熱球戦録ヴァルキューレナイン

――プリンセスナイン・プロ野球編


第六話




(1)


  対ファランクス三回戦を終え、涼はベンチから引き上げた。
 ここから涼は、他の選手とは別行動だ。同じロッカールームで着替えをする訳にいかないのが、女子選手の共通の悩みだった。
 女子専用のロッカールームを備え付ける球場もちらほらと出てきているが、多くは審判用の更衣室を借りたり、女子トイレで着替えを済ませたり、と苦労している。
 涼の場合も、マートレッツにとっての初の女子選手であり、迎え入れる体制が万全だったとは言い難い。
 本拠地であるマリンスタジアムの場合、なんとか女子用に小さな更衣室が確保されているだけマシなのかも知れなかったが、あろうことか対戦相手に女子選手がいた場合、共用を余儀なくされるのだった。
 敵味方が同じ場所で着替えるという、いささか妙な光景になるのだが、涼はあまり気にしない。女子選手同士という連帯感や親近感があるし、涼にとっては目指すべき目標である、ファランクスの沢村翔子が相手であればなおさらだ。
(だけど、気まずくない筈はないもんなぁ……)
 どちらも着替えをしている間は、互いに無言だった。涼には、いろいろと聞きたいことがあったのだが、いざ間近にその存在を意識するとなにから話を切りだしていいものか判らない。
(沢村さんはわたしのこと、どんな風に思ってるんだろう?)
 涼が話のきっかけを考えあぐねていると、ありがたいことに翔子のほうから声を掛けてくれた。
「あとで少しお話がしたいんだけど、いいかな?」
 先輩の余裕というべきか、その口調にはいささかの迷いもない。
「はいっ」
 もちろん、涼にも異論のあるはずがなかった。 

 十分後。
 涼は千葉マリンスタジアムのすぐ近くにある喫茶・軽食の店で、窓際の席に座って翔子と向かい合っていた。
 客は二人の他に誰もいない。球場に来ていた観客は誰も立ち寄らない穴場なのだろうかと涼は不思議に思うが、他人の目を気にしなくていいのは好都合には違いない。
 理由はどうあれ、別チームの選手が密談をしていたのでは、いらぬ噂がたたないとも限らないからだ。
「あの……、話ってなんでしょうか?」
 オーソドックスなメニューの中からナポリタンやドリアを注文した後、涼はおずおずと切り出した。
「ん? まあ、これといった話がある訳じゃないんだけどね。早川さんがどんな人か、いちど会っておきたかっただけ」
 緊張気味の涼に比べ、さすがにプロとしての経験を積んだ自信があるからか、翔子は落ち着きのある笑みを浮かべた。
「はぁ、そうですか」
 我ながら間の抜けた返事だな、と思いながらも涼は翔子が何を話してくるのか予測できず、自然と身構えていた。
「チームの人たちとはうまくいってる?」
「はい、一応は」
 反射的に、柳葉のへらっとした顔が涼の脳裏に浮かぶ。彼がいなければ曖昧な返事すら出来なかったかもしれない。
 それにしても柳葉さんが真っ先に思い浮かぶなんて、という複雑な思いが自然と涼の表情に出てしまったのか、翔子がくすりと笑う。
「そう。それは良かった。わたしも入団したときは大変だったから。二軍スタートで、出番もなくて。一軍にあがってもしばらくは対左のワンポイント。最初の頃はずいぶんと悩んだわ」
 軽い口調ではあるが、翔子の言葉には重みがある。涼は居住まいを正して深く頷いていた。
「それを解決したのが『ストライクイーグル』だったんですね」
「変化球が全てってのも悔しいから、それが突破口になったんだと思いたい。でも、早川さんにも必殺技があるでしょ。『イナヅマボール』っていう」
 笑みこそ絶やさないが、翔子の探るような目つきに、涼の背筋が思わず伸びる。
(ここは素直に手の内をさらすべきだろうか? それはプロとしてまずくないかな。で、もしここで喋っちゃったりしたら『簡単に企業秘密を口にしちゃだめよ』とか怒られちゃうのかな?)
 涼は咄嗟に、頭の中で目まぐるしく翔子の反応を予測する。が、結局考えあぐねて自分の思いを正直に全部話すことにした。駆け引きは球場の中だけで充分だ。
「はい……。でも、あれだけで戦っていけるのか不安もあるんです」
 本心からの言葉だと判ってもらいたくて、涼は肩の力を抜いてこたえた。
「早川さんは、サイドからの球は速球とイナヅマボールだけ?」
「え?」
「あ、ごめんごめん。スパイするつもりで聞いたんじゃないの」
 翔子のほうが自分の問いの危うさに気づいてか、慌てて両手を振った。意外に子供っぽいしぐさに、涼の緊張もゆるむ。
「いえ、どうせすぐばれちゃうことですし」
「そっか……。だったら、サイドからもう一つ変化球が欲しいな。イナヅマボールは速く鋭く落ちる系統の球だから、遅く大きく落ちて目先を狂わせるような変化球」
「新しい魔球ですか」
 まじめな顔になる涼をみて、翔子がくすりと笑った。
「魔球、か。そうね、そう呼ばれるぐらいの変化球をマスター出来れば言うこと無いわね」
「判りました。なんとか考えてみます。ありがとうございました」
 まったくアテはないのだが、涼としては光明を見つけた思いだった。
「楽しみにしてる。頑張って。あ、でも、ウチと対戦するときはあんまり頑張ってもらっても困るんだけどなぁ」
「それはこっちの台詞ですよ」
 二人は顔を見合わせ、声を挙げて笑った。

