熱球戦録ヴァルキューレナイン

――プリンセスナイン・プロ野球編


第四話




(1)


 浦和。マートレッツ二軍球場。
 キャンプが第三クールに入っても、涼は依然として二軍帯同でのトレーニングを続けている。投げ込みは変化球も交えて本格化し、それなりに球の走りにも手応えをつかみはじめてはいたが、これでプロで通用すると胸を張るには、まだ何かが足りなかった。
 自分ではベストを尽くしている。なにも遠慮しているつもりはない。にもかかわらず、見えない壁を突き破れない。
 このまま、ずっと二軍のまま日々を過ごすことになりはしないか、焦りを感じずにはいられない。
「もうちょっとなんだろうけど。惜しいよな」
 背後から柳葉に声をかけられ、ブルペンでの投げ込みに一段落をつけた涼はむっとした表情でふりむいた。
「なにが惜しいんですか」
「涼は恐らく、いい指導者に巡り会えなかったんだろうな、って思ってな」
「そんな事は……」
 無い、と言いかけて口ごもる。指導者といえば如月女子高時代の木戸監督ぐらいしか思い浮かばない。木戸監督はチームを率いる事は出来ても、高度な技術指導に踏み込むことはほとんどなかった。
「まず、ふつうに投げるときとおんなじようにプレートを踏んで立ってみなよ」
 いつにない真剣な表情の柳葉が言った。
「なんでそんなことを言われなきゃならないの? それに普通に、って言われても……」
 不満顔で涼は左足でプレートを踏む。途端に柳葉が首を振った。
「駄目だな、それじゃ」
「え?」
「プレート踏むにもテクニックはあるんだぜ。スパイクの一番前にある爪の左側をプレートの端に引っかけるんだよ」
 言いながら、柳葉が隣のマウンドで見本を示す。同じ左投げなので背中を見せる格好になる。
「ほら、やってみな」
「……こう?」
 厳しい口調に押され、涼は言われるままにプレートに足を乗せる。自然と左足内側が捕手の方向に傾く。
「そうだ。次は右足の踏み込みだな。右足を蹴り上げてみて」
 涼はワインドアップモーションを起こし、右足を腰の高さまで上げる。
「ストップ。その姿勢を保つ」
「これぐらいでふらついたりしないわよ」
「そんなことは判ってる。力を抜いていいから。二塁側に傾くなよ。今から俺が腰を押すから、そのまま右足を踏み出す」
「くっ」
 軸足となる左足がかなりきつい。
「うん、この感じだ。次は身体のスライドにあわせて左膝をホーム方向に送り込む。右足の踏み込みはかかとから」
「これは……?」
「今の感じでボールを投げてみな。低めにいい球がいくぜ」
「ほんとかな……。あ、いきます、よろしくお願いします!」 
 半信半疑ながら、ブルペン捕手に声をかけてモーションを起こす。さきほどの通りにスパイクの爪の左側をプレートに引っかけ、腰を落とす感触で右足を踏み込み、左腕を振り抜いた。
 力のバランスが最初の数球は判らずに球は走らなかったが、投げるたびに、柳葉のいわんとしている事が感触としてつかめてきた。
 数分後には、小気味よいミットの音が響いていた。これまでとは見違えるようなキレのある速球になっている。
「すごい。球の伸びが良くなった」
 驚きの声をあげて振り向き、涼は柳葉の顔を見る。
「なっ。ちょっとの工夫でうまくいくこともあるんだ。もっとも、誰にでも投げられる球じゃない。涼の場合はそれまでの努力があってこそだ。それに、下半身強化が足りないと、じきに足腰にくるぜ」
 柳葉が鼻をこする。得意げな、いつもの表情にもどっている。
「どうして教えてくれたの?」
 本来ならば一軍昇格を目指すライバルなのではないか。涼はそんな疑問を率直に柳葉にぶつける。
「そりゃあ、俺が明日から一軍に呼ばれてるから、置きみやげと思って」
 にっ、と柳葉が笑う。涼の肩から力が抜けた。
「一軍……」
「涼も早く上がってこいよ。ユキも期待してるんだしな」
 またユキの名前が出た。
 本当に彼はユキの婚約者なのだろうか? 直接ユキに確かめたいところなのだが、キャンプ中ではそれもままならない。一軍に昇格すれば観戦にも来るだろう。その時にはきっと事実を確かめよう。
(とにかく今出来ることはひとつだけ。一軍にあがるために練習を重ねること……)
 柳葉に教わったフォームの感触を身体に覚え込ませようと、投げ込みを再開する涼だった。

