仮想プリンセスナイン

  もし、早川涼が氷室いずみを討ち取っていたら?

 はじめに

 時速130キロのストレートを誇る早川涼が如月女子高野球部の投の要であることは今更断るまでもない。いわば、如月女子高野球部は彼女の為に創設されたとすら言える。だが、打の中心選手である氷室いずみが入部する経緯は、非常にきわどいものがあった。
 いずみの入部と涼の退学、野球部の廃部を賭けた勝負は、涼が最後の球を手を抜いた結果、いずみの内野安打となったからだ。いずみが自分のプライドから、自主的に勝負の条件を取り下げていなければ――これも”もしも”としては興味深いが、いささかハードに過ぎる展開だろう。
 ここでは、逆に涼が勝った場合の”もしも”を考える。結局自分から入部することになったいずみには、いずみが勝ったにも関わらず”入部してやる”という空気が感じられた。が、結果が逆になれば、涼といずみの立場には微妙な変化があったかもしれない。


『トラ・トラ・トラ』



――「皇国の興廃、此の一戦に在り」(秋山真之)



<主な登場人物>()内は原作における地位。記述がない場合、原作も同様。

 早川涼(如月女子高野球部ピッチャー)
 氷室いずみ(同サード)
 氷室桂子(如月女子高理事長)
 淀橋(臨海大附属高野球部監督)
 石丸(同投手)



