった。
高校野球が女子に向けて門戸を開放した理由の一つに、解禁となった前年からすでに一軍選手として活躍していた彼女の存在があったことは間違いないとされている。そう考えれば、恩恵を受けたのは聖良一人では無いとも言える。
ポジションこそセカンドとショートにわかれているが、聖良もまた俊足と強肩が買われての入団であり、同じような選手を二人とってどうするのだ、という批判が一部にあったことは事実である。
自分は一種の当て馬なのかもしれない。そう思うこともある。
だが、聖良は気にしていなかった。なによりも彼女は、その先輩の遊撃手を尊敬していた。
その選手の名は、水沢穂という。
中学まで陸上競技をやっていた聖良にとっては、同じ陸上出身の穂は憧れだった。
穂は、残念ながら脚光を浴びてからわずか数ヶ月で陸上競技の表舞台から去らなければならなかったが、残された伝説はあまりにも強烈だった。
非公認ながら百メートル走では女子世界記録を上回る数字すら残している。
遊びで投げた槍投げが六十メートルに達したという話も、その伝説に彩りを添えている。
聖良もまた、中学時代は槍投げの選手だった。だが、穂はその聖良ですら比較にならないほどのトップアスリートだ。今では二人ともすっかり野球選手になってしまっているが、聖良の尊敬の思いはいささかも変化していない。
わあっ、と歓声がおこった。
「こうなると年中行事だな」
穂と共に外野の芝地で柔軟体操をしながら、聖良は不機嫌そうな表情を隠さない。
「妬かないの。本人達はあれで幸せなんだから」
二人の視線の先には、マスコミに取り囲まれながらキャッチボールをする二人の男女の姿がある。
ブルーウィングスの中軸選手である滝義人と、熱愛報道も久しい女子柔道の女王・神永美和だった。
「彼女が野球をやったら、けっこういいところまで行くかもね」
ぎこちない美和の投球フォームを見ながら、穂は目を細める。
「今からじゃ無理ですよ」
「あら、わたしの場合は高校三年の夏から始めたけど、なんとかなったわよ」
「水沢さんは特別ですよ」
聖良は口をとがらせる。
「そうかな。ま、たしかに普通の女性って訳にはいかないけどもね」
「すみません。そんなつもりじゃ」
聖良の謝罪に小さくうなずいた穂が、尻についた土埃をはたきながら立ち上がった。
「いいのよ。もう慣れたから。それに、こんなわたしでも大事に思ってくれる人がいる訳だし。さ、そろそろ私たちもキャッチボールを始めましょ。貴女も今年はスイートハート賞を狙わないとね」
「は、はい……」
穂の自覚のない蠱惑的なほほえみに、聖良はどぎまぎとしながらうなずいた。
スイートハート賞とは、年間で最も活躍した女子選手に送られる賞だ。性質としては損害保険会社の名が冠され、リリーフ投手が対象のファイアマン賞に近い。
歴史の浅い賞ではあるが、穂は過去二度もこの栄冠に輝いている。聖良はまだその機会に恵まれていない。
(穂さんもキツい事言うよな。今年は特にライバルが多いってのに……)
とは思うが、穂の前では内心の思いも口に出来ない聖良だった。
(3)
高知。福岡ハーキュリーズキャンプ地。
マシンが放ったボールが、快音を残して弾き返される度に歓声が沸く。
バッティングゲージの中でバットを構えるのは背番号05。
氷室いずみだった。
立て続けに打球を外野のフェンスの向こうに飛ばす様に、チームメイト達も思わず練習の手を止めて呆れ顔で見ている。
「金属バット病とは無縁のようですな」
高卒ルーキーにありがちな、金属バットの反発力に頼ったスイングではないことで、まずは及第点ということだ。
だがヘッドコーチの嬉しそうな言葉に、福岡ハーキュリーズ監督・皇は眉間に深いしわを刻んだまま、にこりともしない。
「そいつはどうかな。マシン相手だけでは、判らないことも多い」
「守備練習を見る限り、フィールディングには問題はなさそうでしたがね。打球への反応速度は、うちのチームでもトップクラスだと思いますよ」