(2)


 それぞれが思惑を抱えたキャンプが終わると、間をおかずオープン戦がはじまった。
 近畿ボルテックスの吉本ヒカルは、二番・レフトのポジションで東日本ファランクスとのオープン戦第一戦を迎えていた。
 自身も覚悟を決めていた外野手転向が本決まりになった訳ではない。むしろファーストの吉勝をレギュラーから押しのけることが出来なかったことを示しているだけだ。
(くさることはないんや。アピールのチャンスは必ず来る)
 ヒカルは自らにそう言い聞かせながら、その機会を待つ。
 東日本ファランクス先発はエース・岩武。今年はかなり早く仕上がってきているらしい。ボルテックスがレギュラー級を並べた打線が一点に抑えられる。
 ヒカルは守備を無難にこなし、三打数一安打。
 当たり損ねのテキサスヒットが一本出たが、残る二打席の当たりもそう悪くなかった。試合は負けているが「クセ者」としてそれなりの好印象は残せたはずだ。
 だが試合のほうは、ファランクス打線をボルテックスの小刻みな継投策で苦しめながらも二点を奪われて、リードされていた。 
 九回表、ボルテックス最後の攻撃。
 この回、先頭打者としてヒカルに打順が回ってきた。
 選手交代を報せるアナウンスが流れ、リリーフ投手がシーズン中と同じテーマ曲に送られて登場する。
 マウンドに立ったリリーフ投手はウォーミングアップを終えると、ホーム側に背を向け、守備に散る選手達に向けて両腕を突き上げ、高校生のように「しまっていこう!」と甲高い声で叫んだ。
 ネクストバッターズサークルから打席に向かうヒカルの位置からは、ユニフォームの背番号47と登録名[SHOKO]が誇らしげに見えた。
(負けられん)
 ヒカルの表情が引き締まった。
 マウンドでヒカルの打席を待ちかまえるのは、東日本ファランクスの絶対の守護神、ショーコこと沢村翔子。
 近畿ボルテックスの重量打線が手痛い目にあったことも一度や二度ではない。
 それだけに、ここで彼女の出鼻をくじくことが出来れば首脳陣にも好印象を与えられる。
「いっちょやったるで」
 昨シーズンは三度対戦して凡打二回と、セーフティバントでの内野安打一回。
 あわよくばもう一度バントヒットを、といきたいところだが、昨シーズンの戦績は当然相手も心得ており、前進守備こそとらないが、ファーストとサードは前のめりになって身構えている。
 さすがに、彼らも同じ手は食うまい。素直にセンター返しを狙うよりない。
 左投げの翔子に対し、ヒカルは右打席でバットを構えた。バントヒット狙いをにおわせて相手を揺さぶるなら左打席だろうが、ヒッティングには向かない。
 対左打者の一人一殺のワンポイントリリーフだったこともあって、翔子のフォームは左打席からはとくに球離れのタイミングが掴みづらいのだ。
 初球。キレのあるストレートが内角を衝く。のけぞり気味に見送るが判定はストライク。