「いずみさんには悪いけど、ここは変化球で……」
 いずみの野球部入部と涼の退学及び野球部の解散を賭けた勝負は、クライマックスを迎えようとしていた。
 ここまでの三球、涼は全てストレートを真ん中に集めている。いずみは内二回をファールし、一度空振り。カウントはツーナッシングと追い込んでいる。
 涼は胸の前に回したグラブの中でカーブの握りを確認する。その時、いずみと目がはっきりと合った。
 貴女には絶対に負けない。いずみの目から炎のように噴き出す殺気は、あきらかにそう語っていた。
「どうして……」涼の脳裏に、対決に至った経緯が駆けめぐる。初めて出会ったときのテニス勝負。テニスボールながらいずみがはじめて金属バットを握って涼の球を打ったときのことをありありと思い出す。
 そして、いずみが大事そうに持っていたペンダント。中には涼の父・英彦の写真が入っていた。あれは一体何を意味していたのだろう?
(どうしてこんなに傷だらけになってまで、私を倒そうとするの? いずみさんを苦しめているのは私なの……!?)
 ハードすぎる特訓で全身をぼろぼろにしながらも、闘志をむき出しにしてバッターボックスで構えるいずみを前に、涼は胸を締め付けられる思いで振りかぶった。
 ほんの一瞬、いずみに対する敵愾心が薄れかけた。それを、心の中で首を振ってうち消す。
(ダメよ! この勝負には野球部の命運がかかってる。私が退部になるのはどうでもいい。だけど、野球に未来を託してる大切な仲間達がいる。それに、いずみさんとは全力で勝負して、決着をつけないと)
 今、ケリをつけなければ一生後悔する。全力で叩きつぶすのが、スポーツにおける勝負の礼儀なのだ。
 変化球はやめよう。その代わり、最後に、最高の直球でとどめを刺す。万一、振り逃げなどで勝負がついては死ぬほどの後悔をする羽目になる。
「でぇぇぇいっ!」
 裂帛の気合いと共に、涼が右脚を踏み込む。左腕が風切り音を立てて振り抜かれた。手首のスナップでボールを弾き出した瞬間、人差し指と中指が親指の付け根を叩き、泡の弾けるような音を立てた。
「疾い……!」
 いずみが左足をすり足で踏み込み、懸命にスイングする。が、加速するような伸びでストライクゾーンの外角低め一杯を襲った直球を、傷ついた身体の付け焼き刃のスイングで打ち返せはしなかった。金属バットの唸りは、蛇が鎌首をもたげるようにホップしたボールの下側をむなしく断ち切っていた。
 鈍い音がして、後方からうめき声が聞こえた。真央が捕球し損ね、右肩に球をまともに喰らったのだ。その速球はプロテクタをしていてもなお、鎖骨が砕けるかと思うほどの打撃を真央にもたらしていた。
「真央! ボール拾って、いずみにタッチするんや!」
 ファーストを守るヒカルが狼狽えた調子で喚いた。実際にはいずみは走り出す気配すら見せていなかったのだが。
 真央はヒカルの叱咤を受け、失神しそうな痛みに耐えて足元に転がったボールを拾う。そのまま、バットを振り抜いた姿勢で呆然としているいずみの背中にボールを押しつける。
「バッター、アウト!」
 主審を務めていた木戸監督が、誇らしげに親指を立てた右拳を天に掲げた。
「やりおったで!」盛大にため息をついたヒカルが大げさに額の汗をぬぐう仕草をする。
「おめでとう、早川さん!」ショート・加奈子がカツラを抑えながらすっとんでくる。
「やっぱおめえの球は最高だぜ!」いずみの方を見てざまあ見ろと言わんばかりの聖良がゆっくりと加奈子とヒカルの後を追う。
 外野からもユキ、小春、陽湖が我勝ちにマウンドまで駆け戻ってくる。
「ありがとう、みんな」
 涼は少し照れ気味の表情を浮かべ、それから、バッターボックスのいずみを見た。
「……負けた? 私が、あの娘に……」
 いずみの身体が力を失い、倒木のように後方に崩れた。
「おっとあぶねえ」
 木戸監督がそれを支え、ゆっくりと地面に寝かせる。傷だらけの身体は、こうなってみると一層痛々しかった。
「いずみさん……」
 帽子を取った涼が、仰向けに寝かされたいずみの元に歩み寄り、膝を突く。
「勝負は私の勝ち。いずみさん、野球部に入ってもらいます」
 涼が静かに勝利宣言を行った。その瞳は二重の喜びに輝いている。
「……」
 目を潤ませたいずみが、それでも最後のプライドは捨てまいとしてか、無言のまま唇を噛んでそっぽをむいた。
「こりゃ、相当に疲れ切ってるな。おい、すぐに保健室に――」
「僕が運びます」
 いつの間にそこに居たのか、如月高校のユニフォームを着た高杉が名乗り出ると、木戸監督の返事を待たず、いずみの元にかかみこんだ。
「宏樹……。ごめん、あの娘の球、打てなかった。宏樹にコーチしてもらったのに」
「いいから。いまはとにかく、身体をやすめるんだ」
「……うん」
高杉はいずみの背中と膝の裏に手を回すと、軽々とその身体を胸の前に抱きかかえた。
そのまま、くるりと背を向けて、校舎内の保健室に向けて力強い足取りで歩き始める。
「……高杉君」
 気勢をそがれた表情でその後ろ姿を見送る涼。と、高杉が立ち止まった。
「これでいずみは、君のものだ。おめでとう、ガンモちゃん」
 その声は、妙に寒々しく涼の胸に響いた。



 いずみは約束通り、野球部に籍を置くことになった。だが、皆と一緒に練習に参加しようとはしなかった。なんの為に勝負をしていずみを獲得したのか、部員達の間に静かな不満が沈殿しつつあった。
 如月女子高野球部部室。
「あのお嬢様は何やってるんだ?」
 パイプ椅子に体重を預け、両足を机の上に投げ出した聖良が毒づく。
「なんか、秘密練習場作って貰って、キューバのナショナルチームの打撃コーチを呼んで、特別コーチを受けとる、ちゅう話や。なあ寧々?」
 聖良の態度にわずかに眉を寄せたヒカルが、何かいいたげな様子のマネージャ・寧々に水を向けた。
「はいですぅ〜。部員の皆さんのことを誰よりもしっておくのがマネージャの仕事、寧々に抜かりはありませんです〜」
「け、全くやることが極端なんだよなあ……」
「そんだけ、涼に討ち取られたのが悔しかったちゅうこと。まあ、気持ちはよう判る」
 小春が自分の言葉に何度も頷いてみせる。かつて、自分が三球三振に討ち取られ、入部することになった経緯を思い出しているのだろう、その口調は同情的だった。
「だけど、守備練習にも全く参加しないってのは困るよね。せっかくこれで9人揃ったのに」
「オレはおめえをものの数に入れた覚えはないけどな」
 陽湖と聖良のどつき漫才が始まったが、今更それを止めに入る者はいなかった。誰もがやれやれといった表情で眺めているばかりだった。