と、ヘッドコーチ。
テニスのトップ選手が繰り出すサーブは、時速百五十キロを遙かに越えて飛び込んでくる。そんなボールと幼少の頃から対峙してきたいずみは、常人離れした動体視力をもつようになっていた。
しかし、皇の目にはなにか不満が残るらしい。気合いのこもったいずみの練習を注視しながらも、ついに最後まで皇の口から誉め言葉が聞かれることはなかった。
(4)
いずみの好発進を伝えるニュースを後目に、涼は埼玉県浦和市にある千葉マートレッツ二軍球場でのスタートとなっていた。
彼女自身、そのことにそれほど落ち込んだりはしていないつもりだ。なにしろ基礎体力から鍛え直さなければならず、また身につけなければならない技術はたくさんあった。
まずは土台作りをしっかり行ってから。
そう自らに言い聞かせはするものの、いずみが初日からハーキュリーズの一軍キャンプに参加し、打撃練習で好調ぶりをアピールしていると聞いては、内心に焦りが生まれるのを意識せざるを得ない。
(いずみさんに勝ちたい。そのつもりでプロの世界に入ってきたのに、こんなところでいつまでもぐずぐずなんてしていられない。その間に、いずみさんはどんどん前に行ってしまう……)
自分に果たしてプロのピッチャーとしてやっていくだけの力が備わっているのか自信が持てないだけに、思考が泥沼にはまりこんでいきそうになる。
今も涼はブルペンで投げ込みを行っているが、涼のように気持ちで向かっていくピッチャーが迷いをもっては、球が走らないのは当然だ。
キレよりも球威で勝負するタイプであるから、単純にスピードガンで表される球速でいえば、ぱっとしないのは当然だった。球が速いだけで勝てるわけではないのが野球の奥深さだが、とりあえず速くて困ることはないはずだ。
「ま、焦りは禁物だわな」
隣のマウンドで投げていた、傍目にも覇気の感じられない調子のピッチャーが、暢気な口調でそんな事を言ってきた。
ロジンバックを手にしながら、涼はわずかに眉をひそめた。
柳葉悟。
涼より一つ年上で、今年プロ入り四年目を迎えている。
高校三年の時には夏の甲子園の優勝投手となり、ドラフト一位指名で抽選の末に千葉マートレッツに入団した逸材である。
涼はあまり好印象はもっていない。それが、つい表情にも出てしまう。
どうにも軽いノリが気にいらないのだ。正確に言えば、言動が軽いにも関わらず、やるときはきっちりと決めてくることが腹立たしい。
それは、かつて高杉宏樹に感じた反発に近いものがある。
実際、投手と野手の違いがあるとはいえ、二人から感じる印象には似たものがあった。客観的にみてその力量がずば抜けているだけでなく、自分の優れた才能に対して絶対的な自信を持つ余裕にあふれた態度だ。
現に、へらへらとしながらも、投げ込む球は涼よりも遙かに速く、そして重い。なぜこれほどの球が投げられるのに、二軍帯同なんだろう。そう思うとよけいに腹が立つ。
(気にいらない)
「なんだか機嫌が悪そうだけど」
鼻歌でもうたうような口調で柳葉が訊いてくる。
「わたしは柳葉さんみたいに実績がありませんから、余裕なんてありません」
そっぽを向いて答える涼。相手にしないようにして、ブルペン捕手に向かって球を投げる。
「ユキから聞いてるよ、高校時代はすごいピッチャーだったって。大丈夫、カンはすぐに取り戻せるさ」
「な、なんで」
涼はマウンドのくぼみに足をとられて転びそうになった。柳葉の言葉の後半部は耳に入っていない。
なぜこの男は、ユキの事を呼び捨てにできるのだろう。目を丸くする涼に、柳葉はにっと笑った。
「あれ? その様子からして、ユキから俺たちのこと、聞いてなかったの? 俺たちはガキの頃からのいわゆる幼なじみ。今じゃ将来を約束した婚約者同士さ」
「うそっ」
「うそなもんか。大マジさ」
のけぞる涼を前に、柳葉は楽しそうに言って笑う。
(嘘に決まってる。こんないい加減なやつに、絶対負けない。負けたくない!)