(2)


 いずみのバットが一閃し、打球は高々と舞い上がった。長い滞空時間を経て、ボールはブルースタジアム神戸のレフトスタンド中段へと落ちる。力任せの弾丸ライナーではなく、バットとボールの反発力を最大限に活かした芸術的な一打だった。
 左右の違いこそあれ同じバッティングフォームだけでなく、その弾道までもが皇監督の現役引退間際当時の円熟したバッティングを彷彿とさせる。
 単純な膂力では、いずみはプロ野球の世界では下から数えたほうがはやいだろう。だが、長打を放つには筋力だけが求められる訳ではない。
 自分の身体を制御し、最適のタイミングを計ってバットを振り抜く、生まれついてのセンスが大きくものをいう。そして、いずみには確かにそのセンスが備わっていた。
 スタンドを揺るがす歓声にもまるで意に介さず、淡々とした調子でダイヤモンドを一周したいずみは、出迎えの選手達のハイタッチを終えるとため息混じりに三塁側のハーキュリーズベンチの隅に腰を下ろした。
 今日の対ブルーウィングス戦はハーキュリーズにとって十五試合目になる。いずみが放ったホームランはすでに十本を数え、皇監督の持つ年間本塁打数記録の更新に期待がかかるほどの勢いだった。
 だが、いずみの好調とは裏腹に、チームの調子はいまひとつ上向いて来ない。
 混戦模様と評するにはまだ時期尚早のきらいもあるが、どのチームも決定打に欠く状況になっていた。現在のところ埼玉レオパルズが〇・五ゲーム差でトップになっているが、最下位との差も二ゲームしかない。
 ハーキュリーズに関して言えば、投手陣にいまひとつ精彩を欠き、競り負ける事が多い。
 先発陣の駒は揃っているのだが、中継ぎ、抑えで序盤のリードを吐き出してしまうのだ。
(涼がいれば、なんて思いたくはないけれど)
 マートレッツでは、涼はショートリリーフとして連日のようにマウンドに登っている。エースとして信頼されている訳ではないが、それなりに重宝されているようだ。もちろん、いずみは涼がその程度の境遇に満足しているとは思いたくない。だから、中継ぎや抑えの涼がチームに欲しいとつい考えてしまう状況がやるせないのだ。
 もっとも、今のマートレッツは打撃陣が振るわない上に柳葉、黒辺の二枚しか頼れる先発がいない。従って、わずかなリードを細かな継投で守る策以外に選択肢がない状態なので、やはり羨ましいとは言えない。
 いずみの後続であるジョージ=マッケンジーは凡打に倒れ、ハーキュリーズの攻撃が終わった。ベンチに腰掛けていたいずみはポンと両膝を叩き、反動をつけて立ち上がった。
 グラブを手に、サードの守備位置へと軽快な足取りで向かう。
 打てているのは今だけだ、という声は嫌でもいずみの耳に入ってくる。
 いずみも、有頂天になっている訳ではない。
 打撃傾向は分析されているし、一シーズン百四十試合もの長丁場を乗り切る持久力があるのか当人にも判らないのだ。
 だからこそ。
 いずみは思う。自分はとにかく全力を尽くすしかない。かなうならば、自分の調子が落ちてくる前に、涼と勝負したい、と。