 とはいえ、いずみの行状は、木戸監督も頭を痛めている問題だった。
 練習を始めた八人の選手を見ているのかみていないのか、ベンチ前にかがみ込み、打順とポジションを木切れでグランドに書き付けている。その木切れは空欄のままの4番・サードの位置で弧を描き続けている。
「時速150キロを軽く超えるテニスのスマッシュを、身体ごと飛び込んでラケットで打ち返していたような氷室いずみ。強烈な打球を身体で止めるのが仕事の、サードのポジションに適任なんだが。あの天才のことだから、何度か特守をやるだけでも、随分と守備に違いが出てくるはずなんだがなぁ……」
 鋭さと鈍さを合わせ持ったような音が響き、木戸監督は顔を上げた。しかめ面がわずかに緩む。
 いずみの問題はともかく、勝負の結果がもたらした好材料があった。涼がいずみとの一戦以降、自分の球に自信を深め、思い切った投球が出来るようになっていたのだ。
「真央、捕れなくってもいいから、とにかく身体で止めてね」
 ブルペンのマウンドで、ストレートの握りを真央に示しながら涼が張りのある声を出す。
「うん……」
 涼が大きく振りかぶり、右脚を蹴り上げて剛球を投じる。唸りをあげて飛び込んでくるストレートは右打者の外角低めぎりぎり一杯を衝いていた。真央は捕球し損ね、右足のつま先にまともに球を当てた。
「……!」
 声にならない悲鳴を上げ、転げ回る真央。
「真央さん大丈夫ですかぁ〜、あ、涼さ〜ん、今の球、時速136キロですぅ〜、また記録更新です〜」
 スピードガン片手の寧々が、空いた手を振りながら涼に向かって、頭のてっぺんから出るような声をあげた。
「まあね。ここのところ肩も軽いし、調子が最高にいいんだ」
 涼は凛々しい顔つきを崩さず、寧々に親指を立てて見せた。



 理事長室。
「これは、シナリオを前倒しする必要があるかも知れないわ。時計の針を戻すことはできなくても、進める術はある……」
 この部屋の主たる氷室桂子が言った。机の上に両肘を付き、組んだ両手で口元を隠すような姿勢をとっているため、対面に立つ木戸監督には、その表情の真意が伺いかねた。
「中学じゃあ強豪の明應中との練習試合、勝つことを前提に高野連に女子チームの参加を申し入れる?」
「既に、臨海大付属高にも打診を終えています。もし臨大附との試合、如月女子が勝てば、女子チームの参加を認めるという方向で、話を付けるつもりです」
「強引なやり口なことで。高野連が黙っちゃいませんな」
 木戸監督がおどけたような口調でまぜかえす。
「その前に、今度の練習試合に勝たなくちゃならないってのに? まあ、早川涼の球と、氷室いずみのバッティング。あれを見たら、不可能なことなんて何もないと思ったとしても責められないがねぇ」
 そういう木戸監督自身、いずみの打撃に目処がついたというので、彼女の特訓していた室内練習場で桂子と共にそのバッティングを拝んだのは、つい数時間前のことである。
「実質二年半余りの野球部部員としての彼女たちの青春がかかっています。残された時間は余りに少ないのよ」
「へいへい」
 確かに、運命の歯車は加速をつけて回り始めたようだ、木戸監督はそう思った。かみ合わずに空回りしなきゃいいがな。