 ヒカルは相手の術中にはまることを承知で、じりっと足の位置をベースから外し、こころもちクローズドスタンスで構える。
 二球目。今度は翔子の左腕がアンダーハンドの軌跡を描いて出てくる。
(ここで得意のシンカーかっ?)
 踏み出し、迷いながらバットを振り出す。が、ボールは沈み込むことなくバットに下腹を撫でられてバックネットへと飛んでいった。ただの速球だった。気のせいか、焦げたような匂いが漂う。
「ちっ」ヒカルの舌打ち。
 翔子の決め球は、アンダースローにチェンジしてのシンカー。浮き上がりながら目前でストンと落ちる鋭い変化から、『ストライクイーグル』の二つ名がある。
 見逃しても低めいっぱいに決まるやっかいな球という意味も、『ストライク〜』の名にはこめられている。
 もちろん、下から投げる時に必ずシンカーが来るほど単純ではない。今の球のように、キレは多少落ちるがストレートが来るときもある。このストレートは『ストライクイーグル』とホームベース直前までほとんど同じ球筋であるため、見極めてバットを振るのは至難の業だ。
 この変幻自在な投法が、短いイニングでは有効なのだ。
 それが判っていながら、簡単にツーストライクをとられてしまった。
(今度はなにが来る……。いや、悩んだら向こうの思うツボや)
 三球目。振りかぶった翔子の腕は、今度は再びオーバースローで振り抜かれた。
「せやったら、『ストライクイーグル』は無いっ」
 再び内角に来た。軌跡はストレートのそれだ。ヒカルは自信を持ってタイミングを合わせて踏み込み、バットを振る。
 芯で捉えた。そう思った。しかし次の瞬間、ボールがヒカルのイメージよりボール幅一個分沈み込んでいた。
 今度はボールの上っ面を叩き、打球は大きくバウンドしてショートゴロになった。ヒカルは無念の表情で一塁ベース上を駆け抜け、そのまま小走りにベンチまで引きあげる。
「ツーシームやっ!」
 ベンチに飛び込むなり、マウンドの翔子にまで聞こえそうな大声でヒカルが怒鳴る。
「なんだ、騒がしいな。どうした、ヒカル」
「今の球、ツーシームやったで。あたらしい球、覚えてきよった」
 ツーシームとは本来ストレートの握りの一種である。球にかかる回転が少ないため、若干沈み込むような軌跡を描く。最近では、バットの芯を外す変化球の一種として認知されるようになっている。
「となると、『ショーコ』は一層厄介な相手になったって訳だ。それにしても、いきなりオープン戦の初戦で今シーズンの切り札になる筈の球を使ってくるとは、ヒカルも相当意識されてるようだな」
 ネクストバッターズサークルに向かう中宗根にそう言われても、ヒカルは嬉しくはない。
(翔子が意識しているのはウチやない。いずみであり、涼や。今のは新参には負けんっちゅう、翔子の挑戦状や。みんな、目の色変えてくるっちゅうこっちゃな。……せやけど)
 ウチは負けへん。ヒカルはぎりっと奥歯をかみしめた。