「ちぇっ。いずみの奴、また打ちやがった。ちょっと厳しくなってきましたかね」
 言葉通りのしかめ面でベンチに戻ってきた聖良は、同じく傍らに座った穂に話しかけた。
「確かに試合時間が長くなると、集中が切れてくるね」
 ほうっ、とため息をもらしながら穂がうなずく。
 どこかちぐはぐな穂の答えに、聖良は眉間にしわを寄せた。
 普段、自分は気のまわるほうではないと思っている。しかし今回ばかりは、穂がなにか試合以外のことに気を取られているように感じられてならなかった。
 実はそれは、試合の始まる前からうすうす感じていたことだった。
 二人とも、神戸ブルースタジアム近くにある寮暮らしであり、球場入りの時間もだいたいは一緒だ。しかし、今日に限っては穂は十五分ほど遅れてきたのだ。
 知人に会っていたということなのだが、それ以来、聖良の目には穂がどこかうわの空に見えて仕方がない。ベンチでも、グラウンドの上でも不意にためいきをもらすのだ。
 実際、この試合で穂はエラーこそしていないものの、全打席凡打に倒れている。
(大舞台にも動じない強心臓の持ち主の水沢さんだけど、やっぱり何かあったんだろうな)
「なんか、心配事でもありますか?」
 おそらくプライベートなことでの問題だろうと察しがつくだけに、おそるおそる、聖良はそう尋ねてみる。
 穂はすぐに笑顔を作って首を振った。
「別に。試合の行方以外にはね」
 だが、そうは言いながらもなにかが気に掛かっているようにしか、聖良には感じられないのだった。
 しばし沈黙が訪れる。聖良はまともに顔をあわせていられず、グラウンドに目を向けた。
 ハーキュリーズの選手たちはすでに守備位置についているが、ブルーウィングスの先頭打者はまだ打席に入っていない。いずみのホームランでリードしたことで、このイニングからリリーフピッチャーがマウンドに上っていた。投球練習が行われているのだ。
「聖良ちゃんは、好きな人とかいる?」
「はへっ!?」
 話題をそらす意図はありありなのだが、穂のあまりにも唐突な問いに、聖良は思わず頓狂な声をあげてしまう。ベンチの選手達の注目が一斉に集まった。
「……な、なんですか、急に」
 冷ややかな視線を受けて肩をすくめて小さくなりながら、聖良は口をとがらせた。
「聞いてみただけ。なんとなく」
 穂はにこりと微笑む。その顔にはもう、さきほどまで漂っていた憂いは感じられなくなっていた。

(3)


 いずみが第十号ホームランを放ったのとほぼ同じ時刻。近畿ボルテックスの主砲・中宗根が放った弾丸ライナーが、レフトスタンドにたたき込まれていた。ボルテックスファンの歓呼の声がさいたまドーム内に反響する。
「おっしゃーっ!」
 三塁ランナーとして代走に立っていたヒカルは嬉々として、サヨナラ勝ちを決めるホームを踏んだ。
 その場所で殊勲の第七号ホームランを放った中宗根を待ち受けるが、そんな楽しい役回りを他の選手達がヒカルたけに任せるはずがない。
 ベンチから一斉に飛び出してきた選手が待ち受ける中、本塁に帰還した中宗根は、たちまち人の波に押し寄せられ、手荒い祝福を受けることになった。
 
「お前、さっき本気で殴ってたやろ」
 ヒーローインタビューを終えた中宗根が、ロッカーに引き上げるヒカルの首根っこを捕まえた。
「うへ、バレまして?」
 ヒカルは頭を抱えて首をすくめる。
「しょうもないところで鬱憤ばらしはやめとけ」
「まあ、しゃあないですって」
 なんとか冗談めかしてその場を収めたかったのだが、中宗根がまじめな表情だったので、ヒカルは言い訳の言葉を必死で考えざるを得なくなった。
「もっと上を見ておかなきゃ、どうにもならんやろ」
 中宗根はチームのキャプテンも務めている。自分ひとりの成績に一喜一憂していられるわけではない。その口調は真剣だった。
「判ってます。せやけどレギュラーの壁はあついですし」
 なにかと相談に乗って貰えるありがたい先輩の言葉だけに、ヒカルもむげにも出来ないが、決して努力を怠っているつもりもなかった。
「お前には、野球選手としての能力だけやなくて、チームをまとめる力があると俺は思っとる。チームはホームランバッターと先発完投のエースだけでは成り立たん。お前みたいなタイプの選手がきちんとチームの中で発言力を持てるようになったら、このチームはもっと強くなれる。男だろうが女だろうが関係ない」
「判りました。肝に銘じますんで、手ぇ離してください」
「お、ワリぃ。そういうワケやから、腐らんと気張りや」
 自分でもガラにないことを口にしている自覚があったのか、手を離した中宗根は照れ隠しのように思い切りヒカルの背中に張り手を食わせてきた。
「ぐへっ! わ、わっかりましたぁ」
 情けない声をあげながら、ヒカルの中の冷静な部分が、中宗根の言葉に引っかかりを感じていた。まるでヒカルを後継者として扱うような言い回しと、「このチーム」という、どこか他人行儀な言葉。
 だが、このときのヒカルには、それがなにを意味しているのかを推理する余裕はなかった。自分のことで手一杯だったのである。
(そういや、明日からはマートレッツ戦やな。涼も頑張っとるし、なんとかちょっとぐらいええところ見せとかんとな。プロとしてはウチが先輩やねんから) 