ユキにはいずれ真意を正さねばならないが、それはそれだ。涼は意を決して投球練習を再開した。これまでの数日、ごつい体格の選手たちに囲まれて気後れしていたのは事実だ。
しかしもう、萎縮している場合ではない。涼は胸を張って練習に取り組み始めた。この日を境に、涼の調子は尻上がりによくなっていった。皮肉なことに柳葉のアドバイスが結果としてよかったことになる。
(5)
入団二年目となる将来のエース候補・寺林が投じたストレートを、いずみのバットがとらえた。しかし打球はむずかるように弾んでサードの正面へと転がった。サードはこれを難なくさばいて一塁に転送。
数拍遅れて一塁ベースを駆け抜けたいずみは、ファウルグラウンドでそっと天を仰いだ。
(また、打てなかった)
キャンプは第三クールに入り、紅白戦が行われていた。
キャンプの立ち上げ直後は、あれほど順調に仕上がっているようにみえたいずみだが、ここ数日は打撃練習で放つ打球が精彩を欠くようになっていた。
それだけではなく、守備練習でも身体の動きにキレがなくなっていた。
結局その日の紅白戦では、三打席すべて凡退におわっていた。
紅白戦の後もいずみは、自分の不甲斐なさに対する怒りを練習に向け、誰よりも遅くまでグラウンドでバットを振り、ボールを投げ続けた。
練習終了後、皇監督はいずみを球場の監督室に呼んだ。
「原因は疲労だ」
何も聞かず、なんの前置きもせず、皇監督は断定した。
いずみは直立不動で頷きはしたが、それ以上はなにも応えない。自分でも疲れがたまっていることは自覚していたからだ。
皇監督は厳しい表情で続ける。
「疲労によって身体の動きが自分のイメージ通りにならない場合、なにが起こるか。スランプだ。体と心のバランスを崩してしまえば、立て直すのにどれだけの時間がかかるのか、誰にも見当がつかない。今、氷室はその兆候をはっきりとみせている」
そう言い切ると、キャンプが始まってから一日も休んでいないようだが、と付け加えた。
厳しいばかりでなく、皇の言葉の裏には選手一人一人を気遣うやさしさがのぞいている。
「時間が惜しいのです。私はまだ、自分に一軍選手としてやっていけるだけの技量が身に付いているとは考えていません。一回でも多くバットを振り、一メートルでも長く走り込みたいのです」
いずみは、胸の思いを一息に口にした。皇監督は静かにうなずいた。
「気持ちは判る。プロである以上、誰だって自分の状態に満足しきっている訳はない。だが、無理はいかん。……いい機会だから一度聞いておこうと思っていた。非力さは自分で判っているとして、それでもホームランバッターを目指すつもりか?」
「はい。そのために私はここにいます。入団テストで合格の判断をしていただいたのも、長打力に期待されたからだと思っています」
「ならば、私の教えに従うつもりはあるか?」
かつては世界に名を馳せたホームランバッター・皇が、大きな目をまっすぐにいずみに向けた。
「はい」
いずみの返事には迷いは無かった。
「前もって言って置くが、これは一種の賭けに近い。賭けに敗れれば、二軍に行ってもらうことになる。それどころか、取り返しのつかないスランプにはまりこむ可能性もある。……それでも、賭けに挑む度胸はあるか」
「わたしの努力次第で賭けの目が良くなると仰るのであれば、その賭け、喜んでお受けいたします」
「いいだろう」
いずみの返事を受け、皇の目が現役さながらの鋭い光を放った。
――第四話に続く
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