 この日、存在が明らかとなった翔子のツーシームは、後に『スプラッシュイーグル』の異名で呼ばれるようになり、パ五球団のバッター達を悩ませることになる。

(3)


 神戸ブルーウィングス対埼玉レオパルズ戦。
 オープン戦とはいえ、同一リーグ同士の試合にはいっそうの真剣味が増す。調整の場であることは判っていても、簡単に負けるわけにはいかない。
 ただの意地ではない。負けてばかりで与しやすしの印象を与えては、開幕後に相手に心理的に優位に立たれてしまうのだ。
 一回表、一番打者の聖良はいきなり一塁線を破る三塁打を放って観客を沸かせた。
「張り切ってるなぁ。オープン戦であんまり飛ばしすぎると、シーズン中にバテるぞ」
 ヘッドスライディングして土埃のついたユニフォームをはたく聖良に、レオパルズ不動のサードであり、東日本ファランクスの守護女神・沢村翔子の双子の兄でもある沢村翔太が、からかうような口振りで言った。
「へん。はいそうですかって手を抜けっかよ」
 聖良の口の悪さは相変わらずだった。翔太も苦笑するしかない。
「それにしても、ウチのチームから見たら水沢一番、森村二番のほうが手強そうなんだがな」
「え、なんで?」
 気安げな翔太の口調につられ、聖良はつい訊ねてしまう。その目は今ちょうど右打席に入った水沢穂に向けられていたところだった。
 一番・森村、二番・水沢というのが今日の打順だ。
「水沢はあんまりバントとか得意じゃないだろ」
 相手チームの選手に、尊敬する先輩のことをバカにされて森村はむっとする。
「そうでもないぜ。いい加減なこと言うなよな」
「そうなのか? だけど――」
 まるで世間話のような会話をしているところに、ピッチャー・松崎から牽制球が来た。ピッチャーへの注意がおろそかになっていた聖良は慌てて頭から三塁に戻る。
「あぶねぇ!」
 あやうく牽制死するところだったが、どうにかタッチより先にベースに戻れた。三塁コーチから「しっかりせんかっ」とどやしつけられる。
「ちぇっ。……てめぇ、わざとごちゃごちゃ喋ってオレをアウトにする気だったな!」
 あんまり大声を出してはまた三塁コーチに怒られかねないので、聖良は小声で翔太に文句を付ける。
「さすがに簡単にはひっかからなかったな」
 悪びれる風もなく、翔太は笑う。
「ちくしょう。覚えてやがれ」
「ははっ。だけど、水沢には一番が向いてると思ったのは本当さ。水沢のほうが足が速いんだからさ。森村だって相当なもんだけど、足があることでどっちが怖いって言ったら、どうしたって水沢って話になるからな」
「くっ」
 聖良は言い返せずに唇をかんだ。
 他ならぬ彼女自身が、この打順に不安を持っているのだ。
 聖良もプロ野球の中にあってはそこそこ俊足で通る。しかし、今でも百メートルを十一秒代前半で走る穂の前では形無しなのは、聖良本人もよく判っている。
 とにかく出塁が義務づけられる一番打者に比べて、二番打者は犠牲バントで進塁させる役割が必要になってくる。その分、出塁回数はどうしても減る。
 盗塁王を狙える俊足である穂をそんな形で使っていいのか。
 聖良が不機嫌そうな顔で思い悩んでいる間に、穂のカウントは1−1となっていた。
 ここで、穂がヘルメットのひさしに手をやり、聖良のほうを向いてさりげなくサインを送ってきた。
 はっと息を呑んだ聖良は、翔太をはじめとするレオパルズの守備陣に気取られぬよう、リード幅を狭くしてタイミングを計る。
 埼玉レオパルズの松崎はスクイズを警戒して牽制を二度続けたが、聖良は難なく三塁ベースに戻る。
 ようやくキャッチャーに向けて投げようと松崎が足を踏み込んだ瞬間、聖良はその場でホームに向かって陸上式のクラウチングスタートの構えを取った。低く構え、尻を持ち上げてその一瞬を待つ。
 高めに入ったボールを、穂が腕を伸ばして強引にひっぱたいた。打球はホームベース前二メートルほどの位置でワンバウンドして大きく跳ねた。
 サードの翔太が、じれったいほどの滞空時間をもって落下してきたボールを素速く捕球し、身を翻して送球すべき場所を探る。
 が、打つと同時にスタートを切っていた聖良はダッシュを利かせてホームに駆け込み、球界屈指の俊足を飛ばす穂も一塁ベース上を駆け抜けたところだった。
 翔太は忌々しげにボールをグラブの中に打ち付けた。
 穂が一塁ベース上で、ベンチへと戻る聖良に向けて手を振っていた。
(ま、なるようになるか。水沢さんに任せておけば、間違いはねぇもんな)
 そう悪くない気分で聖良は親指を立てて穂に応じた。

(4)


 オープン戦も終盤に入った頃、東京ガイナックス戦を前に、涼は一軍昇格を告げられた。
 今期のマートレッツ投手陣は仕上がりがあまり良くないらしい。何名かが代わりに二軍落ちを知らされていた。
 入れ替わりの顔ぶれを見る限り、涼に与えられた役割は先発ではなく、中継ぎを視野に入れたリリーフとしてだった。
「沢村翔子さんみたいな使われ方をするってことなのかな……」
 翔子もかつては対左打者用のワンポイントリリーフとして頭角を現し、現在のようなリリーフエースとしての立場を確立したのだ。翔子も涼も同じ左投げ。期待のされかたが同じであったとしても納得はいく。
 涼の中には、先発にこだわりもあるが、まずは自分の居場所を確保するのが先だろう。
 対ガイナックス戦の試合が始まると、涼はブルペンで落ち着かない時間を過ごす事になった。
 リリーフの役目を頭では理解していても、体験するのは初めてだ。出番をじっと待つ経験すら、高校時代には無かった。