(4)


 大阪に向かう新幹線の中で、涼はボールを手に考え込んでいた。
 新しい魔球。どうやればそんなものを身につけることが出来るのだろう。
 イナヅマボールは、涼の父・英彦が編み出したものだ。涼がその球の存在を知ったのは、如月女子校に入学した後のことだった。涼は父親のことをほとんど知らずに育ったのだ。
 八百長疑惑で球界を逐われ、おでん屋として人生をやり直した英彦の過去を教えなかったのは志乃の愛情だと涼も判っている。だが、プロへと足を踏み出した今となっては、もっといろんな事を知っておきたかったという思いが募るのも事実だった。
(高校時代にお父さんとバッテリーを組んでいた木戸監督が、イナヅマボールの原理を知っていたってことは、お父さんはその時にはもう、イナヅマボールを完成させていたんだよね。お父さんはプロになってからも、新しい魔球を編み出していたんだろうか……。わたしには、真似出来ないよ)
 マートレッツの今季の成績次第では身売りもあり得るのだと、如月女子時代のチームメイトである東ユキにうち明けられたことが、涼のプロ入りのきっかけだった。
 だから、涼としてはなんとしても今季の成績に貢献しなければならない。ルーキーとはいえ、涼にはじっくりと地力を身につけていくだけの時間の余裕は無いのだ。
 焦りに似た思いを抱きながら、涼がボールの握りをいろいろとこねくりまわしていると、隣席でその様子を見ていた柳葉が身を乗り出してきた。
「メジャーに行った小宮間さんがさ、前に言っていたことがあるんだ。究極の変化球は、初速が百五十キロで終速が百キロになるような球だ、って」
 涼は魔球云々とは一言も口にしていないのだが、やはり何を考えているかは丸判りだったらしい。
 今更言い訳するのもどうかと思ったし、なにより柳葉の話には興味を惹かれた。
「減速する球ですか」
 つい、聞き返していた。
「加速でもいいとは思うんだけどな」
 普段はふざけた言動でも、野球そのものの話となると柳葉は結構真面目であることを、涼は最近になって知り始めた。
 生まれ持った才能に恵まれた、いわゆる天才だと自称するほどの男ではあるが、かといって練習をさぼる訳ではない。とにかく野球が好きな、良くも悪くも野球バカなだけなのだ。
「加速は物理的にあり得ないですよ。ボールにエンジンがついているならともかく」
 言わずもがなのことを涼は指摘する。柳葉はこだわる様子も見せずにうなずいた。
「小宮間さんが言いたかったのは、変化球の目的はバッターのタイミングを外すのが全てだってことだよ。あの人は、球筋よりも球種が命、って人だったからな。いったん百五十キロの球を予測してバットを振り始めたら、ボールが減速してもそれにあわせてスイングにブレーキをかけるなんて出来ない、って良く言ってた」
 抜群の制球力の持ち主でも、人間としての限界がある以上、狙った位置に百発百中とはいかない。従って、コースを攻める策がどんなに巧妙なものであっても、実現出来るかは運任せになってしまう。
 しかし、投じてからストライクゾーンを通過するまでの時間をコントロールすることは不可能ではない。百二十キロのカーブを投げた筈が、百四十キロの速球になってしまった、などという事は起こり得ないからだ。
「ですけど、そんな変化球を投げられるものなんですか? 空気抵抗を大きくするんだとは思いますが」
 涼には、脳裏に明瞭なイメージを描くことさえ難しかった。
「普通、球の回転が大きいほど、ボールの後ろに出来る乱れた気流が小さくなって、空気抵抗が減るんだ。運動エネルギーをなにかの方法で発散させてやれば失速すると思うんだけどな」
「なにかの方法と言われても、けっきょくのところ私たちが出来るのは球に回転をかけることだけですよ」
「おいおい、ちょっとうるさいぞ」
 最初こそ、涼は他の選手を気にして小声で話していたのだが、次第に熱が入ってくると遠慮がなくなっていた。前の席に座っていた黒辺が、背もたれの上から彫りの深い顔を殊更にしかめ面にして覗かせていた。
「あ、すいません」
「それにな、早川はただ変化球に頼るよりもストレートの制球と球威を磨くべきだな。それでこそイナヅマボールにメリハリがついて長いイニング投げられるようになる。今のイナヅマボール一本槍じゃ、監督だってショートリリーフしか使いようがない」