 臨海大附属高は、全国に知られた強豪校だけあり、土日となると毎週のように練習試合が組まれる。地区外へ遠征をすることもあれば、強豪校が乗り込んでくることもある。その日も、甲子園常連校とのダブルヘッダーが組まれていた。
 一試合目に登板したエースで四番の石丸は、危なげなく一失点で完投勝ち。二試合目は背番号10の二番手が先発。ライトに回った石丸は三安打で勝利打点を叩き出した。
 敵地のグラウンドに乗り込んでの連勝。野球部のバスで気分良く引き上げにかかった淀橋監督と石丸の前に、校門前で待ちかまえていた記者連が押し掛けてきた。
「ただの練習試合だったのに……。そんなに注目されてましたか?」
「いいや、こいつは……」
 小柄な身体に精気を凝縮させたような淀橋監督が、赤ら顔で渋面をつくる。
 他の部員達へのインタビューはほとんどなく、部員達は拍子抜けした表情でマイクロバスに乗り込んでいく。
 石丸を露払いよろしく先に歩かせ、後についた淀橋監督の元に記者が殺到した。
 案の定、そこで淀橋監督は、噂の如月女子高が明應中との練習試合に快勝したことを知らされた。
 まるで関心なさげだった淀橋が足を止めたのは、ある情報だった。それは、如月女子の四番・氷室いずみが四打数四本塁打の快挙をやってのけた、というものだった。
「噂じゃ、エースの早川って投手のワンマン……あー、ワンウーマンって表現があるのかどうかしらんが……、とにかく投手力が頼みのチームだという話だったが……」
「エースの石丸君が失点を防いでいる限り、いずれは地力にまさる臨海大附が押し切る、そういう読みでしたか?」
「そこまで私は如月女子高のチーム力を把握しているわけではないですから」
 突き出されたマイクをうるさげに手で払いながら、淀橋監督は一人ごちた。
「四打数四本塁打か……。良い天気でやりたいな」



 対臨海大付属高校戦を前にした、如月女子高のロッカールームには、ただの緊張感とは異なった張りつめた空気が満ちていた。
「申し訳ありませんが監督。その作戦はやりたくありません」
 涼がきっぱりと言い切った。
「そんな卑怯な手を使わなくても、勝てます」
「お前ら、本当にまともにやりあって勝てると思ってるのか?」
 木戸監督は己の提示した”オンナノコ作戦”を余りに真正面から切って捨てられて、憮然とした表情を隠さなかった。
「勝てます。いや、勝ちます。私が臨海大の打線を押さえ、いずみさんが相手のエースを攻略します」
自信に満ちた顔つきの涼に、他の部員も口々に言い募る。
「涼のいう通りじゃ。そがいな手をつかわんでも、涼といずみの投打の両輪がうまく回れば勝ち目は十分にあるきに」
「せや。そないにセコい手つこうたってしゃあないやん」
「おっさんの趣味で野球やられたんじゃかなわねえよ」
 経験者の小春とヒカルが渋面を作り、眉をつり上げた聖良がとどめを刺した。
「おい、お前ら……!?」
 木戸監督は部員達の顔を見回した。
「涼が投げて失点を防ぎ、私が打って得点を取る。それだけのことよ」
 いずみが言った。それで大勢は決した。彼女にはそう言い切れるだけの自信と実績があった。

一回表。マウンドに立つ涼の元に、真央が寄る。
「いい? 絶対に後ろに逸らさないで。球を止めてくれるだけでいいから。……それ以上は、期待してないから」
 涼が言った。真央は少し寂しげに「うん」と頷いた。
「なんだか涼、変わっちゃったな……」
 涼は言葉通り、真っ向からの剛球で二者連続三振。三番打者も簡単にツーナッシングに追い込んだ。
 三球目。涼が薄い笑みを浮かべた。ロジンバッグを投げ捨てると、左足をプレートにのせる。振りかぶる。
「?」
 真央が目をしばたかせる。フォームが変わっていた。肩の高さまでつま先を蹴り上げると。ねじ切れそうなほど目一杯に腰を捻ってテイクバックし。サイドハンドからボールを繰り出す。
「……!」
 球はストレートと遜色ないスピードを保ちながら、震えるように微妙な変化を付けつつストライクゾーンを飛び抜けた。バットはむなしく空気を断ち切っただけだった。
 三振のコールを、涼は誇らしげに受けながらベンチへと引き上げていく。
「イナズマボール、完成していたの……?」
一塁側内野席で観戦する桂子が呟いた。彼女の記憶の中に残る、早川英彦のイナズマボール。それを見たくて涼を如月女子に入学させ、野球部を創設した。その事を思えば、やや呆気のないお披露目になった感があった。
 でも。と、桂子は己に言い聞かせた。目標は甲子園出場、そして紫紺の大優勝旗なのだから。