 今日の試合は、柳葉悟がマートレッツの先発マウンドを任されている。キャンプから出遅れていた柳葉はここ数試合、中継ぎで登板していたが、先発は今日が初めてだ。
 試合展開を睨んで涼の登板もありえるのだが、どうしても試合が気になる。幸い、オープン戦を開催している地方球場のブルペンはファウルグラウンドに設置されているので、試合の様子は直接観戦出来た。
 ガイナックスには、あの高杉宏樹がいる。
 ふと気づくと、高杉の一挙手一投足に目を向けている自分に気がついて、涼は頬を赤らめた。
 高校野球のスター選手はそのままプロの看板選手となっている。涼よりもずっと先を進んでいるのだ。
(私のことなんて、もう忘れちゃってるのかな)
 高校を卒業するまでは、涼のおでん屋にもしばしば顔を出していた高杉である。しかしプロになって寮生活を送る中ではさすがに顔を出しにくくなったのか、店に来ることはなくなっていた。
 涼がプロになったあとも、直接話をする機会は得られずにいる。
 試合は盛り上がりを欠いて進んだ。柳葉は六回を三失点。かろうじて及第点という戦績でマウンドを退いた。三番に座る宏樹には二打数一安打。第一打席では三振を奪ったものの、第二打席でセンター前に綺麗にタイムリーヒットを弾き返された。
 対するマートレッツ打線も六回までに三点を奪っていた。
 九回裏。この回の頭から涼が四番手として登板することとなった。この回の先頭打者は九番から。
(一人でもランナーが出れば、高杉君に打順が回る……)
 高校三年間、何度も対戦を繰り返してきた。三年間を通じて、如月高と如月女子高は公式戦で火花を散らすライバル校同士であったし、もっとも手近に練習試合を組める相手でもあった。
 打たれた事もあれば、抑えた事もある。
 しかしそれも全て、高校時代の話だ。
 涼がマウンドに立つと、ひときわ大きな歓声があがる。
 彼女が悲運の天才投手、早川英彦の忘れ形見であることは大抵の野球ファンが知っている。高校時代の活躍も記憶に新しい。二年のブランクを経て、彼女がどんなピッチングを見せるのか、期待をこめて観客が見守る。
 いまさら臆する必要はないのだ。ことさらに涼は自分に言い聞かせた。高校時代の三年間ですら、体格に勝る男子相手の戦いであり続けたのだから。
 初球。キャッチャー・深水のサイン通り、低めにストレートが決まる。
 柳葉におそわったコツを、いまや涼はすっかり自分のものにしていた。
 肩に入っていた無駄な力がすうっと抜けるのを感じて、口元を緩める。
「いける」
 イナヅマボールを温存したまま、ピッチャーの代打に出た五藤に続き、一番・東志を討ち取る。
 ツーアウトになったところで二番の源木。ここで涼はストライクゾーンにボールが入らず、あっさりと四球を与えてしまった。
 三番・高杉宏樹がゆっくりと打席に入る。
 涼は反省していた。心のどこかに、対戦したいという気持ちが芽生えてしまった。そのせいで、源木を全力で討ち取ろうという気力が萎えてしまったのだ。
 悪いクセだな、と涼も自覚している。たいていの場合、こうやって気を緩めるとあとで相手に手ひどい目にあわされるのが常だ。
 だが、やってしまったものは仕方がない。開き直って改めて高杉と対峙する。
 初球、深水のサインは内角低め。注文通りに球に勢いの乗ったストレートを投げ込むが、高杉はバットを動かさず見送った。
 二球目はバットがぎりぎり届こうかという外角にはずした。これも反応はなし。続く三球目、再び外角低めへ、前の球よりボール一個分だけ内側にカーブを落とす。高杉はこれをカットする。
 四球目。あえて高めへの吊り球。高めをとる新ストライクゾーンにあっては、黙って見送るのが難しい球。その筈だったが、狙いより低く入った。
「しまった!」
 が、高杉はこれもカット。ファウルグラウンドへと打球が飛び去る。
 涼は直感的に高杉の考えが判った。
(イナヅマボールを待ってる……?)
 思えばイナヅマボールをいずみに痛打されたのが、プロ入りのきっかけだった。
 高校三年間、高杉相手の勝負ではイナヅマボールを決め球に使ってきた。討ち取ったこともあれば、手痛い一発を浴びたこともある。
 ここぞという局面では打たれていた事のほうが多いような気がする。
 だけど、逃げるわけには行かない。わたしだってプロなんだ。
 五球目。強気の深水はもう一度内角をえぐるストレートを要求してくる。しかし、涼は首を振った。
 心中を見透かしたように深水からはイナヅマボールのサインが出た。
(ここで高杉君を抑えられないんだったら、いずみさんにも、……勝てない!)
 サイドハンドから、渾心の一球を放つ。内角を衝くかに見えたボールはイナヅマの名の通り白い閃光のごとき残像を曳き、二本の回転軸を与えられて急激に軌道を変化させ、外角低めへと逃げていく。
 高杉のバットが一閃した。それだけだった。
 打球は高々と舞い上がり、センターバックスクリーンへとたたき込まれていた。
 マートレッツのサヨナラ負けであった。
「次は日本シリーズで勝負だよ、ガンモちゃん!」
 高杉の頓狂な声が涼の耳に届いた。しかし彼女はなにも言い返すことが出来なかった。