 と黒辺が言う。
「いや、涼にストレートで勝負しろって言っても無理ですよ。どうせまっすぐでも百五十も出ないんですから」
 真面目くさって柳葉が反論する。
「左で百四十五も出せりゃ、いくらでも手はあるもんだぞ。だが、イナヅマボールのコースはある程度限定されてるからな。確かに今のままじゃ危ないな」
 黒辺が言い切る。涼は思わず不安に目を泳がせた。
「え、そうなんですか」
「大体なぁ、早川はなぜ自分がイナヅマボールを投げられるか、考えたことがあるか?」
「えっと、それは」
 黒辺に真正面から見据えられて、涼は言葉に詰まってしまった。
「普通のストレートでも、ジャイロボールになっているから、でしょ。まっすぐからして球の回転がひねくれているぐらいじゃないと、回転軸が二つあるような変化球なんて投げられない」
 困っている涼の横から、柳葉がにやつきながら代わりに答える。
 ジャイロボールとは、投じられたボールの進行方向に回転軸を持つ球であり、いわばドリルのように空気をうがちながらミットに向かうため、空気抵抗が通常のストレートに対して少なく、伸びのある球になる。
 涼の体格で、曲がりなりにもプロで通用する球速が出せるのも、このジャイロボールの特性に拠るところが大きいのだ。
 黒辺は「そうだ」と柳葉にうなずいてみせた上で、「じゃあなぜ、早川はジャイロボールを投げられるんだ?」と、改めて問いかけた。
 これには、涼はもちろんのこと、柳葉も答えを思いつけずに首をひねる。
「あの、黒辺さんには判るんですか?」
 上目遣いに涼は尋ねた。問い返しをするなと怒られるのを覚悟して身構えたが、戻ってきたのは意外にも穏やかな声だった。
「俺も断言するだけの自信はないがな。早川が、早川英彦の子供だからじゃないかと思っている」
「血筋ってわけですか? 黒辺さんらしくないっすよ、その結論」
 柳葉が混ぜ返す。柳葉の父親は野球とは縁のない男だけに、血統どうこう、という話には反発したくなるらしい。
 涼にしても、英彦の事を持ち出されるとどうにも反応に困ってしまう。
「おいおい。なにも俺は、涼が『血』で投げているとは思ってないぞ」
 黒辺が苦笑を浮かべて首を振る。
「じゃあ?」
 柳葉と涼の声が、きれいに重なった。涼はバツが悪くなって思わず柳葉の横顔を見たが、柳葉のほうは気にも留めていないらしい。
 気にしていないのは黒辺も同様で、腕を振るジェスチャーを交えながら説明をはじめる。
「ボーン・ゴルファーって言葉がある。生まれついてのゴルファー、ってぐらいの意味だな。物心つく頃からゴルフクラブを振り回していた奴だけが出来る、きわめてスムーズなスイングってのがあるんだ。手首の使い方一つとっても、大人になってからゴルフをやりだした人間にはどうしても再現できない」
 それはゴルフだけでなく、全てのスポーツにあてはまるのではないか、と黒辺は続けた。
「たとえば、サッカーなんかでも南米系の選手のボールさばきなんかは、なかなか日本人が猛練習を重ねても追いつけるもんじゃないだろ。人種の違いと言うのは簡単だがな。実際のところ、彼らも、三、四歳か、あるいはもっとガキの頃からボールを蹴っ飛ばしていたからこそじゃないかと俺は思うんだ」
「なるほど。じゃあ、物心つくかつかないかって頃から早川英彦の元で腕の使い方を教わっていたから、イナヅマボールを投げられる、ってことですか。確かにそれだったら、涼にしか投げられなくても不思議じゃない」
 柳葉は深くうなずいた。
 涼は自分のボールをもった左掌を見つめた。自分の中には、まだ自分も知らない可能性が眠っている。そのことがうれしくもあり、また恐ろしくもあった。
「新しい変化球を考えるとしたら、ジャイロの特性を生かしたものにしなければなりませんね」
 それから涼は、柳葉や黒辺を交え、新幹線が目的地に着くまで新しい変化球について熱のこもった議論を続けた。
 柳葉だけではない。みんな野球が好きなのだった。

――第七話に続く

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