「うん、これで相手の打線はかなりびっくりしてる」
 ベンチに戻ってきた涼が、相手ベンチの様子をうかがって満足げにうなずく。
「ぶちかましにしちゃあ、派手過ぎるわ」
 そういいながらも、ヒカルがうれしさを隠しきれない声を出し、涼の腰に後ろから抱きついた。実戦でこの魔球を見るのは初めてのことだった。
「だって、いずみさんだけのチームだなんて思われたくないもん」
 涼は対明應中戦で見せたいずみの凄まじいバッティングを思い返すと、今でも震えが来る気がした。いずみは涼に破れた屈辱を、異様とも思える闘争心を燃やしてバッティングの歓声という形で晴らしたのだ。
 涼は、今の自分の球ではいずみに勝てない、そう思い知らされる一戦だった。同時に一度は勝利した相手に負けを認めることは絶対にしたくなかった。精神的に追いつめられていった涼は、対臨大附戦直前という土壇場で、幻のイナズマボールを身につけたのだった。
「自信があるのはいいが、自信過剰は怪我の元だぞ、早川……」
「判ってますよ、監督」
 もはや涼は、木戸監督にアドバイスを求める必要性を感じてはいなかった。

「さあ。今度はオレ達の番だ!」
 先頭打者の聖良が金属バットを数度素振りして、打席に向かった。
「いっけえ、聖良! 相手はびびっとるでえ!」ネクストバッターズサークルに出たヒカルが聖良の後ろ姿に声援を送る。
 先ほどの涼のイナズマボールに気圧されたのか、先発の石丸は制球を乱し、聖良にフォアボールを与えてしまった。
 二番・ヒカルはしぶとく球に食らいついて、聖良が一塁ベースにいるために大きく開いた一・二塁間を破った。
「いずみばっかりにええ格好はさせられん」
 堀田が初球を”荒波スイング”で弾き返す。シングルヒットだったが、俊足の聖良は長駆三塁を蹴り、ホームベースに滑り込んだ。

 その後――

幸先の良い先制打に盛り上がる如月ベンチを背に、いずみはネクストバッターズサークルから右打席へと足を運んだ。
 その表情は、意気上がるベンチとは対照的に、不気味に無表情を保っていた。まるで心の中に燃えるものが何一つ無いとでもいいたげだった。
 左手をマウンドの石丸のほうに突きだして制しながら、右手でバットの中程を握って携え、足元を丁寧に均す。バットのグリップを確かめながら握り直すと二度身体の前で旋回させ、左袖を直し、最後にバットを右肩にかついでから軽く背中側に体重をかける。
 バットのグリップが顎の後方で静止した。バットの先端はわずかに前傾している。
 とても付け焼き刃とは思えない、何年もグラウンドを戦場としてきた人間のような風格があった。
 石丸が、気を取り直して初球を投じる。いずみのバットが旋回した。次の瞬間。
 戦艦の主砲弾が目標の敵艦に命中したような、凄まじい金属の響きがグランドを圧した。
衝撃が同心円状に広がり、土埃が舞った。打球は火を噴くような鋭さで、センターバックスクリーンを撃ち抜いていた。
 石丸は度肝を抜かれ、唖然となった。我を忘れたのは彼だけではない。いずみの打球を目の当たりにした全員が――それこそ如月女子の部員ですら、拍手も歓声も忘れるほどだった。
 石丸は、ゆっくりとダイヤモンドを回り始めたいずみを見た。彼女は石丸の存在すら忘れたような横顔をしていた。
 貴方なんかは問題じゃないのよ。ヘルメットの陰で、いずみの口元が皮肉げに動いた。その表情は確かにそう語っていた。

 トラ・トラ・トラ。我、奇襲に成功せり。

(おわり)
 


 あとがき

 今回はイタものから逃れるべく、しょーもない笑いなども交えてみました。しかし、端々に、今後の不安を感じさせる展開になっているのがなんともはや。
 そして、早くも恒例となりつつある、加藤さんからの一発ネタをいただいております。今度はイタくないので(いや、違う意味でイタいか?)、安心してどうぞ。

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