「要は使い方なんだ」
 ベンチに戻り、うなだれる涼に、山木は静かな口調で言った。
「イナヅマボール自体の威力がない訳じゃない。しかし、高校時代に君との対戦でその独特の軌跡を覚えている高杉は、内角に向かってくる球が外角に逃げることを確信して、バットをあわせることが出来た。回転の多い変化球の球質はどうしても軽い。当たれば飛ぶ」
「はい……」
「沢村翔子のビデオでも見て勉強することだな。球の威力では早川は彼女に勝っている。配球の研究次第で真価が決まると考えろ」
「はい」
「ま、オープン戦だからな。気にすることはないさ。ヤツは特別だよ。並のバッターには打てる球じゃない」
 先発した柳葉が、しゅんとなった涼を珍しく慰めてくる。しかし、涼は素直にうなずけない。柳葉の楽天的な考え方を羨ましく思うだけだった。

 ベンチ裏に引き上げてきた涼を、報道陣が取り囲んだ。
 父が謂われ無き八百長疑惑によってプロ球界を逐われたこともあって、涼はマスコミが苦手だった。自分たちの思惑にのって動くのが当然、といわんばかりの彼らの態度がどうしても受け付けられない。
 向こうが一枚上手でした、と繰り返すのが精一杯だった。
 ようやく取材が一段落して人垣が崩れ、一息ついた涼の元に、一人の女性が姿を見せた。
 ヤマトスポーツ記者・日下まことだった。
「久しぶりね、早川さん。プロ初登板、お疲れさま」
 彼女は高校時代から涼を取材し続けている関係で、取材嫌いの涼にとって気を許せる数少ない例外の存在だった。
 自然と涼の表情もほころぶ。
「日下さん……。すみませんでした、情けないところ見せちゃって」
「なにも私に謝る必要はないけど」
 苦笑した日下は、福岡ハーキュリーズの氷室いずみが、中部ドルフィンズの川中剣信から四打数四本塁打を達成したと告げた。
 しかもいずみは一本足打法だという。
 紛れもなく、比類無き長距離打者であった皇直伝の打法であろう。キャンプの中盤からいずみの名前を聞くことがなくなっていたのは、おそらくこの打法を極秘に特訓していたからに違いない。
「負けてられないですね」
 涼は小さくつぶやいた。言葉とは裏腹に口調には力がなかった。
(高杉君はわたしよりずっと上を行ってる。いずみさんも進化している。わたしも、今のままじゃダメなんだ……)

 ――第五話に続く

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